10周年記念 | ナノ
07

今日は大雨だった。梅雨の時期ではなくても、雨の日は少し不安になる。彼女は大丈夫だろうか。雨で怯えるわけじゃないけれど、心が不安定になるのは身近にいるとすぐに分かる。幸い次の講義は一緒だ。近くの席に座ろう。そう決めて移動していれば、掲示板に休講の知らせを見つけた。

まさか休講になるなんて思わなかった。彼女にメールをしようとするが、彼女がメールに気付かない可能性は高い。頻繁に携帯を確認しないし、マナーモードのまま鞄にしまわれていると90%の確率で気付かない。

勿論、それなら電話も気付かない可能性があるが、何故か勘のいい彼女だ。電話に出ないことは今まで片手で数える程しかなかった。いや、少し言い過ぎたかもしれない。

とにかく僕は彼女に電話をかけた。数回コールが鳴る。少ししてコールが途切れ、彼女の小さくもはっきりした声が耳に入った。ちゃんと出てくれたことに安堵して、用件を話す。

「次の講義、一緒だったよね? 休講みたいだよ」

僕の言葉に彼女は、知っていると返してきた。心臓が痛む。以前にも彼女の携帯に、僕以外の人から休講だと言う知らせが届いていた。きっと今回もそうなんだろう。

別に、自分だけが彼女の連絡先を知っていればいい、だなんてヤンデレじみた考えをしているわけではない。友人くらいは作るべきだ。けど、彼女が人に対して興味の薄い性格だからこそ、人からの好意を含めた感情の機微に疎い。僕はその人に会ったことはないが、こういう時の勘は当たるんだ。

電話越し、彼女の声の後ろから「どうかしたのか?」と問う声が聞こえる。僕の心臓は信じられないくらい痛くて、それと同時に忙しなく動いた。

「……今、どこ?」

何とか絞り出した声に、彼女は少し戸惑いながらも居場所を教えてくれた。休憩スペースだと言う。今の時間、雨が降っているなら校外まで足を運ぶ人は少ない。食堂に行くか、休憩スペースにいるか、休講ではない講義に参加しているかだ。彼女が答える前に大凡の見当をつけて動き出していた。向かう方向に変更はない。

「今行くから、待ってて」

そうとだけ言って通話を切った。早く彼女を迎えに行きたくて仕方ない。早計だとは思う。でも、こんな大粒の雨でも僕の不安感は拭えなかった。


休憩スペースに行けば、テーブルを挟んで彼女と一人の男が座っていた。ドクン、と心臓が跳ね上がる。一気に頭に血が上ったような感覚がした。一歩足を踏み出せば、こちらに気付いた彼女が僕の名前を呼ぶ。

「ロキ」

それだけで荒れていた心が静まった気がした。冷静ではない状況下でも、彼女の声は僕の耳によく通る。僕の心情なんて知らないはずなのに、彼女はいつもタイミングよく僕に声をかけてくれるんだ。

「ごめん、遅くなった」

「いや、随分と早かったように思うけど。近かったの?」

「あー、うん」

僕はチラリと男を見る。黒――否、焦げ茶の髪で、スッとした感じの男だ。僕を見て愛想笑い一つしない。どちらかと言えば彼女に雰囲気は似ている気がした。まあ、彼女の家族であるはずがないので、その辺りの勘違いでしたなんて言う落ちはないけれど。

「こちら、同じ学科で休講になった講義も一緒の、」

顔を見た瞬間に何となく気付いてしまった。きっと僕も同じだから。何でもなさそうな顔をしたこの男が、彼女に好意を持っている気がした。僕は彼女の腕を掴んで引っ張る。

「今日は凄い雨だ。この後講義はないだろう? 早く帰ろう」

「え、でもまだ……」

「用事でもあるの?」

「いや、無い……けど」

テーブルに置いてあった鞄を持つ。彼女の鞄だ。中には講義で使うものが入っているので重みがある。

「じゃあまたね」

「ああ」

二人はそうとだけ会話を交わした。僕はそのまま、彼女の手を引いたまま休憩スペースを後にする。外に出れば大雨だ。朝もパラパラと降っていたから傘は持っている。それは彼女も同じで、傘を開く段階で彼女は手を振り解いた。

「どうして、ちゃんと私の話を聞かないの?」

「聞いていただろう?」

「聞いて無かった。ちゃんと紹介してない。彼に悪いことをした」

そう言えば紹介するようなことを言っていた気もするけど、僕は早くあの場から彼女を連れ出したかった。本当に早計なことをしたとは思う。でも後悔はしていない。

「ロキ、何をそんなに怒っているの?」

「……ごめん。何だかよく分からないけど、不安だった」

言葉を濁す。僕がそう言うと、彼女は雨の存在で何かを察したようで、「そう」と言った。察したは良いが、それが正解ではないことを、僕以外知らないわけだけれど。

「……大丈夫だよ。今日は大学にいたし」

「でも、心配なんだよ」

僕の我儘だったと悟られないように。こういう時、自分がサングラスをしていてよかったと思う。表情が読まれないから。彼女は人の感情の機微には疎いくせに、人の表情の機微には敏感だ。

「帰ろうか」

「うん」

傘を開いて歩き出す。雨に濡れないように。彼女は僕から鞄を取り上げて自分の肩にかけてしまった。持ってあげたかったけど、理由も無しにそんなことをさせる彼女ではない。


そんなことがあった日だからだろうか。渡したいものがあると言って彼女の家にお邪魔することになった。雨だからと中に入れてくれたのだ。何度も入ったことのあるリビングと繋がったダイニングに通され、椅子に座らされる。多分、僕がすぐに立ち上がれるようにと思ってのことだろう。僕は今日、休講にならなければ講義の後にアルバイトが入っているから。

コーヒーを淹れてから彼女は自分の部屋に渡すものを取りに行った。彼女の叔父が飲むから、彼女は自分の好きな紅茶以外にコーヒーも淹れられる。僕がブラックで飲むことも知っていて、お茶菓子は置いてあるが砂糖やミルクは出さなかった。彼女が淹れてくれるコーヒーは薄目だから、自然とお茶菓子に手が伸びる。

ふと、リビングのローテーブルが目に入った。正確に言えば、ローテーブルの上に置かれた冊子に、だ。住宅情報誌。他にもチラシがいくつか重なっている。思わず椅子から立ち上がり、手に取って見てみれば何箇所か書き込みがされていたり、印が付けられていたり、付箋が貼られていた。

「ロキ、この間借りた参考書とCDと、あとお礼のお菓子を」

戻ってきたリディアが「あ」と声に出さす表情に出す。珍しいこともあるもんだ。あからさまに顔に出すことなんて今まで無かったのに。少し目を見開いたまま、僕の手にある冊子を見た。

「ねえ、これってさ、やっぱりリディアが考えてるってことだよね? 一人暮らし」

彼女の叔父が今更一人暮らしをするはずがない。何より、こんな安い家賃の場所を選ぶはずがない。

「何で言ってくれなかったの? それに、リディアにはここがあるのに、ここを出て行く必要ある?」

「でも、就職先がどこになるのか分からないし、いずれは出て行くつもりだったよ。一人暮らしを経験するのも大事だって叔父さんは言ってたし、私もそう思う」

「でもっ……ル……」

僕は何を言おうとした? ルーシィを置いていくつもりなのか、なんて聞くつもりだったのだろうか。彼女はルーシィの幼馴染みだけど、ルーシィと人生を共にする義務はどこにもないのに。違う。僕はルーシィを建前に使っているだけだ。分かってる。でも、だったら僕は何と言えばいい? 僕の言葉じゃ彼女に届かないのに。僕が何を言えば、彼女は思い止まってくれる? それも違う。引き止めたいけど、留まるかどうかを決めるのは僕じゃなくて彼女だ。

「相談くらい、してほしかった」

口から出たのはとんでもない言葉で。

「相談する必要を感じなかった」

返されたのは冷たい言葉だった。

気付けば僕は鞄を手に取り、彼女の横を通って彼女の家を出ていた。傘は持ったが差すこともしないでそのまま走り出す。残された彼女が何を思っているのか、当然ながら僕には分からない。だって僕は、今まで一度だって彼女の感情を、考えていることを、理解できたことなんて無いんだから。


* * *


→次

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -