わたしのはなし2 | ナノ





 ――紅茶のおかわりは要りますか? すみません、ついついお話が長くなってしまって。なんだかあの頃を思い出して感情が高ぶってしまって、うまくまとめられないんです。教師失格ですね。もう少し……できれば少しになったらいいなとは思いますが、お付き合い願えないでしょうか。ありがとうございます。



 何度か二人で食事を重ねて、季節は変わり、すっかり“恋人”というポジションが馴染んでしまった頃の、夕陽が綺麗な日のことです。私も彼女も三十路を控えたいい年齢でしたから、思い切って彼女に持ち掛けてみることにしました。「雅さん」ああ、その頃には呼び方も変わっていたのですが、それは今はいいでしょう。横でにっこりと笑う彼女に私は言いました。「私とあなた、付き合うようになってから結構になりますね」「そうじゃな」「けれど、お互い仕事の都合などもあってなかなか会えない」「そうじゃな」「それで提案なんですけど」、一度大きく息を吸って吐いて、もう一度深呼吸をして、それからまっすぐと彼女を見ました。
「一緒に、住みませんか?」
 実は彼女に何の相談もせず勝手に物件を探したりもしていたのです。本当に浮かれていたのですね、私は。そこまで結婚に焦る年齢ではありませんが、だからといって決して早くもないと思っていたのです。職場にも所帯を持った同僚は何人かいましたし、真剣に交際しているのならそれを考えてもいい時期だろうと。そう私は思っていたので、いい返事をもらえるものだと思っていたのですが、彼女の顔は曇りを帯びていました。もしかしたら彼女はまだそういう気持ちになっていなかったのだろうか、時期を間違えたのだろうかと不安になった私は、「嫌でしたか」と問いました。彼女は首を横に振ってはくれるのですが、それでもなにか悩んでいるようでした。私に問題があるのなら早めに言ってもらえないだろうか、そう考えていたら、彼女はおもむろに立ち上がり言いました。「なあ比呂士、会わせたい人がおるんじゃけど、このあと時間へいき?」私は彼女と会う日は基本的にその他の予定を入れないようにしていましたし、そうでなくても彼女の様子が変でしたので断る気などありませんでした。大丈夫だと告げると、彼女は俯いたまま私の手を引きます。「ついてきて」。彼女は悩むのをやめたようでした。それでもまだ何か躊躇っているようで、足取りはひどくゆったりとしたものでした。私の手を掴む指先が震えているのを感じます。ああ、泣いているのでしょうか。もう彼女を泣かせないと決めたのに、大人になったのだからそう決めたのに、またもや彼女を哀しませてしまったのでしょうか。なんだか私まで哀しい気分になっていると、彼女がふと足を止めます。小さい子のはしゃぐ声が聞こえて、ここが幼稚園であることを把握しました。職業柄子どもは好きでしたので、明るく元気のいい子ども達の声を聞いているとなんだか穏やかな気持ちになります。しばらくぼんやりとその光景を見つめていると、とてとてとこちらに向かってくる女の子がいました。満面の笑みで、いつバランスを崩して転んでしまわないか心配な走り方で、両手を伸ばして――――「まま!」

 その時、私の手を強く握っていた彼女の手が離れたのでした。

「帰ろうか、みのり」



 ――実里さんというのだと、彼女が私に教えてくれました。やぎゅうひろしです、と実里さんに自己紹介をすると、「ちぃろ、ち?」となかなか可愛い返答が返ってきました。思わず表情を緩めると、そのぶん彼女の表情が歪んでいきました。もう随分と見ていなかった彼女の自宅まで行き、実里さんを預けたあとまた歩きました。二人で話したいことがあるのだと言います。私もなんとなく予想はついていましたので、黙って彼女の後に続きました。
 十数年前、よく彼女と放課後に寄っては遅くまで話した公園に着きました。もう誰もいなくなったブランコに腰掛けた彼女が、ようやく口を開きました。
「おどろいた?」彼女は私の顔を一度も見ません。けれど決して地面を見ているわけでもありませんでした。多分、心此処にあらずという状態だったのだと思います。「ええ、少し」私は正直に答えました。下手に取り繕っては、かえって彼女を傷付けると思ったからです。彼女は俯いたままでした。「結婚していたのですか?」「しとらんよ。子どもできたって分かって、あっさり逃げよったから」「では今まで一人で?」「ん。親や姉貴に頼んだりはしとったけどな」「そうでしたか」。彼女がきれいになった理由をこの時はじめて知りました。母親だから。だから彼女は女性らしくなり、強くなり、そしてそのぶんだけ弱くもなったのだと。未婚のまま子どもができ、恋人に逃げられ、シングルマザーに。決して優しいだけの世の中ではなかったと思うのです。風当たりも強かったのかもしれません。それなのに彼女は、あらかた一人であの子を支えて生きてきたのです。辛かっただろうと、苦しかったのだろうと。私はどう足掻いたって子どもが産めないので、百パーセント気持ちを理解してあげることができないのが非常に悔しくて。未だ顔を上げない彼女の身体を優しく包むと、ついに彼女は泣きだしてしまいました。
「ごめんなさい」、と彼女は言います。「騙すつもりはなかったんよ。でも、比呂士が優しいから」と彼女は私のシャツを掴んで、顔を押し付けてきました。私はそれを決して嫌だとは思いませんでした。泣きたい時に泣けるのはとてもよいことだと思っていました。だって彼女は母親だから、きっと実里さんがそばにいるときは泣きたくても我慢していたのでしょう? 彼女は昔から人より少々強情で意地っ張りでしたから、涙を見せるのが嫌なら、私が覆い隠してあげようと思いました。彼女の背中を軽く叩いて、ただ彼女の気が済むのを待っていました。
 ようやく涙がおさまった彼女は私から身体を離します。シャツに彼女のファンデーションが染み付いていましたが、化粧が落ちるなんてことを気にしないくらいに、溜めていたものを外に出したならむしろよかったと思いました。私はポケットからハンカチを取り出して、彼女の目尻に残る涙を拭ってやりました。「ごめん」とまた彼女が謝るので、黙って頭を撫でました。「そういうわけで、ウチはコブ付きじゃけ」。ああ、彼女はなんてことを言うのだろう。私はとたんに哀しくなって、彼女の頬を弱くはたきました。今までの環境のせいでしょうか、私に拒否されると思ったのでしょうか。ねえ雅さん、私はこんなにも、あなたのすべてがいとおしくてたまらないというのに。
「ねえ雅さん」私の声に彼女はビクリと身体を震わせました。私は彼女の肩に手を置いて、彼女と視線を合わせて、真剣な口調で言いました。「一緒に住むのはやめにしましょうか」。彼女が自分の膝の上で、拳に力を入れるのが分かりました。視線が外され、彼女がまた泣きそうになるのが分かります。哀しい――だけでは、ないのでしょう。その表情から諦めのようなものを感じるのです。「それも仕方ない」、と。ねえ雅さん、私はそれが辛いんですよ。あなたは気付いていないでしょうけれど。私は彼女の拳の上に自分のてのひらを乗せて、そして今度はめいっぱい微笑んで言いました。

「同棲する時間すら惜しい。今すぐ私と結婚してください」

 出かかっていた涙は、驚きで引っ込んだようでした。

 なんで、と彼女が言いだす前に私から言葉を発しました。「あなたの状況を把握したうえでの判断です。あなたは危なっかしすぎる」「でも、ウチ、コブ付きなんよ……?」彼女がまたそんなことを言うので、今度は少し強めに彼女の頭をはたきました。「ねえ、あなたは実里さんの母親でしょう?」そう問うと彼女は、私の言いたいことを理解できずにいるまま、それでも弱々しく頷きました。「それで、あなたは実里さんを愛しているのですよね?」私はもうひとつ質問をしました。やはり彼女は、わけが分からない、とでも言いたげな表情をして、もう一度こくんと頷きました。意地悪な質問をしたと思いました。彼女があの子を愛していることなんて、聞かなくても分かることでしたから。私はついはたいてしまった彼女の額のあたりを撫でながら微笑みかけました。
「でしたら、愛する我が子をコブなんて言い方してはいけませんよ」
 彼女は結局、また泣き始めてしまいました。けれども先ほどまでの涙とは少し種類が違うように思えました。私は彼女の手にハンカチを握らせて、彼女の正面にしゃがんで向かい合いました。彼女が手を握ってきてくれたので、私も握り返しました。髪を触ると、ぺしりと叩いて拒否をされました。本当に意地っ張りな人です。それだから放っておけないのです。一頻り泣いて、ハンカチまできっちりぐしゃぐしゃにした彼女は、私を睨みつけました。「じゃあなんて言うたらよかったんよ」「そうですね、『今なら可愛い娘もついてきて二倍幸せです』と」「阿呆じゃろ」「その阿呆が好きでしょう?」「……だいすき」――そこで私達はキスを交わしたのですが、まあ、それは惚気になってしまいますので今は触れないでおきましょうか。





 ――私達はすぐに籍を入れました。当然のことかもしれませんが、私の両親も雅さんのご両親も最初は賛成しませんでした。けれど彼女のご両親には「雅さんと実里さんを守らせてください」と伝え、私の両親には実際に実里さんと会わせることで最終的に承諾を得ることができました。実里さんもいましたから結婚式は挙げないことにしました。本当にいいのですかと何度もお義母様に聞かれましたが、そんなものなくても私はしあわせになれるのですと答えました。もちろん、彼女と実里さんをいちばん幸せにしたいので、その次に。









2011.6.2.



   


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