ワンダーランド | ナノ
ここは俺と柳生の楽園だ。馬鹿みたいだが本気でそう思う。
柳生の部屋にいるといつも時間を忘れるのだと告げると、柳生は、実は私もですと嬉しそうに笑った。
不思議ですね、一人ではそんな風に思うことなど一度だってないのに、と。
てっきり馬鹿にされるかせいぜい頭でも打ったのかと心配されて終わりだろうと思っていたから、予想外の答えに戸惑いつつも嬉しかった。
柳生もそう言うのだから、この空間にはきっと時の流れなんてものは存在していないのだろう。
誰にも邪魔をされることのない、二人だけの場所。
例えば柳生が読書に没頭しても構ってくれと拗ねなくていいし、例えば俺が眠ってしまっても柳生は俺を起こすことをしない。多分後者はいつものことなのだろうけども。
一体この部屋の何がそう感じさせるのだろうか。いつ来ても綺麗に掃除されたこの部屋はむしろ他の何よりも現実的であるように思う。
しいて挙げるとするならば、きっと数えきれないだけの分厚い本と、傍らに置かれ静かにたゆとう紅茶だ。
初めてこの部屋を訪れた時に柳生が淹れてくれた紅茶は、ほのかにジャムの味がして『不思議の国のアリス』を連想させた。
そういえばお茶会の場面がありましたよねと言って柳生が和訳された原作を貸してくれたのだが、帰ってからそれを開くと支離滅裂な文体が並んでいるだけ。小さい頃一度アニメーション映画を見たきりだったが、もっと面白い物語だったように思ったのに。
本を返す際に感想を聞かれ、意地を張るのも馬鹿らしいので正直によく分からなかったと伝えると、それだけ私達が子供でなくなってしまったのでしょうねと苦笑いをしていた。
人間は、生まれた時はこの世の全てを知っているのだそうだ。なのに言葉だとかモラルだとか、生きていく上で必要なものを無理矢理頭に詰め込まれて、その都度本当に必要な知識を落としていってしまう。
アリスはきっとその良い例なのだと思う。理解できないのは、忘れてしまったからだ。
この部屋にいると落ち着くのは、きっと失くしてしまったそれを再び掴める気がするからなのだろう。
俺は柳生の隣、ベッドを背もたれにして以前借りたアリスをぱらぱらと捲る。けれどそこにあるのはやはり訳の分からない言葉の羅列だけだった。
可笑しくもあり悔しくもあり、ティーカップに手を伸ばすと自分の意識しないうちに飲みきってしまっていて、微かにシナモンの残り香がする。ふうと溜め息を一度、空になったカップを皿に戻すと、その音に顔を上げた柳生がおかわりは要りますかと聞いてきた。読書の邪魔をして申し訳ないと思わないでもなかったが、素直にお言葉に甘えることにした。
ここには時間なんて流れていないのだから、いや本当はそれが幻であるということなどとうの昔に知ってしまっているけれど、まだまだ二人でのんびりする余裕くらいはある。
にっこり笑って了承した柳生はトレイを持って一階へと下りていく。
二人だけの不思議の国にぽつんと一人残された俺は、今度は柳生がどんな種類の紅茶を持ってきてくれるのだろうと想像して表情を緩めた。
そして恐らく柳生は、本当は俺が紅茶はストレートで飲む方が好きなのだという事実に気付いている。
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2010年11月17日〜2011年4月24日拍手お礼。
随分長い間お世話になりました。
不思議の国にいる感覚に浸っていたくて、好きでもない小説を読んだり、相手の好みでない紅茶を淹れたりする二人。