雪より冷たい君
今日はいつもより目覚めが遅かった。目覚めたら一面の白銀世界とはまさにこのことだろう。寒さで体が僅かに震え、手足の指先が冷えていく――私は天気の確認の為に開けた窓をすぐに閉めた。
こんなに寒くては真面に仕事も出来ない。出来ることなら布団の中でぬくぬくと微睡みの中、二度目の眠りについてしまいたい。
しかしそんなこと出来ないのも事実。暑さより随分とマシだと言い聞かせ、着替えて部屋を出た。向かうは彼の元。
「おはよう」
「今日は遅かったな。寝坊か?」
「寒さでね」
彼の執務室にやってくる前に、顔を洗い朝食を済ませた。みっともない姿を彼に晒せるものか。中には布面積の少ない恰好でうろつく人もいるが、私にはそんなこと出来ない。
この城の廊下は随分と寒くて、部屋から部屋の移動だけで冷えてしまう。手はかじかんで、顔も冷たい。内側から温めようとしているのは分かるが、効果はないと言わんばかりに体を冷やしていくのだ。
「精神がお子様な奴らは外に出て遊んでいるらしいが?」
「ペタって私のこと、子ども扱いするよね」
「事実、子供だろう? お前は」
こうして手伝っている人間に対して酷いものだ。そりゃあ、自分自身が大人かと問われれば、答えは否だけれど。それでも、対等じゃなくていいから、同じ大人でありたいと思うのは勝手だろう。少なくとも体は成長しているわけだし。ただ、こういう思考が子供だと言うのであれば、否定のしようが無いのだが。
「そう不機嫌になるな」
「なってません」
「そういう所が子供だと言われるんだ」
否定のしようが無い。
「ペタ、寒い」
「そうか」
「温かい飲み物でも持ってくるわ」
「私の分も頼む」
その言葉には、一緒に何か食べられるものも持って来いと言う意味合いが含まれていた。彼が私に対して頼むと言うのは大体そう言う時だ。私は先程朝食を食べてきたばかりだと言うのに。いや、今はそんなこと知らないのだから仕方ないのか。
仕方ないと思うこと自体、問題な気もするけれど。
「ブラック?」
「ああ」
いっそ砂糖とミルクいっぱい入れて持ってきてやろうか。そんなことしたら、流石に怒らせてしまうか。
一度また寒い廊下に出て厨房へ赴く。目的地へはそう遠くない。遠くないが、近くもない。また両手の指先が冷えていく。きゅっと握っても冷たいことで感じる痛みしか感じなかった。自ら持ってくると言ったが、たまには彼が持ってきてくれてもいいと思う。淡い願望でしかないけれど。
「またペタに差し入れでも持っていくのか?」
「私が寒いから温かい飲み物を持っていくだけよ」
厨房まであと少しと言うところ、人の顔が見えているのかいないのか、私には分からないけれど目隠しをした男は言う。この男は今執務室で飲み物を待っている彼が連れてきた男だ。そんな男を、私はあまり好ましくない。嫉妬は醜いから表に出さないけれど。
「良いように使われているな」
「ペタの役に立てるなら本望」
まあ、決して私にその心情を見せることはないけれど。私を必要としているわけでもないのだろうけれど。それでも私は、彼の元にいたいし、彼の元にいるしかないのだ。
「たまには私もお前のコーヒーとやらを飲んでみたいものだな。あのペタが毎日のように飲むというのだから、さぞ美味いのだろう?」
嫌味か。
別に、彼がこの男に対してどうこう思っているわけでもないのは分かっているけれど、この男だけじゃなく、彼に連れられた兵隊は私にとって好ましくないのは仕方のないことだと思う。特に、私より後に来た人は。
「そう睨むな。何も馬鹿にしているわけではない」
馬鹿にしているわけじゃないならどういうつもりなんだ。
「ただ、あのペタが傍に置くお前が気になっただけさ」
「別に、傍に置いてるわけじゃないわよ」
こんな男はさっさと無視して厨房に行こう。初めからそうすればよかった。時間を無駄にしてしまった。こんなことでは部屋に戻ってから彼に小言の一つや二つ零されてしまう。
漸く厨房に入ってすぐにお湯を沸かす。お茶請けは昨日のうちに用意していたものがあるからそれを皿に出した。二つのカップを用意して、沸いたお湯を注ぐ。カップを温めている間に紅茶の茶葉を入れたティーポットと、挽いたコーヒー豆の入ったドリッパーをつけたコーヒーサーバーにもお湯を注いだ。
全てを用意し終えて、カップに入れたお湯を捨てて、全てをトレイに乗せて厨房を出る。そこにはもう、先程の目隠し男の姿は無かった。それに安心して彼のいる部屋へ歩き出せば、後ろから声がかかる。
「私にも一杯貰おうか」
「偉そうにしないでくれる? これは私とペタの為に用意したものなんだから、あなたの分は初めから無いわよ」
ああ、振り向いてしまった。
「それは残念だ」
初めから無いと分かっていた癖に。この男はやけに私に突っかかる。いや、この場合は突っかかるは正しくないか。
「それならその茶請けでも貰おうか!」
「図々しいにも程がある!」
一体何をしたいんだ、この男は。私にはこんなことしている暇など無いと言うのに。今度から無視しよう。
「何、ちょっとした時間稼ぎだ。おかげで面白いものが見られる」
「は……?」
「ナマエ」
私の背に向けてかけられた声に、ドキリと心臓が跳ね上がる。先程までお湯を扱っていたおかげで指先も掌も顔も温かくなったと言うのに、一気に指先が冷えてきた。廊下にいるからだと信じたい。
「遅いと思えば……お前は飲み物も真面に淹れられなかったのか?」
ああ、小言だ。声の主に視線を向ける為、振り返ればそこには不機嫌そうな彼が立っていた。元々悪い目つきが更に悪くなっている気がする。眉間には深い皺が寄っているのだろう。
「ごめんなさい……」
言い訳をしたら更に小言が長くなる。悪いのが私でなく、目隠しをした男だろうが、何だろうか。こういう時はすぐに謝るのがいい。私が罪を認めることになろうとも。
私が謝ると彼は一度深い溜息をついて、そして視線を私の後ろ――目隠し男に向けた。その目は先程よりも鋭いような気がした。
「あまりちょっかいをかけてくれるなよ」
「いや、私はただお前が好むコーヒーを一口だけでも飲んでみたかっただけだが?」
「白を切るつもりか」
「元々こういう女は好みじゃないんでな」
「ほう……?」
「コーヒー以外に興味はないさ」
いくらかやり取りをして、彼は黙ると視線を私に戻す。そして踵を返してから、私に早く来いと言うと歩き出した。私は彼の後ろを付いていく。
「……こちらには目もくれず、か」
後ろで小さく呟いたような声が聞こえたが、気にしてなんていられない。機嫌の悪い彼は、ファントムのお遊びが過ぎた時以外は厄介なもので、暫く小言が増えてしまう。否、ファントムのお遊びが過ぎた時だって、こんな感じだったかもしれない。
「……ペタ」
執務室の前に着いて、戸に手をかけた彼に恐る恐る名を呼んでみると、彼はピタリと動きを止めた。これは何か言わないと更にまずいことになる。
「ごめんなさい」
「あまり面倒をかけさせてくれるなよ」
そう言って戸を開けると中に入っていった。
珍しいこともあるものだ。その程度で済んだことが今まであっただろうか。考えてもすぐに思い当たる節が無い。まあ、機嫌が悪くないのならそれに越したことはないのだけれど。
「……本当に、珍しい」
結局、仕事そっちのけでペタに抱きかかえられたまま淹れた紅茶とコーヒーを飲んでいる。私の紅茶以外は上出来だ。少し味の濃いそれをミルクで何とか誤魔化して、お茶請けと共に飲む。
「お前はすぐ、あちこち行ってしまうからな」
「外は一面雪だらけだからどこへも行かないけど」
それに、こんな風に抱きしめられたら、どこかへ出掛ける予定があったとしても出掛けることなんて出来るはずがない。
「また降り出したらしい」
「さっきは止んでいたのに」
太陽はいつ顔を出すのだろうか。
でもまあ、こんなことになるのなら、寒いのも悪くはないかもしれない。決して温かくはない彼に包まれることは幸せ以外の何物でもないのだから。
2016.01.18
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