わたしのはなし1 | ナノ




 朝目覚めた時、隣に愛する奥さんと娘がいるということはとても幸せなことだと思うのです。名残惜しくも布団を脱出し、ホットコーヒーを淹れて一息つくと自然と目が覚めてきます。今日もいい天気です。強すぎない陽射し、湿気もそれほど高くなく、気温もちょうどいい。絵に描いたように絶好の『お出掛け日和』です。きっと今日も素敵な一日になることでしょう。
 ああ、申し遅れました。私、柳生比呂士と申します。今日は日曜日なので家にいますが、普段は近くの小学校で教師をしています。一応担当は国語、二年生のひとつのクラスを受け持っています。親が開業医ですので、本来ならば私も医者を志すところなのですが、訳あって高校の途中で進路を変更しました。まあその話は本題とは関係がないので、今は置いておくことにしましょうか。


 さて、妻ひとり子ひとりとごく一般的で幸せな家庭のように思われますが、実はそうなるまでにけっこうなドラマがあったのです。おそらくこの時代なら珍しくもなんともない些細なことなのでしょうが、今でもよく覚えている出来事なので、少し私の話を聞いて頂けないでしょうか。







 順を追ってお話しましょう。まずは――そうですね、私と彼女の馴れ初めから。
 私と彼女――今は姓がかわっていますが、当時は仁王雅さんといいました――は同じ中学の同級生でした。正直な話、その頃はお互いよい印象を持っていなかったと思います。自慢ではありませんが私は成績優秀で、風紀委員も務めるような、いわゆる優等生でした。一方彼女はというと、決して頭は悪くはありませんでしたが、見た目が少しばかり派手だったのです。特に印象的だったのはアルビノを思わせる銀色の髪でした。全体的に色素が薄いのだということをさらに際立たせるものでした。
 どうして表面上は正反対に思える私達が惹かれあったのかは、そうですね、少しばかりロマンチックに、神様のいたずらだったということにしておきましょうか。ただひとつ言えるのは、正反対なのはあくまで“表面上”だけだったということ。見た目や環境の違いでお互い勝手に苦手意識を持っていましたが、一度話をしてみると彼女とはとても気が合いました。私達は考え方が似ていましたし、好きなものこそ違えど、嫌いなものが面白いほどにぴたりと一致していたのです。
 私は彼女に恋をしました。彼女に想いの丈を告白し、めでたくお付き合いをすることになりました。私はもちろんのこと、意外なことに(こう言うといつでも彼女はショックを受けたような顔をするので、ないしょですが)彼女も、異性と交際をするのははじめてのことでした。二人とも分からないことだらけで、それでも楽しかった。自転車の後ろに彼女を乗せて走ったり(本当は二人乗りはいけないことなのですけれど)、公園で缶ジュースだけを買ってたくさんのことを話したり、今思えばどれも安くて子どもじみていますが、仕方がありませんね、実際に子どもでしたから。中学生にできるデートなんて、ごっこ遊びみたいなものです。念のために言いますが、決して中学生の恋愛を否定してはいませんよ。そんなの私と彼女のことまでおかしいと言っていることになりますので。
 話が逸れてしまいました。それで、なんでしたっけ。そうそう、順調に思えた私と彼女でしたが、私が高校を外部受験したことですれ違いが起こるようになりました。彼女の通う高校と私の通う高校には少しばかり距離があったのもそうなのですが、なにより大きかったのは私がアルバイトを始めたことだと思います。彼女と出掛けるのにいつも公園を散歩するだけでは申し訳が立たないから、というと言い訳になりますね。本当は少し、見栄を張りたかったのです。『私は彼女を大事にしているのだ』と、目に見えて伝わるようなデートをしたかった。そういう年頃だったのです。それで始めたアルバイトでしたが、結果的に彼女と会う時間を減らすことにしかなりませんでした。あの頃の私は本当に馬鹿でした。お金なんてなくても私達は幸せでいられましたのに。彼女にはひどいことをしたと思っています。泣きながら電話をくれたこともありましたね。
 それでまあ結論を述べると、私と彼女の付き合いはなくなりました。特に喧嘩をしたわけでも、どちらかが別れを切り出したわけでもありません。完全に自然消滅でした。絶縁状態になってからもしばらく、私は彼女を好いていましたが、それでも人間というのは切り替えのできる生き物です。高校では勉学に打ち込むことで彼女に焦がれる時間を少しずつ減らし、大学受験をする頃にはまた誰かとお付き合いをしてみようと思うくらいの心の余裕を持つことができました。
 高校を卒業し、大学に上がり、何人かの女性とお付き合いをしました。もう子どもの私ではありませんでした。お金と時間をある程度自分の好きに使うことができましたし、使い方もうまくなりました。あの頃は知らなかったこともたくさん知りました。キスも、セックスの仕方も覚えました。私はとても幸せでした。真剣に交際していましたし、私はとても愛されていましたから。それでも、どうしてでしょうか、心にわだかまりのようなものはなぜか常に持っていた気がします。結局どれも終わりが来てしまいました。



 それで、どうして一度別れた彼女と今またこうして生活を共にしているのかというと……ああ、私としたことが。すみません、お茶のひとつも出さずに。自分のことに夢中になるとまわりが見えなくなるからいけません。今でもたまに妻に叱られるんです。困ったものですね。紅茶でよろしいですか。ちょうどこの間いい茶葉が手に入ったので、よければ少しいかがですか。ミルクやジャムで味わうのも結構ですが、是非ひとくちめはストレートで召し上がってください。たいへんよい香りがしますよ。……ええ、どうぞ。



 ええと、どこまでお話しましたっけ。ああ、そうでした。彼女といかにして再会したかですが、あれは本当に偶然でした。偶然がうまくいきすぎて運命だったのだとしか思えないほど。
 忘れもしません、けっこうな雨が降る日でした。ふと話題のミステリーが読みたいと思い立ち、職場からいちばん近い本屋に立ち寄ろうとしたら、なんとそこに彼女がいたのです。あの目に眩しかった銀髪はすっかり落ち着いた栗色になっていましたが、なぜか私は一目で彼女だと分かりました。彼女は傘を持っていなかったようで、廂の下でただ止みそうにない雨を眺めていました。「あの、」と私は話しかけます。「よければこの傘に入っていきませんか」。今だからこそ思いますが、あれは私の生まれて初めての、そして人生で一回きりの『ナンパ』でした。怪訝な態度でこちらに目を向けた彼女は、私の顔を見たとたんに表情を変えました。「……柳生!?」「お久しぶりです、仁王さん」。少しだけ挨拶を交わして、立ち話もなんだから、と、私の傘に二人で入って喫茶店まで歩きました。もう推理小説なんてどうでもよくなっていました。私達は、昔の自分達であるなら絶対に選ばなかったであろうコーヒーが美味しいと評判の店に入りました。とりとめのない話ばかりでしたが、とても楽しい時間でした。きっと精神だけはあの頃に戻っていたのでしょうね。
 流れで連絡先を交換し、会計を済ませ(奢らせてほしいと言ったのですが聞き入れてもらえませんでした)、店を出る頃には雨は止んでいましたから、その日はその場で解散となりました。まだ雨が降り続けていたなら、傘を差して彼女を送ることもできたのに、と薄くなった雲を少しだけうらめしく思ったのは秘密です。帰宅してからはずっと登録されたばかりの番号を眺めていました。十数年振りに会った彼女は、とても綺麗になっていました。以前から不思議な魅力を持ったひとではありましたが、なんといえばいいのでしょうか。より女性らしさが目立つようになったとでも言いましょうか。とにかく素敵なひとになっていました。今日はどうもありがとうとたったそれだけのメールを書いては消して、また書いて、を繰り返していました。連絡先を教えてもらえたということはつまり連絡をしてもよいのだということなのだから、何も怖じけることなどないというのに、それでも私は怖かったのです。もう前のように彼女を失いたくありませんでしたから。再会した直後で馬鹿みたいですが、私は再び彼女に恋をしてしまっていたのです。いつまで経っても送信ボタンが押せません。私が行動しないとせっかく来たチャンスがまた逃げてしまう、そう分かっているのになかなかあと一歩を踏み出せないでいると、握りしめていた携帯がぶるぶると震えました。ディスプレイを見るとそこには、ああ、なんということだ、愛しくてたまらない彼女の名が映し出されているではありませんか!
「もしもし」と、緊張してうわずった声で私は言います。「もしもし? ごめん、なんか声、聞きとうなったから」と彼女は笑います。喜びで言葉が出ませんでした。彼女も私と同じ気持ちを少なからず持っていてくれているということなのでしょうか。感動とは、まさにこのような状況をいうのだと思いました。「それだけ、じゃあまた」と電話を切ろうとする彼女に慌てて声を掛けます。「ちょっと待ってください」。本当に、情けないまでに必死でした。「なん?」「あの、来週の水曜日。仕事が早く終わるのですが、仁王さんは何かご予定は?」「……特に、ないけど」「……食事でも、しませんか?」。そこまで言ってはっとします。彼女はあくまで友人として私に連絡先を教えてくれただけかもしれないのに、とんでもない先走りを起こしてしまったと。しばしの沈黙の間に、なんて言い訳をしようかと考えていると、彼女から問い掛けられます。「それはどういう意味?」「は?」「じゃけえ、柳生は友達として親睦を深めようって言うてるん?」。私は勇気を出して言いました。「いいえ、デートのお誘いのつもりです」。返事がとても怖かった。けれど彼女は笑って言ったのです――「そっか……なら受ける。行こうか」。

 食事をする場所は彼女が決めました。女性が好みそうなおしゃれでリーズナブルなパスタのお店でした。私はもう高級なお店に行きたいとは思いませんでした。昔のことで懲りましたし、純粋に彼女が好きなところに行ってみたかったのです。とてもおいしく、量もそれなりで満足でした。
 並んで歩く帰り道、人通りの少ない場所で彼女はふと立ち止まりました。「なぁ、」……私の方に振り返った彼女は、とても真剣な表情をしていました。私は黙って言葉を待ちます。「柳生もウチももう、中学生じゃないよな?」そう問われてこくりと頷くと、彼女は私のほうに歩み寄り、そして――精いっぱい背伸びをして、私に口付けをしたのです。触れたくちびるからワインの残り香がして、私はたまらなくなり、彼女の身体を強く強く抱きしめました。こうして私達の交際は再スタートしたのです。









2011.6.1.



  


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