喧嘩の痕に濡れる頬 | ナノ



 喧騒を離れた場所、封を開けたばかりの箱から煙草を取り出し火を点けた。深く吸い込んだそれを一気にはあと吐き出す。ほんの一瞬だけ視界を遮ったそれはまもなく風に乗って消えてしまった。
 随分慣れたものだと思う。
 はじめて口にした時はこれを嗜む大人の気持ちが本気で分からなかった。元々理解する気など端からなかったのだけれど。



 きっかけなんて忘れた。気が付いた時にはもう既に荒んでしまっていた。
 大人が大嫌いだった。何にでも順位を付けたがり出来のよい者を“よい人間”とする大人が。
 教師は成績の良い生徒を褒め、悪ければ叱る。自宅近所の井戸端会議を趣味とする主婦達は、私がそばを通ると「やっぱり立海大附属中の制服は賢そうね」とよく知りもしない子供を褒めそやす。更に右向け右の日本人は、訳の分からない規則を作り、個人を縛り自由を奪う。
 窃盗や殺人が禁止されているのは分かる。生きていくうえで最低限必要な譲歩、妥協点であると思うから。しかしそれに無関係な、たとえば校則でいうところの髪を染めるなだとか、装飾品を付けるな、何処どこに行くな、何々をするな。そういったことをどうして勝手な大人に決められなければならないというのか。そういう理解不能なルールが増えるたび正しい教育すらできない無能さを露呈するだけだというのに、大人は馬鹿だ。
 正直な話、私は学校にも必要性を感じていなかった。読み書きと簡単な計算さえできれば生活に支障はないというのに、不必要なことばかり教えようとするのだ。判断材料を無理矢理増やしてまで優劣をつけたいのだろうか。つける必要があるのだろうか。
 私は人を信用しなくなった。
 一定以上の学力を保ってさえいれば親は何も言わなかったから、最低限の勉強だけしてあとは専ら一人でいることを選んでいた。こんな私の成績が学年でもそこそこ上位に位置しているのだから皮肉なものだ。

 退屈なだけの委員会をどうにかやり過ごして帰路につく。
 今日は特に苛々する日だった。晴れとも雨ともいえない微妙な天候。唯一苦痛ではない部活は考査期間のため休み。“教師”の肩書きを振り回す大人に面倒事を押しつけられ帰宅の時刻が遅れた。
 ひどく不愉快だ。

『柳生、お前は――』

 本当に、むしゃくしゃする。

『あまり――』


 隣町の高校生が肩にぶつかってきたのは、なんだか無性に球が打ちたい――と思ったちょうどその時だった。







 短くなりつつある煙草をくわえたまま左の頬骨に触れた。じん、と熱が広がりつついた場所がひりひりと痛む。思わず眉間に皺を寄せた。

 顔に傷を負うのは初めてだった。特に重点的に守っていたわけではないが、服で隠せないところを怪我してしまうと周りの人間に誤魔化すのが面倒なのだ。そもそも今までかわせないような攻め方をしてくる腕っ節の持ち主に出会ったことがない。所詮皆、口だけだ。
 舌打ちをして二本目の煙草に火を点けようと、ポケットの中を探っていた。

「あれ、柳生……?」

 ふいに名前を呼ばれ、声の聞こえた方角へ目線を向ける。

「あ、やっぱり柳生じゃ」
「……仁王君でしたか」

 仁王君は私の表情に萎縮する様子などまったくなく、むしろ何か安堵のようなものを含んだ表情でこちらに近づいてきた。遠慮なしに隣に座ったので身体ごと顔をそらす。
 彼が傍に寄ってくるのは不快ではない。ただ、苛々する。彼が自分に懐いているのを知っているから。アレルギー反応を起こしたように脳味噌が痒くなる。彼のことは多分、嫌いではない。けれど嫌いだ。きっと世界で一番嫌いだ。最低限のスペースしか使わない座り方で、私を気にするその素振りが。

「……柳生」
「……なんですか」
「こっち向いて」
「嫌です」
「なあお願い、こっち向いて」

 先程まで心持ち高いように思えた仁王君の声色が一瞬にして変わった。訴えるように肩を揺すぶってくる。
 ――ほら、その目。
 私はその瞳が大嫌いなのだ。

「……怪我、しとるんじゃろ」

 仁王君が、彼からは見えない側の頬にそっと触れてくる。その指先はひどく震えていて、非常に胸糞が悪かった。
 力の限りを使って腕を振り払っても、鋭く睨んでも彼は怯まなかった。
 彼は何か言いたげな様子で見つめてきたが、結局何も言わないままおもむろに立ち上がった。

「待ってて」


 駆けていく彼の背中を私はただじっと見ていた。
 不快ではない。苛立ちももうない。けれどもやはり脳味噌が痒い。
 ああそうか、私は今面白くないのだ。
 そして、彼の存在以上に自分という“個体”を忌々しく思っている。







 夢を見た。
 まだこの世の裏面を知らない幼い頃。褒められたことを純粋に喜べる、汚れていない時期の私の夢。

 頬になにかひやりとした刺激を感じ、ゆるゆると目を開けると仁王君が戻ってきていた。人前では絶対しないような表情、相変わらず虫唾が走る表情。けれどなぜだか不快ではない。蔑みによく似ているのにまるで違う感覚を、目の前の仁王君から覚える。

「ごめん、やっぱ起こしてしもた」
「……私、寝ていました?」
「ん、五分くらいじゃけどな」

 頬には水分を含んだティッシュペーパーがあてられている。冷たいと感じたのはこれか。仁王君がどこかで濡らして持ってきたらしい。

「……どうしてハンカチじゃないんですか」
「持っとらんよ、そんなん」
「それくらい紳士の嗜みですよ」
「うん、ごめんな」

 貼られたそれに上から触れると人差し指にも冷たさが広がった。今現在、彼と同じ色をした髪が街灯の光を反射して目に痛かった。
 仁王君は静かに、今度は私の左隣に座る。動かない、何の言葉も交わさない。車の走る音やバイクのエンジンや耳障りなサイレンが聞こえるだけ。ただ静かに時間が過ぎるのを待つ。彼も、何も言わない。

「――ねぇ、」

 普段私から彼に話し掛けることは滅多にない。他人と関わるのは面倒だし、時間を空費するだけだから。
 人間なんて皆“その他大勢”だ。うわべでしか物事を判断できない。
 ならどうして彼に話し掛けたのかというと、風の向きが変わったからということにでもしておこう。

「貴方は自分の悪い噂を囁かれている時、どんな気持ちなんですか?」

 仁王君が傍にいることなどこの際関係なく煙草に火を点けた。案の定、隣で咳き込むのが聞こえる。身体が拒否しているのに彼はそれを直接口にしようとはしない。まったく損な性格をしていると思う。
 仁王君の瞳が、揺れた。

「――かなしい、よ」

 彼がそう言ったとき果たして私がどう思ったのか、自分でも理解することができなかった。
 悲しい? 哀しい? 自分を悪く言われるのはやはり嫌なのだろうか。一人は辛い? 寂しい? ねぇ、結局貴方も表面が大事? うわべだけ?
 投げ掛けたい言葉は腐るほどあったのに、声に出すことができなかった。ねぇ仁王君、貴方は、貴方も?

 黙ったままじっと仁王君を見つめていた。
 目付きが鋭いから、不機嫌に見えてしまうのだろう。あながち間違ってもいないけれど。

「だって、俺のこと悪く言う話があるんは、大体柳生がなんかした次の日じゃろ?」
「……そう、なりますね」

 ねぇ、何が言いたいのですか? はっきり仰ってくださらないと分からないのです、だって私は狂人ですから。『こんな世の中だから』と妥協して溶け込むことも出来やしない。
 周りの人間は嫌い。その他大勢はどうでもいい。どうせこの先関わることなどないのだし。けれど貴方は、ああそうか、そうですね、仁王君は“被害者”だ。貴方は私を責めますか? 外面が良くて中身の腐りきった“本当の私”を責めますか?

 仁王君が私の膝の上に手を置いた。
 同情? それともそれすらも“うわべ”だけ?

「俺はな、柳生」
「……」
「“俺”の噂が立つたび、柳生が怪我しとらんかなって、心配でたまらんようになる」
「……え?」
「だから……かなしい」

 彼は何を言っているのだろうか。私にはまったく意味が分からなかった。
 心配。
 心配とはどういうことなのだろう。
 先ほど、憐れみや蔑みに似て非なるものを彼から感じた。
 それが“心配”?
 けれど、

「どうして?」

 架空の表現だと思っていた。文献や安いドラマの中でだけだと。
 そんなもの、受けたことがない。私の帰宅が遅くなっても親は何も言わない。本当に学習塾に行っているだけだと思い込んで疑わないのかどうなのかは知らない。とにかく私は“心配”なんてもの、知らない。
 それは何? 根底にあるのは同情か、優しさか、はたまた愛情なのか(こんな言葉も御伽話の中でしか使わないと思っていたのに)。

「どうして、て」

 視線をそらした彼は俯いて口を噤んだ。身体が震えているのが膝に置かれた掌から伝わる。
 泣いている?
 何故。
 貴方は何を考えて、何を理由に涙を流すのですか。

 彼の頬を濡らすそれを拭ってやろうとして、躊躇ってやめた。
 仁王君は地面の方を向いたまま顔を見せない。私はただ時折雫が落ちるのを眺めていた。


 しばらくして、気が済んだらしい仁王君は袖で顔面をごしごしと擦る。
 何事もなかったかのように、いつも(ここで言うのは私と二人でいる時の“いつも”)見せる気の抜けた表情をした。口の端が緩い。多分、おそらく、『笑顔』。
 普段の私なら、もしくは相手が他人であるなら反吐が出そうなほどに拒絶反応を起こすところ。だけど、嫌いじゃなかった。

「友達じゃけ、当たり前じゃろ?」

 立ち上がって「行こう」と私の手を引く彼に、ちくりと刺された気分になった。





 ふいにあの日の彼を思い出す。
 私が起こした煙による噂の根源を目の当たりにした彼は、何を咎めることもせずただ「助けてくれてありがとう」と言ったのだ。

 嫌いじゃないなんて、嘘。
 やっぱり大嫌いだ。
 汚れを知らない――否、知っていてもなお真っ白でいる彼が。



『柳生、お前は仁王と仲が良いのか?』

『あまり、ああいうのとは関わらない方が良い。お前にとってマイナスにしかならない人間なら、早めに切っておけ』



 ああ、どうして私は。

 私が失ったものをすべて持っている彼を見ていると、壊したくてたまらなくなるのだろう。







2011.5.24.



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