09
少女は生まれながらにして感情をあまり出さなかったと、彼女の両親は口を揃えて言う。だからと言って全く泣かなかったわけではない。赤ん坊は泣くのが仕事とはよく言ったもので、少女がそうだった頃もきちんと仕事をこなしていた。それに少し成長し、感情を表に出さずとも愛らしくなかったわけではなく、彼女の父親そっくりだと祖父母にも言われたくらいだ。その表に感情を出さない性格はきっと、父親譲りなのだろうと一人娘である少女は大層大事にされて育てられた。
甘やかされっぱなしだったかと言えば、少女は首を横に振るだろう。元より本好きであったが故に知識は多かったからかもしれない。少女はマイペースであったが、誰かを意図して傷つけようとすることも無く、幼馴染み思いの子に育っていった。
少女が物心着く頃に両親が話し合っていたことがある。結局少女はどちらに似たのか、と。母親は感情を表に出さないこと、口数が少ないこと、冷静であること、本好きであること、それらは父親に似たのだと言った。対して父親はピアノを弾くのが好きなところ、お菓子作りに興味を示したところ、髪の色や癖毛は母親に似たのだと言う。二人は笑い合って、長閑な陽気に目を細めた。ソファーで昼寝をしていた少女はそんな話し合いにも気付かず、夢の中で幼馴染みと遊んでいる。
少女が小学校に上がり、暫くした頃に事件が起きた。彼女の幼馴染みが誘拐されてしまったのだ。少女は責任を感じ、幼馴染みの今後を心配した。だからこそ、少女は一つの提案をした。それは色々問題があるのでは、と悩んだものの、幼馴染みの両親は最終的に受け入れ、結果少女にもう一人、少年の友人兼幼馴染みが増えたのだった。
少女が中学校に上がり、一年を過ごした頃。両親は仕事の為二人で家を出た。車に乗り込み、父親が運転する。少女の家は大きな財閥では無かったが、そこそこ名の知れた資産家だった。しかし、雇っていた使用人は一人だけ。運転手もおらず、車を出す時はいつも父が運転していた。その日は雨が降っていて、視界が悪く道路も滑りやすかった。家で使用人と留守番をしていた少女は本を読みながら、ふと窓の外を見る。時刻は午後2時を指していて、少しの間ソファーの上でぼうっとしていた時だった。2時から丁度15分経った頃、家の電話が鳴る。使用人は風呂場の掃除をしていた。少女は腰を上げて電話を取ると、見知らぬ男の声が耳に届く。その言葉は、少女の脳内を支配するのに充分だった。両親の名前、電話番号が自宅であるかの確認、別の車がスリップして両親の車と衝突したこと。電話の相手の後ろからサイレンの音が聞こえて、少女の後ろでは窓越しに大降りの雨が音を響かせる。何も言えないでいた少女に代わり、使用人が受話器を取って受け答えをした。使用人は少女を連れて、両親が運ばれた病院へ急ぐ。途中、同じ町に住んでいる少女の叔父への連絡も済ませ、彼の車と合流した。
病院に着いて間も無く、両親が息を引き取ったと告げられる。衝突してきた相手はかろうじて命を取り留めたようだった。少女の脳内にはどうして、と疑問が浮かぶ。
――衝突してきたのは相手なのに、どうしてお父さんとお母さんが死ななければいけないの?
叔父が詳しい話を聞くと言って席を立ち、少女は使用人と共に座る。病院の固い椅子は座り心地が悪い。しかしそんなことは気にしていられなかった。少女の中で、今の状況に現実味を感じられなかったから。これは悪い夢なのだと、大雨が心を不安にさせるからなのだと、彼女の中で何度も思ったが、しかし夢から覚めることはない。頬を抓ってみても、手の甲を抓ってみても、痛みはある。
翌日、少女は普通に登校した。学校へ着いた頃、一緒に登校していた幼馴染みの少年に告げる。「昨日、両親が事故で死んだの」彼女の声は普通だった。いつもと何ら変わりない、淡々とした声音だった。ただ、覇気が無いと少年は感じ取ったらしい。その三日後の葬儀でも、少女は泣かなかった。只々写真を見つめていた。写真の二人はそこにいるのに、実際には生きていない。それがとても現実に見えなかった。ただ、何かを話しかけられれば受け答えはしていた。幼馴染み二人にとってはそれが不審に思う要因となったらしい。
数日後に少年は少女の家へ出向いた。学校では何事も無かったかのように振る舞っていた彼女は、引き取られた叔父の家へ引っ越していた。使用人は申し訳ないが辞めてもらうこととなり、その時少女は少しだけ寂しそうにいていたと言う。少年は少女の叔父の家、自分の家の隣家へと足を運んだ。理由は、少女の体調面が気がかりだったから。
今にも降り出しそうな空模様に不安を覚えつつも彼女と対面する。掠れた声がいつも以上に感情を殺した表情に合わさり、悲哀に満ちていた。学校にいる時とは段違いに弱々しい少女に彼は驚く。
「どうしたの?」
不思議そうに少女が言う。普段通りを装っているのが分かる程、今の少女はやつれていた。春頃の身体測定で身長が伸びないと言っていた少女は確かに小柄で細身だが、いくら何でも頬がやせすぎている。
「ちゃんと食べてる?」
思わず少年が問うた。情けなくも声が震えた。少年にとってこんなに弱々しい少女を見たのは初めてだったから。少年の知る少女がいかに自分の意思を曲げず、とても凛々しい、勇敢なヒーローのような存在だったか。しかしそれは崩れ去る。少年の目の前には、誰にも何も言えずに、悲しい、辛いと言えず、泣くことも出来ない。失ったものが大きすぎて、魂さえ抜き取られたかのような少女しかいなかった。
「食べてる、よ?」
「本当に?」
「…………うん」
目を逸らした。少年は知っている。これは少女が嘘をついた証拠だと。人の嘘を簡単に見抜くくらいには少女は鋭いし、小さな嘘なら簡単につける。しかし、少年が問い詰めるように言ったからか、簡単な嘘でさえつけないでいた。少年は門を開けて少女の目の前に立つ。少女は只ならぬ少年の気迫を薄らと感じてはいたが、彼が前に来たことで彼女も彼の傍に寄った。降り出しそうな空の下、二人は屋根の下に入ることもせず対峙する。少年は我慢できず口を開いた。
「なんでっ……なんで、そうやって一人で背負い込むんだ……!」
怒りがわいた。少年は男の子で、少女は女の子だ。見たら分かる。それなのに少女に頼られない自分が情けなくて、簡単に声を荒げてしまったのもみっともない。しかし少年は言わずにはいられなかった。
「悲しいなら泣けばいい。辛いなら喚けばいい。叫べばいい。我慢するから何も消化できず纏わりつかれるんだ!!」
思わず少女の肩を掴んだ。そんな風に乱暴に掴んだことは今までに無く、少女の記憶にも無かった。ビクッと震えた少女が確かに女の子であると少年の中で広がっていく。かっこよくて凛々しい少女は、本当は脆くてか弱い存在だったのだ。
「……だっ、て……死んじゃったのは……仕方ないから……」
「仕方なくない!!」
本当は誰よりも縋りたかったのは少女だろう。誰よりも泣きたかったのは少女だったはずだ。
「大切な人を失ったら、泣く権利はある。いや、権利なんかじゃない……当然の感情だ。誰も咎めないよ。君が泣いても、叫んで喚いても、誰も怒らないよ」
「わ、わたしはっ……ないたら、だめって……ないたら……」
少女の声が震える。嗚咽を我慢するように言葉を紡ぐ。その一音一音を聞き逃さないよう、噛み締めるように少年は耳を傾けた。
「ないたらっ……おとうさんと、おかあさんがっ……ほんとうにっ」
じわりと浮かんだ涙が、まだ落ちることはない。それは少女なりのプライドなのか、生まれながらのことなのか、少年には分からなかった。
「ほんとうに……しんじゃったって……ロキ、」
初めて見せた悲しい表情に少年は不謹慎にも胸が高鳴った。勢い任せに少女を抱きしめる。離してしまったら、脆い少女は崩れて消えてしまいそうな気がしたから。
「おとうさんとおかあさん……しんじゃったっ……」
少女は涙を零した。今まで我慢したそれが一気に溢れ出す。蛇口を捻ったように止め処なく溢れたそれを、まるで隠すと言わんばかりに大雨が降り出した。打ち付けるような雨も気にせず、その音で少女の泣き声は掻き消え、少女の涙か、雨か、どちらか分からないもので二人は濡れていた。
雨の中、体温は奪われるはずなのに、少年に抱きしめられた少女は温かく、心が満たされる感覚がした。少年のにおいに包まれたかと思えば雨のにおいが充満する。けれど嫌な心地はしなかった。生きている人間を確かに感じた気がしたから。少しして少女の体の震えも、嗚咽を漏らす声も止まった頃、ゆっくり離れると、鼻も目も頬も赤くして、落ち着いたような少女がいた。少年はそっと指で少女の目元を拭ってやる。雨に濡れている今、意味の無いことだと分かってはいたが、どこか触れたくて仕方なかった。
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