恋をした人魚
酸素のない空間。全身に伝わる心地良い感触。目を開けると光の反射がゆらゆらと揺らめき――そして一つの手が空間を突き破って遠慮なく入ってくる。
「お前はまた、こんなところで」
溜息を吐きながら呆れた様子で彼は言った。私の髪の毛を掴んだ手は離れていき、その手をタオルで拭う。
「袖が濡れているよ」
「誰のせいだと思っているんだ」
「一体誰の仕業?」
「お前は私を怒らせたいようだな」
「冗談」
彼に見つかってしまっては、もうこの空間から出なければならない。折角楽しんでいたと言うのによくも邪魔をしてくれたものだ。
「早く出ろ。こんな季節にこんな所に入って、風邪でもひく気か」
「私がここに入るようになって何年だと思う? そう簡単に風邪なんてひきません」
「馬鹿は風邪ひかないと言うしな」
「そういう意味で言ったんじゃない」
ゆらゆら揺れる水面から這い上がるように出て、用意してあったタオルに手を伸ばした。が、そんなものは無く、冷たいタイルの感触が伝わってくる。
「ペタ、私のタオル使ったでしょ」
「私の手が濡れた。だから拭いた。何か問題があるか?」
「私は全身ずぶ濡れなんですが」
「自己責任だろう。それに、お前は好き好んでこんなところに入るではないか」
つまり、タオルくらい二枚用意しておけってことかしら。
「横暴だわ」
「それより早く拭いて着替えろ。ファントムが呼んでいる」
「納得したわ。今の時間、ペタは仕事していると思っていたからおかしいと思ったの」
だからと言ってタオルを勝手に使ったことは許さない。
私のふかふかなタオルを奪っておきながら早く拭いて来いなど、どれだけ自分勝手なんだろうか。これは私、怒ってもいいよね。まあ、怒る勇気なんてないのだけれど。
* * *
「ナマエ、君はまた水の中にいたらしいね」
「六年前からそうだったでしょう?」
「フフ……そうだったね。懐かしいなあ」
「ファントムにとっては六年間なんて一瞬だったんじゃない? 眠っていただけなんだから」
「そうだね」
ウォーゲームが始まるそうだ。六年前、私は参加していないが、どうやら今回のウォーゲームに私を出したいらしい。それ程戦力になるとは思えないが、まあ出ろと言うなら出る以外の選択肢も無いのだろう。
「好きに戦っていいよ」
「当然」
「ところで……僕や他の人からしてみれば君は結構変な人だと思うんだけど、ナマエにとって水の中って言うのはどういう感覚なんだい?」
「心地いいよ。何かこう、全身とか全部を包んでくれているみたいで」
「息もできない。思うように身動き取るのもままならない。それなのに君は水の中に沈む。まるで引きこもるように」
まあ、間違ってはいないけれど。
「プカプカ浮くのも好きよ?」
「そういう意味じゃないよ。つまり僕が聞きたいのは、ナマエはどうして水の中が好きなのか、だ」
どうしても何も、水の中が私の世界だからだ。深く沈んでいけばそこに何かがある様な気がして。それが、所謂宝物とかそういうものでなくても。それに何より安心する。
冷たい水が私の体温を奪い、冷ましていく感覚。体は内側から必死に温めようと体温を上げる感覚。息を吐く時にブクブクと浮かぶ気泡。水の中から見る、光を反射しながらゆらゆら揺らめく水面。そのどれもが私は好きだ。
けれど、そんなことをファントムに言ったところで理解なんてされないのだろう。ましてや、傍で眉間に皺を寄せる彼――ペタなんて、毛ほども理解できないのだわ。
「人類は皆、母なる海から生まれたとされるわ。つまり、私が水の中を好きだと言うのは母を好きだと言うのと同じだと思うの」
「尤もらしい嘘を並べ立てるね」
全部が全部嘘と言うわけではないのだけどね。
「君の前世は魚かもしれないよ」
「せめて人魚とか言ってほしい」
「魚かもしれないじゃないか。ほら、前世に善い行いをしたから人間にしてくれた、とか」
「魚がどんな善い行いをしたと言うのよ。もしそうだとしてもそんな私を人間にしてこの様なんだから、人間にしてくれた神様あたりはとてもガッカリしているでしょうね」
それに、どれ程悪い行いをしたら人間からゾンビになるのかしら。まあ、そんなの、これから行われることが正にその悪い行いなわけだけれど。でも、ファントムは好き好んでゾンビになっているのだから当てはまらないか。
「でも、人魚か。もし前世が人魚なら君はどうする?」
「どうするも何も、今の私は人間だからどうにもならないじゃない。ただ、もし今の私が人魚なら、水の中で息が出来なくて苦しむことはないのに、と思う」
結局、くだらない話を一通りして私はファントムの部屋を出た。彼はどうやら遊び相手が欲しかったらしい。傍にペタがいたが、本来彼は別の仕事をしているはずだったそうだ。だから私を呼んだと言うのに結局ずっと傍にいるのだから彼はとても過保護だと思う。
「お前が人魚では戦力にならないな」
「水の中以外では自由に動き回れないものね。そこは私も不便だと思う」
人魚は人間の脚を望むことはあるのだろうか。
「人魚はとても美しい歌声を持っているそうよ。それで人間を惑わすらしい」
「ほう」
「その美しい歌声に魅了された人間は、どうなるのかしらね」
「歌声だけで魅了されるくらいだから大した人間ではないのだろう。どうなろうが関係ないな」
そりゃあ、別に身近な人ってわけでもないし、どうなろうが関係ないと言えば関係ないけれど。相変わらず冷たい人。
「そもそも人魚だろうが人間だろうが、一つの事柄で魅了されるくらいなら大した問題ではないのだ。問題なのは、多少の我儘も自由奔放な性格も大事なところで嘘を吐くことも、全て許してしまうくらい魅了されたのかどうか――それ程厄介なこともない」
ああそれは、とても厄介ね。まあでも……ペタはそれ程許してくれないけれど。
2014.11.13
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