逃避行 | ナノ




 俺の大好きな声が、仁王君、仁王君と心地良い音楽を奏でた。ゆっくりと目を開けるとだんだんと喧騒が大きくなってきて、かわりに、先程まで聞こえていたガタンゴトンという心地の良かった音が止んでいることに気付く。
 ぼんやりとした脳味噌を働かせるべく、窓の外を眺めた。
 人の動きが忙しないこの場所は、俺の知っている街と似ているようで全然違う。今まで生きてきて一度も踏み入れたことのない、町。
 着きましたよ、と微笑む彼――柳生の肩に頭を凭せかけたまま、その穏やかな瞳を見ていた。

「降りましょうか」

 こくりと頷いたあと、座席の影に隠れてこっそり柳生の指を握った。







 柳生は俺の恋人だ。
 気が付いたら目で追っていた。見ているだけだったそれはいつの間にか恋に変わった。まさか想いが通じるなんて思っていなかったから、その時は飛び上がりたくなるほど嬉しかった。
 初めて人と手を繋いだ、キスをした。柳生の隣にいるだけで普段通りの退屈な通学路さえも楽しいものに変わる。
 けれど柳生と共に過ごす時間が長くなるほど、心の中にわだかまりのようなものができて、次第に大きなものへと育っていった。
 俺は柳生が好き、本当に本当に大好き。愛、というものなのだと思う。だけど、だからこそ一緒にいると柳生を駄目にしてしまう気がした。
 彼は俺とは違う。明るい未来も可能性もある。果たして俺はそれを潰してしまわないだろうか。彼が生きていくうえで俺という存在が足枷になってしまわないだろうか。
 この先何があるかなど俺には知り得ないし、一生を添い遂げると決まったわけではないのだから、考えすぎなのは分かっている。けれど。何度彼に抱きしめてもらっても、キスをしてもらってもその不安は消えることはなかった。
 それでついに昨日、誰もいない自宅に招待された俺は、ゆっくりと身体を押し倒してきた柳生に縋りついて泣いた。ごめんなさい、嫌でしたかと問う柳生に分かるように精一杯首を振って、怖いのだと呟いた。
 これ以上好きになったら、俺はお前を縛ってしまう気がする。
 柳生に抱かれるのを嫌だとは思わなかった。少しの恐怖はあるが、彼が喜ぶのなら痛みだって羞恥だって耐えてみせる。けれどそれで尚更柳生を放せなくなってしまうのが怖かった。
 そう素直に柳生に告げると、彼は俺を咎めるようなことはせず、ただ静かに抱きしめてくれた。「大丈夫ですよ、仁王君」。こんなみっともない姿を見せたくなかったのに、彼が包んでくれたから、そんなくだらないことを思い出す暇もなく俺はまた涙を零した。その間柳生は何も言わず傍にいてくれて、ようやく泣き疲れた俺の頭を優しく撫でて微笑った。

「ねえ仁王君。明日の予定は?」
「……学校以外は、特に」
「それなら明日、申し訳ありませんが体調を崩したことにして午前中で早退してください」
「……え」
「出掛けましょう、仁王君」

 俺はまた不安になって、でも、その時の柳生の表情がまるでカブトムシを捕まえた少年のそれのように輝いていたので、きっと悪いことは起こらないのだろうと思った。

 当日である今日、予定通り“腹痛を起こした”俺は、“発熱で”俺より先に早退した柳生と学校から少し離れた駅で落ち合った。
 一度帰ったらしく私服を着ている彼は、俺の姿を見つけるとほっとしたように手を振る。
 来てくださったのですね、なんて酷い言葉だ。
 俺が柳生を裏切るはずなどないというのに。

「では行きましょうか」
「なあ、今更なんじゃけどどこ行くん」

 歩き始めようとしていた柳生がこちらに振り向いて、今の状況を心の底から楽しんでいるように見える笑顔で、笑った。

「ずっと遠くへ、です」
「遠く、て」
「近場だと駆け落ちとは言えないでしょう?」

 そりゃそうだよなと納得しかけて、奴がとんでもないことを言ったことに気付く。



「……『駆け落ち』?」










 訳も分からないまま電車を乗り継ぎ、ちゃっかり俺の分まで用意していたらしい私服を柳生から受け取り新幹線の中で着替える。すべての準備を終えて席に戻ると途端に力が抜けてしまったらしい。気が付いたら俺は眠ってしまっていた。
 そして冒頭の会話に戻る。

 新幹線を降りた後もう一度乗り継ぎ。昼に出発したはずなのにその頃には腕時計の短針が五の少し前を指していた。
 思わずはあと溜め息が漏れてしまい柳生の気分を害したのではないだろうかと心配したが、別段気にする様子もなく俺に微笑みかけてきた。

「私、大阪って初めてなんです」
「うん、俺も」
「本当ですか?」

 では二人で迷子になりましょうね、なんて柳生がふざけたことを言うから思わず笑った。
 柳生と付き合うようになって素直に笑うことを覚えた。まだまだ慣れなくてぎこちないとは思う、けれど柳生は分かってくれたようだった。
 すっ、と目の前に柳生の左手が差し出される。おそらく、手を繋いでもいいですよという意味。こんな街中で何を考えているんだとその手を思い切りはたいてやると、柳生はまたくすくすと笑っていた。
 尋常でない速さの人の流れにはぐれてしまわないよう、手を握りはしないものの柳生の鞄を掴んで歩く。普段は絶対にできないようなことも、見知らぬ土地に来てしまえばあっさり行えるのだから不思議だ。柳生が、視線だけは真っ直ぐ前を向いたまま、斜め後ろにいる俺に話しかけてきた。
 ――なんだか背徳感がありますね。
 ――それはこの行動が? それとも、赤信号の横断歩道を渡ることが?
 ――両方、ですよ。



 やはり大阪に来たら粉ものを食べないといけませんよね。
 柳生が、その堅苦しい見た目に不相応なことを言ったのでまた面白くなった。
 道の途中で見つけたたこ焼き屋で大皿を買って二人で分けて食べる。突然の遠出で持ち合わせが足りず特急券を柳生に出してもらっていたから、お詫びとお礼を兼ねてたこ焼き代は俺が出した。どうせ後日返すのだけれどこれは利子分。
 熱々のそれをつついて、満足したらまたあてもなく歩く。ろくに観光もせずただ辺りを散策。隣に柳生がいる、その事実だけで俺は満足していた。

「ねぇ仁王君、見てください。観覧車がありますよ」

 迷っては引き返し、別の道を進んでは迷い、それを続けているうちに大きな建物に辿り着いた。やはりというべきか周りにはカップルが多くて、俺等はそのように見えるはずなど当然ないのだけれどなにか嬉しい気持ちになる。
 柳生の腕を引きたい衝動をなんとか抑え、隅から隅へ駆けまわる。柳生も困ったように笑いながらついてきてくれた。途中、指先が少しだけ触れるたびにどきどきした。
 はしゃぎ回って疲れきった頃、身体を休めるために観覧車に乗り込む。二人揃って脱力したように座り、ガシャンと扉が閉められた瞬間――突如また、大きな不安が襲いかかってきた。
 外はすっかり薄闇。
 孤独を乗せたゴンドラが、上っていく。

「……仁王君?」

 どうしてだろう、今この瞬間、柳生が空気に溶けていなくなってしまうような気がした。

 柳生はどうして、俺をここに連れてきたのだろうか。
 俺は柳生を受け入れてやることができなかった。柳生は真正面から俺と向き合ってくれたのに、俺がそれを拒否してしまったんだ。
 向かいの席に座る柳生の手を必死で握る。
 離さない、離したくない、離せない。
 “これ以上好きになったら”なんて、俺はとんだ大馬鹿者だ。本当はもう、境界線の向こう側なんてとっくの昔に踏み込んでしまっていたのだ。もう後戻りなんてできない。
 柳生は俺の手を振り払おうとはしない。ただ黙ったまま俺の方を見つめてきた。
 なあ柳生、その手を離すなら今だ。今しかないのだ。そんなの嘘、本当はずっと掴んで離さないでいてほしいのに。

 ふわりと、俺が握るのとは反対側の手が伸びてきて、優しく俺の髪を撫でた。

「仁王君、あのね――」



 その時、鞄に入れた柳生の携帯電話が――震えた。



「……ちょっと、すみません」

 いったん手を引いた柳生が申し訳なさそうに鞄を探る。
 ……寂しい、なんて、思ってはいけないことくらい理解している。俺も柳生も子供ではない。だけど決して大人でもない。大人ではない限り、俺達に与えられた時間は無限ではないのだ。
 ディスプレイを確認する柳生の表情を見ることができない。見なくても分かる、きっと親御さんだ。帰りの遅い息子を心配して電話を掛けてきたのだろう。
 いつのまにか、薄暗いだけだった景色はただの真っ黒い世界に変わってしまっていた。

 す、と、柳生が忌々しいそれごと右手を差し出す。

「…………なに?」
「あなたが決めて」
「……え、」



「あなたが必要ないと言うのなら、今すぐにでもこれを割って道頓堀川に投げ捨てますよ」



 まっすぐと見つめてくる柳生の目に、嘘は――なかった。



「…………出て」
「……よろしいんですか?」
「かまわん。早よ出て。今すぐ帰るって言うて」

 俺も嘘偽りなく、柳生に応えていこうと思った。正直な気持ちを伝えようと。
 柳生は今のこの一瞬だけでも、家族より俺を選んでくれた。それだけで十分だ。これは本当に本当。嘘なんてひとつだって吐いていない。
 ただ――少しだけ意地を張った。
 俯いたまま柳生の制服の袖を力いっぱい握った。

 がたん、とゴンドラが傾く。
 狭い空間の中で立ち上がった柳生が俺の隣に座り、涙を拭ったあと抱きしめてくれた。
 ……柳生が傍にいる。



「……もしもし。……はい、連絡が遅くなってすみません。……まだ用事が済まなくて。日付が変わる前には必ず戻ります。……ええ、その時にまた連絡します」





 そろそろ頂上へと差しかかる傾いたゴンドラの中、俺はずっと柳生に包まれて、そのあたたかい手を握っていた。















 帰りの新幹線の中、車両と車両の間に立つ俺に飲み物を差し出しながら柳生が笑って言った。



「ねえ、仁王君。
 人間はね、本気になりさえすれば、一生に必要なうちほんのひとつまみのお金をかけただけであんなに遠くに行けるんですよ。ですから怖いなんて思わないで。離れようとなんてしないで。いざとなったら二人で逃げてしまいましょう。

 ――あなたが好きです」





 柳生はたったそれだけのことを伝えるためだけに、たくさんのお金と時間をかけて、実際にこんなところまで連れてきてくれたのだ。
 ああ、本当に俺は阿呆で。
 環境と世間体だけを気にして、柳生の内側から目を反らしてしまっていたのだ。真っ向から向き合ってくれた柳生。俺は拒否をしたのではない、最初から見ようとしていなかった。
 のう柳生、俺はお前の足枷に、錘に、鎖になっていやしないかな。
 そう呟くと柳生は、誰にも見えないようにこっそりキスを与えてくれた。



 そんな、ほんのつかの間の駆け落ちごっこ。

 ほんのつかの間の、逃避行。







(……やぎゅう)
(はい?)
(…………来週、土曜。泊まりに来てくれる?)
(――ええ、是非行かせてください)










******
一万打企画より、神流様リクエスト『放課後デートする82』。
放課後ですよね? 放課後です! ……すみませんでした。どんどん壮大になっていました……。
柳生は本気になったらどんなことでも簡単にやり遂げてしまう人間だと思ったので、ちょっと大それたデートをしてもらいました。
うまくリクエストに沿うことができなくて申し訳ないです……。

リクエストありがとうございました!
神流様のみお持ち帰り可。

2011.5.18.

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