彼女は梅雨が嫌いだ。強く打ち付ける雨はあの時を思い出すから。けれど僕は、この雨が嫌いじゃない。彼女が僕に心を開いたとすればきっと、こんな雨の日だっただろうから。
「お先に失礼しまーす」
「お疲れさまー」
今日は雨だ。天気予報ではここまで降らないと言っていたはずだが、予報は予報。外れることもある。今頃家にいるだろう彼女は何を思っているのか、今日もあの時みたいにご飯を食べていないんじゃないだろうか。そう不安に駆り立てられた。
悲しいことに、僕のアルバイト先は地元から二つ先の駅だ。今日は早く上がれたけど、一歩間違えると遅れてしまう。相当なタイムロスと言うわけではないにしても、今日は早く帰りたい。強い雨も相俟って僕の心を急かした。
あの日もこんな雨で、あの時もこんな雨だった。中学生の時だ。昨日両親が事故で死んだ、と彼女の口から聞いた時は驚いた。彼女の両親が事故死したこともそうだが、何より彼女自身がいつもと変わらなかったことが。泣いた痕も見えなくて、ただ、その声に覇気が無いことは理解できた。
その知らせから三日後に葬儀が行われた。平日の夕方から。僕とルーシィ、ルーシィのご両親は学校の後や仕事の最中に何とか集まって参加していた。彼女はたった一人で親族の席に座っていて、遅れて合流した叔父が来るまでただただぼうっと写真を見ている。僕もルーシィも何度か話しかけたが、いつもよりはっきりとした返事が返ってきたことに不審に思いながらも何かを言える雰囲気ではなかった。
それから数日間、彼女は何事もなかったかのような振る舞いで過ごしていた。叔父に引き取られ、ルーシィの家の隣に住むようになった彼女だが、それすらも認識しているか危うい程にいつも通りだった。
怖いくらいに態度が変わらない彼女は、日に日にやつれていっているような気がして、不安感を覚えたルーシィに頼まれた僕は彼女が住むようになった隣の家に足を運ぶ。お邪魔したことがあるのは二、三回で少し緊張した。その日は曇り空で、今にも雨が降りそうな空だった。
インターホン越しに聞こえた元気の無い声に、僕は初めて彼女の精神状態が酷いものだと気付く。掠れたような弱々しい声が、いつも以上に感情の無い――否、感情を押し殺した表情が、学校にいる時と全く違っていて。彼女が脆い女の子だと、強くなんて無いんだと気付かされたんだ。
思えば、僕が彼女を守りたいと思ったのもこの時のことがきっかけだったんだろう。そして、より強い愛情を抱くようになったのもこの時からだ。
その日、僕の中でヒーローのような存在だった彼女は消えて、守らなければいけない彼女が、愛しい感情と共に生まれた。後にも先にも、彼女が泣いた姿を見たのはこの時だけだろう。僕が愛しい気持ちを抑えきれず、彼女を強く抱きしめたのも、これが最初で最後だった。
この時既に僕は女遊びをしていたから、今更彼女に告白なんて出来るはずもない。ただ、やっぱりちゃんとご飯を食べていなかったらしい彼女はその後きちんと食べてくれるようになり、元々食べることが好きなこともあったおかげで食生活は自然と改善されていった。
栄養がどこへ行っているのか知らないが、身長が伸びないと悩んでいた彼女は高校生の頃に10センチ伸びて、そこから止まったと小さく頬を膨らませて言っていた。今でも時々、あと3センチはほしいと言っている。
昔を思い出していればあっという間に彼女の家に着いていて、目の前にはインターホンのボタンがあった。今彼女は家にいるだろうか。連絡も無しに来ちゃったから、買い物にでも出ていたら待ちぼうけになってしまう。
なんてグダグダ考えていたら玄関のドアが開いた。僕を見ると驚いたようで少し目を見開いている。
さあ、なんて声をかけようか。気の利いた言葉なんて見つからなくて、結局僕は情けなくも当たり障りのない言葉を放ってしまうわけだが。
そんな僕に彼女は買い物に付き合ってくれと言った。勿論断るはずがない。そしたら次にお昼ご飯を一緒に食べようと誘ってくれたから、こんな雨の日でも今日の彼女は大丈夫だ。
2016.08.02
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