08
関吉は彼女に好意を抱いている。傍から見れば少し歪んでいるかもしれない。しかし関吉本人にしてみれば至って真面目な、真剣な恋心だった。高嶺の花だとか、近寄りがたいとか、そう言われて遠くから見られることの多い彼女に好意を持ったのは、何てことはない。単なる一目惚れである。それから関吉は彼女のことを見続けた。生憎同じクラスになることは叶わなかったが、それでも見続けて、いつも彼女が持ち歩いているポーチに目をつけたのだ。彼女や、そのクラスメイトが教室からいなくなる時を見計らって、彼女の鞄からポーチを取り出す。目的は、彼の理想とする彼女に似合わないから処分してしまおうと思ったから。しかし、ポーチを失くしたと気付いた彼女が必死に探しているのを知り、返すことにしたのだ。それが終業式、初めて彼女に話しかけた理由だった。
しかし当然ながらそんなこと、彼女は知らない。関吉と言う生徒も終業式の時に初めて存在を知ったし、自分に好意があるなんて気づくはずもない。彼女は日々、自分と家族が生きることに精いっぱいだったのだ。そもそも、誰かからの好意に応える程の余裕などなかった。そして何より、その生活に危機を及ぼした関吉の存在は許せるはずもない。しかし彼女は何もしなかった。これ以上相手から何か危害を加えないのであれば、関わりたくないと言う気持ちが強いので、彼女は関わらないことにしたのだ。
そんな彼女に不満を持つのは、彼女の唯一の友人と言っても過言ではない彼だった。彼は彼女に好意を抱いていて、尚且つそれを彼女に伝えている。返事は貰っていないし、急かすつもりもない。ゆっくりと、彼女が自分に対しての答えを返してほしかった。それが例え、彼にとって良い物でなくても。
そんな彼らが鉢合わせすると言うのは、運命の悪戯か。はたまた単なる偶然か。あからさまに機嫌を悪くする者、澄ました表情でスルーしようとする者、白々しく容態を聞く者と様々だった。
「スイレンさん、体調は大丈夫? いきなり倒れたから心配だったんだ」
「ええ、まあ」
「おい、近付くな」
彼女は図書館に行く途中だった。先日行けなかったからだ。彼はコンビニに行く途中だった。飲み物と昼ご飯を買いに行こうとしていたのだ。関吉は彼女を待ち伏せていた。彼女に会いたかったから。
「スイレンさん、最近変わった? 何だか前と違う印象を抱くんだけど」
「嫌ならもう付き纏わないでくれる?」
先日、彼女が倒れた際に、彼と関吉は互いの彼女への気持ちを口にした。そして、所謂恋敵だと知ったところで関吉は抜け駆けをする為、彼はけん制する為に必死だった。
今にも言い争いが始まりそうな二人を放って彼女は図書館へ向かう。二人の声を背に、涼しい室内へ逃げ込むのだ。
彼女が図書室に着くと、目立つ金髪の男性が本を借りている様子が見えた。普段ならば他人が何を借りようが気にならないし、他人を気にしている暇もない。しかし、その金色の髪を持つ男性は髪色からか、或いは紫のヘアバンドからか、やけに目に入った。
大量に借りた本は一週間で読み切れるのか謎だったが、彼女は参考書を探してから勉強スペースへ移動する。夏休みの課題を片付ける為、休み明けの授業の予習復習の為。
まだ小学生や中学生の頃は、自分とは縁遠い施設だと思っていた。静かすぎて落ち着かないのだ。本を捲る音、何かを書く音、小さく話す声、人の足音、検索機を使う音、パソコンのキーボードを叩く音、カウンターの人の声。音も声も沢山あるのに、彼女にとってその空間はやけに静かに感じられた。ここに来るのは夏休みだけ。必要な参考書を借りに来ることもあるが、勉強するのは夏休みの間だけ。参考書を机に置いて腰掛ける。鞄から課題のプリントとノート、筆記用具を取り出して、早速取り掛かった。
一時間程経った頃だろうか、彼女の集中力は途切れた。それは、マナーモードにしていた携帯電話が震えたから。彼女は貴重品だけ持って図書館の外に出る。そして未だ震える携帯電話を開いて電話に出た。出る直前に見たディスプレイには父親と表示されていた。
「一体何の用? 私、今図書館にいるんだけど。朝言ったよね」
電話越しに父親は謝り、そして用件を伝える。
「……は?」
父親は用件を伝えるとさっさと通話を終了してしまい、通話が切れた音が鳴る。彼女は少しの間、そこから動けなかった。
その日、彼女の妹達は臨海学校で家にはいなかった。父親と二人になるのは随分と久し振りで、ただそれが嬉しいわけでもなかったが、食費が多少浮くことが嬉しかった。今夜は多少低予算でもよいのだと嬉しかったのだ。ただ、父親がいる限り「多少」ではあるのだが。
父親からの電話は、今夜は忙しくて帰れないという内容だった。珍しいこともあるものだと初めは思ったが、父親が帰らないと言うことは、今夜は彼女一人が家に残されると言うことだった。
一人でいいなら、と買い物には行かずに家にあるもので晩御飯を作った。お風呂も一人なら、と沸かさずシャワーで済ます。使う部屋以外の電気は全て消して、好きな番組を見る。しかし、家の中に自分以外の人間がいないことはやはり静かに感じられて、玄関の戸締りを確認した彼女は早々に自分の部屋へ移動した。
外は雨が降っている。昼間は晴れていたはずが、十九時を回った頃から降り出した。雨は次第に強くなり、ゴロゴロと雷の音が鳴っている。部屋で夏休みの課題を始めるも、雨の音は彼女の眠気を促す。ウトウトし始めて仕方なくノートを閉じると彼女は布団を敷く。
お手洗いを済ませて部屋の電気を消す。目を閉じて布団の中に入り、落ち着くポジションにつくと眠りについた。
二時間も経たないうちに彼女は目を覚ますことになる。雷が落ちる音に驚いて、暗闇の中目を開けた。起き上がり、電気を点ける為にスイッチを押す。パチンッと強い音がしたかと思えば一瞬だけ光り、そして再び消えてしまった。
「…………は?」
何度もスイッチをカチカチと押すが、電気が点く気配はない。しんと静まり返った暗闇がそこにあった。停電したのかもしれないと思った彼女はその場にしゃがみ込む。こみ上げる涙を我慢する癖は母親が亡くなってから培われてしまった。暫く動けないでいたが、のそのそとゆっくりした動きで部屋を出る。念のために廊下の電気を点けてみるが、やはり点かない。停電だと確定したところで、彼女にとっては絶望しかなかった。
とにかく明かりが欲しい。ゆっくりと階段を下りる。その目には涙がじわりと浮かんでいた。普段の彼女を考えれば珍しい様子である。下った階段から居間へ行く廊下さえ長いと感じてしまうくらい、彼女は今の状況に恐怖していた。
眠る前に忘れてポケットに入れていた携帯電話の存在に気付き、急いで開く。充電はあと少し。震える両手で電話帳を見る。彼女の電話帳には学校への番号と自宅の番号、父親の番号とアルバイト先の番号。そして、夏休みに入る直前アドレス交換した彼の番号が入っている。選択肢は二つ。父親に連絡するか、彼に連絡するか。プライド等無かった。彼女はとにかく誰かの声を聞きたかった。
もう一度ピカッと雷が光る。雷自体は怖くないのだが、近くに落ちたらしくその音にビクリと肩が震えた。その拍子に通話ボタンを押してしまう。コールが鳴っていることに気付きもせず、その場に座り込む。一瞬の稲光は尚更恐怖を煽るもので、彼女はもうその場から動くことが出来なかった。
三十分もしないうちに、玄関のドアノブをガタガタさせる音が聞こえる。彼女はそれに気付いたが動けなかった。ガタガタと言う音が止んで一分弱。彼女が座り込んだ場所から居間の戸が開いており、そこから中が見える。ドンドンッと窓を叩く音が聞こえ、思わずヒッと声が出た彼女は少しだけ居間に近付いた。
数回叩く音が聞こえるが、それが止むとガラッと窓が開く音が聞こえる。そして入り込んだ風雨でカーテンが揺れ、誰かが入り込んで来るのが分かる。
「スイレン!!」
そう彼女の名前を呼んだのは、雨に濡れた彼だった。
「な、んで……」
「電話くれただろ。出ても何も言わねえし、停電してるから何か困ってることでもあるんだと思ってな」
すうっと涙を流す。知っている人が目の前にいると言う安心から気が抜けたのだろう。
「どうした!?」
慌てた彼は彼女の肩を掴んだ。彼は彼女が抱く恐怖を知らない。家中の灯りが消えて、自分のいる場所が暗くなると彼女は恐怖を抱いてしまうのだ。まだ妹達がいない頃、夜に家で一人になるとその恐怖は増幅した。妹達が家に来てからはそんなことも無かったのだが、今回はタイミングが悪いとしか言いようがない。
そんな理由を知らない彼は、とにかく彼女を泣き止ませたかった。勝手に入ったことに怒っているのか、居間を濡らしてしまったことに怒っているのか、彼の脳内は謝罪の言葉で埋め尽くされる。しかし、実際に起こしたアクションは違った。
震えながら泣き止まない彼女を、耳元で「濡れててごめん」と言いながら強く抱きしめれば、彼女の震えが次第に止まっていく。
ドクンドクンと心臓の音が伝わって、互いの体温を分け合うように密着していた二人は数分間そのままだった。そして離れると、彼女は泣き止んでいて、しかしまだ潤んだ瞳で彼を見る。
「どうして、破天荒が……」
「さっきも言ったけど、電話くれただろ」
「あ……」
手の中にある携帯電話を見る。とっくに通話は切れてしまって映っているのは待ち受け画面だ。少し操作して発着信履歴を見てみれば、一番上にあるのは彼の名前。驚いた拍子に通話をしたのは彼だったのだ。
「それにしても、お前こそ何でこんな……」
「ごめん……ちょっと苦手なのよ。真っ暗なのが……」
「妹達と父親はどうしたんだ?」
「妹達は臨海学校。おや……父は仕事で今夜は帰らないって連絡が来た。だから今日は一人だったの」
大分落ち着いたらしい彼女はいつものような声音で話す。それでも彼は心配なのか、彼女の髪を、頭を撫でて濡れている頬を親指で拭った。
彼は彼女に聞いて懐中電灯を探し出し、居間の電気のスイッチを入れたままにして蝋燭を探した。開けっ放しにされた窓を閉めて、居間に置きっ放しにしていたクッションを彼女に抱かせておいて、常に会話をしながら蝋燭を探し出し、更に着火ライターも持ってきて居間のテーブルに並べる。蝋燭に火を灯し、一度懐中電灯を切って漸く一息ついた。
「それにしても、随分と早い到着だったように思うんだけど……そんなに家が近かったっけ?」
「俺の部屋に懐中電灯無くてさ。困ったから駅前の方まで行って買ってこようかと思って外にいたんだよ」
「何というタイミング」
「そしたらお前から電話が来て、出てみれば何も答えないし、停電で何かあったのかと思ってな。実際、何かあったわけだが」
「やめてよ……恥ずかしいんだから」
彼女の頬が熱くなっていく。醜態を晒してしまったことからか、或いは別のことからか。彼女本人も理解出来ていなかったが、心臓が再び速くなっていくのが分かった。するとバチッと電気が点く。いきなり点いたことで一瞬眩しく感じるが、灯りが点いたことにより二人は安堵した。そしてテレビをつける。停電の原因が落雷であることは彼のスマートフォンによって知っていたが、現在どれくらいの被害があるのかは分からないからだ。
「この辺は停電だけだな」
「それも終わったし、あとはこの豪雨がどうなるか、ね」
「雷もまだ鳴ってるし、油断できないな」
テレビのニュース番組は、この辺の豪雨、落雷、停電の話をずっとしている。時々中継で街の様子を映し出しては必要な地区に避難を促したり、安全を確保するよう言ったりと大変そうだ。
彼らは少しの間沈黙のままだった。灯りが点いたことで気が抜けたのだろう。今はただ、安心感に浸っていたい。彼女はそう思っていた。
結局のところ、雨の勢いが弱まるまで彼は彼女の家にいて、寝ることも出来ずにお互い朝方まで起きていた。彼は多少の眠気と共に自分の部屋へ戻り、彼女はそれを見送る。別れ際、ありがとうと言うと玄関の戸を閉めた。そして彼女は漸く、安眠出来るのだった。
2016.10.02
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