不思議なもので、前日まで気が気じゃなかったと言うのに当日になると心は落ち着いていた。覚悟が出来たかと言えば答えは否だけど、成るようにしか成らない。僕らはこの日まで、一人暮らしの話題を避けてきた。あの時の口喧嘩のことも。今日、一体何を話されるのか、不安しかないけど、何があっても僕は僕の気持ちを素直に伝えるだけだ。それが彼女を困らせることになっても、僕らの関係が今とは違う何かになったとしても。
一日暇な日を選んだけど、待ち合わせは昼頃。明確に時間を指定していないのは、何となくお互い、同じ時間に家を出るような気がしたから。昼食を食べる気にはならなかった。ナツ達とクリスマスパーティーに行くらしいルーシィは先程見送って、完全に暇を持て余している。時間が空くと何を言われるのか考えてしまって、それが悪い方へ向かうものだから落ち着いていた心が乱れ始める。時計を見るとあと少しで昼頃。準備を整えるには丁度いい時間かもしれない。
鏡の前に立ってみるが、どんな話をするのか分からないのに服装が決まるわけがない。結局いつものTシャツとカーゴパンツにコートを着た。持ち物はポケットに財布とハンカチ、ポケットティッシュを入れる。外は明るいが気温は寒いだろうから手袋とマフラーを身に着ける。靴も動きやすいスニーカー。出掛けることは廊下を歩いていたアクエリアスに伝えて、少し早い気もするが家を出た。隣家を見ても彼女の姿は見えない。
ゆっくり歩いて公園まで行けば、陽の当たるベンチに座って本を読んでいる彼女がいた。まだ時間――正確に言えば彼女の言う昼頃には早いと思っていたのだけど、もしかして僕は遅刻したのだろうか。本から顔を上げた彼女と目が合った。
「ああ、ロキ。こんにちは」
「えっ、あ、こんにちは……?」
どうして少し他人行儀なのか。
「大丈夫、私は10時頃からここで本を読んでいたから。昼頃にはまだ少し早い方だよ」
何で僕の考えを読むかな。
「家にいてもやることがなくて。宿題も手に着かなかったから。ロキが少し早く来てくれてよかった」
本をパタン、と閉じる仕草はいつも通り。こんなことならもっと早く来ればよかった、なんて思ったけど、あんまり早いと子供が遊んでいる可能性もある。今の時代、外で遊ぶ子供が減ったとは言え、冬休みだ。それこそ10時頃には子供がいたのかもしれない。今は全くいないけれど。やはり冬だからか、それとも昼時だからか。
「早速、話を聞いてもいい?」
「んー…………寒い」
「だよね!」
ベンチから腰を上げた彼女と歩いて自販機の前にやってくる。小さな公園でも自販機を置いてくれていて助かった。温かい紅茶を彼女は購入して、僕はコーヒーを購入する。飲み物を持って振り返れば、両手で包むようにペットボトルを持つ彼女がいた。可愛い。本のページを捲る為に手袋を外していたんだから、それはもう冷たくなっているだろう。ペットボトルを頬に寄せる仕草は可愛い以外の言葉が見つからない。その冷たい手を握る勇気が僕には無かったけど。
ゆっくり歩いてベンチまで戻る。他の人が一人もいないこの空間に風が吹き抜けて、紅茶を飲んだ彼女がはあっと息を吐いた。
「一人暮らしを、したいと思ったの」
そして何でもないような声音で話し始めた。いつも彼女はそうだった。だから僕はそろそろ来るような気がしていたけど、本当にスッと話を始めるものだから一瞬聞き流してしまいそうになる。慌てて彼女の言葉に集中した。
「高校卒業したらって薄らと考えてた。まあ、結局大学もロキと一緒だったから、今も家にいるけれど」
両手でコロコロと前後に転がされるペットボトル。彼女の指先は赤くて、切り揃えられた爪は清潔感が表れている。彼女の口からポツリポツリと語られるのは、一人暮らしをしようと思ったきっかけだった。
「ずっと叔父さんの世話になっているのも申し訳なくて。自立できないようでも無かったし、叔父さんの婚期を逃してしまったら申し訳ないと思っていたの。それに、いつか一人暮らしをするんだろうって思っていたのもある。でも、決定的だったのは、逃げたいって思ったから」
「……何から?」
黙って聞くつもりだった。彼女の言葉を全て聞いてから、自分の話をするつもりだった。彼女もどういう順番で話すか決めていたはずだろうに、話の腰を折ってしまうのは申し訳なく思う。でも気になって仕方ない。ここで聞かなければ聞けないような気がした。
「ロキから」
ガンッと頭を殴られたような気分だ。相も変わらず彼女はいつものように言葉を紡ぐのに、全ての言葉を聞いていられるか不安になる。一言一句漏らさず聞いていたいのに。僕の思いはさて置き、彼女は先に進む。
「大学を卒業して、就職したら、一人暮らしをしようと思うの」
これは、僕が言った「相談してほしかった」を今実行している、と思っていいのだろうか。確かに言ってほしかったけど、そうじゃなくて。その為に会って話をしようだなんて言ったとは思えない。
「ロキのいないところで」
ああ……そうか。彼女は僕のことが嫌いだったのか。それなら納得した。相談しなかったことも、僕から逃げたいと言ったのも。叶うとは思っていなかったけど、淡い期待くらいさせてくれてもいいだろうに。初恋は実らないとはまさにこの事だ。
「ロキのことが好きだから」
自分の耳を疑った。一瞬、何か別の単語が間違えて聞こえてしまったんじゃないかと思った。でも、確かに彼女は僕の名前と好きと言う言葉を放った、はず。彼女に視線をやれば彼女は自分の手元を見ていた。
「ロキが好きだから、逃げたかったの。ロキはいつも、」
「ちょっと待って!」
二度目だ。二度も彼女は僕が好きと言った。何だ、これ、何なんだ、これ。夢か? 幻か? エイプリルフールにはまだ早い。何せ年も越してないのだから。新手の嫌がらせか、悪戯? いや、そんなこと、彼女に限ってするはずがない。では一体何だと言うのか。事実だとでも言うのだろうか。
「す、すき?」
「うん」
「僕のことが?」
「さっきからそう言ってる」
そんな、何度も言わせないで、みたいに言わなくても……いや、さっき自分で二度も言ったからね?
「ゆ、夢かなあ? それともリディア、何か悪いものでも食べた?」
「どうして?」
「だって、あり得ないよ。リディアが僕のことを好きだなんて」
一瞬、気温が5度くらい下がった気がした。彼女の目がスッと細められる。あ、これはまずい。そう思ったけれど、僕の口からそれが放たれた後だと言うのだから、もう遅い。
2016.10.18
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