時刻は午後、 | ナノ
カチ、カチ、カチ。
壁にかけた時計が静かに時を刻んでいる。
出来上がりを知らせてくれたオーブンの扉を開くと、丁度よい具合にこんがり焼けたチーズの香りがキッチン中に広がった。熱々のそれをテーブルに運ぶとようやく柳生が顔を上げ、興味のなさそうな表情でこちらを見た。
時刻は午後七時前。
貴重な休日をあなたのために割くのですから、せめて最高のもてなしをしてくださいね。
俺の家に誘うとき、柳生は必ずそう言う。
柳生が来るのはいつも昼過ぎ。俺はそれまでに塵ひとつさえ残さないように掃除をする。
午後二時頃、ドアチャイムが鳴るとすぐに玄関に行き、ドアを開ける。そこにいるのは誰にでも優しく愛想のいい紳士ではない。不機嫌さを隠そうともしない冷たい瞳をした柳生だ。
いらっしゃい、俺ができる限りの笑顔で迎えると柳生はまた眉間の皺を深めて俺を睨みつける。
不快を感じたら即刻で帰らせて頂きますので。そう言って柳生は遠慮なしに我が家の敷居を跨ぐ。
それからずっと、柳生は居間のソファーに座り読書をする。俺は柳生の邪魔にならないように、精一杯物音を立てないようにしてそこにいる。
休みの日に柳生と一緒に過ごしたいというのは俺の我侭。それを聞き入れてもらえるだけでも感謝すべきことなのだから、その上構って欲しいなんておこがましすぎる。趣味の時間を取り上げようなんて思わない。隣にいてくれるだけでいい。同じ空気を吸えるだけでいい。
好きなことに打ち込む柳生はあまりにもきれいで、ページをめくる時に生じる音さえも愛おしい。きっとこの横顔は永遠に眺めていても飽きない。
けれど柳生に不愉快だと言われてしまうとつらいので(言われること自体ではなく、せっかくの集中を途切れさせてしまう事実が)、頃合いを見計らって俺はキッチンに立つ。
夕食の準備をする前に紅茶を淹れてこっそり柳生の傍らに置く。柳生はダージリンより、アッサムをミルクティーにして飲むのを好んでいる。柳生が少しだけ飲んだのを見届けてから、“最高のもてなし”をするために腕を振るい始めるのだ。
それが大体、午後五時過ぎ。
今日の夕食にはポテトグラタンを選んだ。きれいに焦げ目のついた方を柳生の座る側に置くと、分厚い本にしおりを挟んでこちらに来てくれる。
スプーンを手に取り、一口。ゆっくりゆっくり咀嚼した後、ちらりと俺の方を見る。
「……いつも思うんですけど」
テーブルマナーに沿った食べ方で、もう一口。
「あなたの味付けは濃いから、口に合わないんですよね」
それきり柳生はまた目を伏せてしまった。
スプーンを器用に使い、口に運ぶだけの単純作業を繰り返す。一口食べるごとに、うん、やっぱり、美味しくないんですよ、なんて言いながら食べ進める。
俺はそれを聞くたびに嬉しくてたまらなくなる。
だって、本当に口に合わないのなら残してくれたっていいのに、柳生はそうしないから。毎回毎回、口に含むごとに美味しくないと呟きながら米の一粒も余さず食べてくれる。
歪んでいるかもしれない。けれど俺は「美味しい」と言われて残されるくらいなら今のままが良い。
夕食を終えたあと、お風呂が沸くのは午後八時。
普段より柔軟剤を効かせた柔らかいタオルを出す。シャンプーも今日のために質の良いものに変えた。柳生が気に入ってくれると嬉しい。入浴剤も常に何種類かを用意。
「柳生、ヒノキとゆずとラベンダー、どれがええ?」
「草津とかないんですか?」
「あるよ。それにする?」
入浴剤がじゅうぶんに溶けた頃、柳生に風呂をすすめる。
後片付けを手早く終わらせて少しの間だけくつろぐ。くつろぐといっても考えるのは柳生のことだけなので実質何も変わっていやしないのだけれど。
しばらくして戻ってきた柳生に風呂上がりの紅茶を淹れて、今度は俺が少し冷めてぬるくなった風呂へ。シャンプーもリンスもボディーソープも、今日はすべて柳生とお揃い、同じ香り。そんな些細なことに幸せを感じる。
さっきまでずっと一緒にいたのに、とてつもなく柳生に会いたくなって、まだ温まりきってもいないのに浴槽から出る。逸る気持ちを抑えられず、乾ききらない髪から滴をぽたぽた落としながら、柳生の元へと走った。
「やぎゅう」
居間に戻ると、眼鏡を外した柳生が気だるそうにソファーに寝転がっていた。ぼんやりと空を見ていた柳生の目が、ギロリとこちらを向く。
「……遅いですよ」
「ごめん」
「私に退屈を感じさせるなんて、酷い人」
「ごめんな」
「許しません」
その瞳がもう一度俺を睨むと同時、左腕が強く引かれるのを感じた。うっかりよろけてしまい、柳生の上に倒れこんでしまう。
ごめんと言う暇さえも与えられないままぐるりと体制を変えられて――気が付けば俺は柳生に見下ろされる形になっていた。
「そんな酷い仁王君には、お仕置きしないといけませんね」
「……甘やかす、の間違いじゃろ?」
「ふざけてる」
一度大きな舌打ちをした柳生は、そのまま俺の首筋に噛み付いた。
なあ柳生。
ふざけてなんかいない。だって柳生は本当に、俺を甘やかしてくれるから。
俺と二人でいる時、柳生は人が変わったように無愛想で意地悪で我侭になる。俺はそれが嬉しい。
だってそれは、くだらない仮面を外して素直な姿でいてくれているという証拠だから。俺のことを信用したうえで我侭を言ってくれているのだと分かっているから。
その事実が最大級に俺を甘やかすことになるのだということに、柳生は気付いていないのかもしれないけれど。
柳生の整った顔を見つめる。
俺の視線が気に入らないのかもしれない、柳生が唇を貪ってきた。
感じるのは柳生の息遣いだけ。
時計の秒針の音はもう聞こえない。
時刻は午後――
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一万打企画より、霜月様リクエスト『鬼畜紳士×乙女詐欺師』。
果たして鬼畜とはこんなものでよかったんだろうか。ただの性格悪い人になってしまった感が拭えません……orz
一口食べるたびに「美味しくないですね」と言う柳生が書きたかった。
霜月様のみお持ち帰り可。
2011.4.21.