10周年記念 | ナノ


「……スッキリした?」

「……ん」

いつも通り、短く返した言葉に少年は思わず笑う。漸くいつもの彼女に戻ったような気がした。曖昧なようでしっかりした言葉を紡ぐ彼女が目の前にいることに安堵する。

「家、上がっていく? 雨で濡れちゃったし、風邪ひいちゃうよ」

「あー……うん」

不安なこともあるが、少年はそれを受け入れる。このまま帰っても怒られるのは目に見えていた。それなら少女の言葉に甘えるのが良い。玄関に入り、少女が上着を脱いで上がっていく。タオルを持ってくると言った少女の帰りを待ちながら靴を脱いで、靴下を脱いだ。そこまで濡れているわけではないが、外の大雨を考えると少しでも彼女の家を汚したくなかった。

「お風呂、沸いてないけどシャワー浴びていって」

「いや、でも、」

「風邪、ひいちゃう」

「ハイ……でも、リディアが先に入ってよ」

「ロキが雨に濡れたのは私のせいだもの。先に入って。大丈夫、今梅雨だし、タオルに包まってるから」

そう言った少女は頑固で、少年が折れる他無い。少年は言われた通り、渡されたタオルで体を拭いてから浴場へと向かった。乾燥機の使い方を教えてもらってから、服を入れてスイッチを押す。そしてそのまま浴室に入った。

その間に着替えた少女はリビングで大きなタオルに包まれ、お茶の用意をする。ケトルに水を入れる。まだ火にはかけない。カップにはティーバッグを入れておく。一応お茶菓子を探したが、ここ数日の自分は何をするでもなくただぼおっと日々を過ごしていたことに気付き、家の中にあるお茶菓子になりそうなものはすぐに浮かんでこない。戸棚を開けて探してみれば、叔父が買ってきたカルシウム入りクッキーを見つけた。大袋の中に一枚ずつ小分けされているそれを適当な皿に乗せて、リビングのローテーブルに置いておく。雑だろうか、と一瞬考えたが、少女は気にせず一度浴室の様子を見に行った。新しいタオルと、叔父の服を代えとして置いて少年に声をかける。シャワーの音で掻き消えてしまうかと思えば、彼はしっかり返事をしてくれた。脱衣所を出て、少年もあと少しで出てくるだろうと踏んで、ケトルを火にかける。

ティーカップにお湯を注ぐのと同時に少年はダイニングの戸を開ける。この家はダイニングキッチンとリビングに仕切りも壁も無く、広い一室となっていた。廊下へ続く戸から見て手前がダイニング。キッチンは少し広めの空間で、そこだけ壁があるがカウンターを作り、調理する人間と会話することも可能だ。そのカウンターから少女の姿を確認して近付く。

「何か手伝おうか?」

「もうできる。座ってていいよ」

トレイにティーカップを乗せ、キッチンから出てくる。歩く振動で中身が揺れるが、彼女の足取りは軽く、それでいて慎重だった。ローテーブルの上にトレイを置き、少年に差し出す。少女は少年と対面するようにソファーに座った。座ってすぐに何か話すのかと思えば、彼女はティーバッグを揺らして透明なお湯に色を付ける。少年も同じようにするが、少女の手元ばかり見ていた。各々好きなタイミングでティーバッグを引き上げて、用意された皿に置く。お湯が滴り、皿の中央に小さな水溜りが出来た。

「ごめんね」

紅茶を一口飲んで喉を潤わせると、少女が言葉を放つ。少女の謝罪が何に対してか、少年は特定できないでいた。ただ、先程のことだったのは理解できた。先程の、どの事に対してなのか、彼は分からず。ただ、何に対してか聞いても、彼女は全部と答えるだろう。少年は何も言わなかった。それに少女は言葉を続ける。

「雨に濡れさせて。心配させて。ごめんね」

淡々と、とは思わなかった。少女は確かに感情が見え辛い。しかし全く感情が無かったわけではない。少女の口から吐き出される言葉は確かに申し訳ないと言う気持ちが込められていた。

「それに、ありがとう。心配してくれて、怒ってくれて、泣かせてくれて」

「最後は聞く人によっては勘違いされそうだなあ……」

少年の言葉に少女は首を傾げる。しかし少年が苦笑を浮かべ「何でもない」と言うと少女は更に続けた。

「泣けなかったの。現実味が無くてね……きっとこれは悪い夢なんだって思った。長くて、辛くて、一向に目覚めないけれど……いつか誰かが起こしてくれて、そこにはお父さんもお母さんもいるんだと思った」

違ったね。そう言って少女は再び紅茶を口に含む。こくり、と飲んでその風味を味わった。少女は普段、ティーポットに茶葉とお湯を注いで紅茶を飲んでいるが、時間が無い時や面倒な時はこうしてティーバッグを使うこともある。少女の好きな銘柄だった。ほう、と息を吐く。ゆらりと揺れる紅茶の水面と、ふわりと昇る湯気が彼女の心を落ち着かせる。

「目が覚めても、お父さんとお母さんはいなかったけど、ロキがいてくれて嬉しかった。本当にありがとう」

言葉を濁すことはしない。真っ直ぐに放った言葉は彼の鼓動を速めるのに充分過ぎて、彼の中にあった少女への気持ちが膨らむ。愛しい、好きだ、今すぐに抱きしめたい。下心を胸の中だけで叫んで、それを隠そうと、飲み込もうと、少年も紅茶を飲んだ。

「僕には親がいないから、亡くした痛みや気持ちを理解してあげられないかもしれない。偉そうなこと言ったけど、自分の肉親というものに対して大切に思うだなんて、思えないんだ」

ぽつりぽつりと話し始める。今度は少女が聞く番だった。目の前の少年には、少女が両親を失うよりずっと前から両親がいない。引き取られた今だって両親がいるとは言えない状態だ。父と呼ぶには彼を引き取った隣家の執事はどうにも父性が無い。少年は一度も父と呼んだことは無かった。

「でも、リディアの両親がどういう人だったかは分かる。温かくて……お母さんは笑顔を絶やさない人だった。お父さんはリディアと同じで無口な人だけど、不器用な優しさを持つ人だった。ほんの少ししか関わってない僕だって好ましい人達だったと思う。もし僕に両親がいたら、こんな人達だったらいいなって思ってたんだ」

穏やかな笑みを浮かべて、優しい声音の少年はティーカップをテーブルに置いた。ソーサーとカップのぶつかる音が小さく鳴る。

「君が悲しむように僕も悲しい。きっと、ルーシィの両親が亡くなっても同じように思うし、カプリコーンが亡くなってもそうだろう。施設にいる頃より家族が増えちゃって、人がこんなに温かいだなんて思いもしなかったんだ」

物心着く頃にはもう親と言うものが彼には存在しなくて、孤児院の職員も単なる職員として、他の同じような子供達も単なる同じような子供として見ていた。家族と言うものがどんなものなのか、彼には想像できないもので、小学校で作文の宿題を出された際には困ったものだ。しかしそんな彼にも、家族と呼べる存在が出来た。目の前でクッキーを齧る少女がその一因であることは、関わった人間は誰もが知っている事実だが、彼のみそれを知らない。

少年の言葉に少女は思考する。きっと同じなのだ、と。彼は特別悲しかったわけではないが、それでも家族がいないと言う事実に切ない感情を抱くこともあっただろう。小学生の頃、出掛け先で家族を見ると彼は少し寂しそうに見つめていた。同じだ。知らないうちに失うか、知っていて失うか。そのどちらかだ。

「私は、多分まだ受け入れることは出来ないと思う。まだあの家に帰れば、お父さんとお母さんがいて、おかえりって言ってくれるような気がするの。でも、もういない。悪い夢なんかじゃなく、長くて覚めない夢じゃなく……」

くしゃ、とクッキーの小袋を握り、立ち上がる。ゴミ箱へそれを捨てて、窓の外に視線をやると、少女はポツリと呟いた。

「……雨が止んでる」

乾燥機の音が聞こえる。終了した合図。少年も立ち上がり、乾燥機のある脱衣所へ向かう。扉を少し開けたところで、思い立ったように振り返り、少女を見ると口を開いた。

「きっとリディアが、納得したからだと思うよ」

そんなわけないでしょう……少女は口に出そうとして、思い止まる。先程の自分と同じように窓の外を眺める少年は笑みを湛えていて、その髪が日差しでキラキラと輝いていた。見惚れる、とは正にこのことなのだと少女は後に思う。ドクン、と心臓が大きく波打つ。思わず目を擦るが、変わらない。少年は衣服を取りに行ってしまい、もうその場にはいなかったが、少女の脳裏に彼の姿が焼き付いていた。

自分の服を着ると、少年はすぐに出て行くと言う。少女は玄関の戸を開けて、もう雨は降っていないことを確認した。傘はいらないだろうと判断し、少年を見送る。雨上がりの澄んだ空気で太陽の光がキラキラとしていた。それを全身に浴びる彼が愛しいと感じた。

理解した途端に、少女の中で何かが腑に落ちる。自然と、まるで予め用意されていた箱にストンと収まるように、恋に落ちていた。愛しくて仕方なかった。思えばずっと、少年が他の女の子と遊んでいる時、落ち着かない時があった。少し面白くないと思ったこともあった。それでも少年はいつだって少女を優先していたから、今の今まで気付くことが無かったのだ。それが当たり前となっていたから。嬉しくなった。自分が恋をしたのも、その相手が少年だったことも。それと同時に彼女は悲しくなった。だって相手は、沢山の女の子と遊んで、特定の誰かと一緒になることのない人だから。

少女は知っていた。少年は自分に対して本気で好きだと言う女の子とは絶対に付き合わないことを。その場面には二、三度遭遇したことがある。本気だっただろう女の子が彼に告白をしている場面。彼は困ったように笑って断っていた。遊び半分で付き合ってと言った軽い女の子には「いいよー」とこれまた軽く返事をしていた。彼はそう言う男だった。

少女はそっとその感情をしまい込む。

誰も気付いていない。少年がより深く少女を愛するようになったのも。少女が少年に恋心を抱いたのも。同時にその恋を諦めたのも。当人達でさえ、お互いの感情に気付いていない。


2016.10.10

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