空想少女のメランコリー(後) | ナノ








 目を開けるとそこには自分の部屋のものではない天井が広がっていた。
 突き抜ける白、清潔な空気、自分を包む布団からはかすかに優しい太陽の香りがする。
 ちくりと痛む頭に眉をひそめながらゆっくりと寝返りを打つ。

「まだ寝ていてください」

 起き上がろうとした直後、掛けられた言葉に覚醒した。

「やぎゅう」
「ご気分はいかがですか?」
「……ふつう」
「そうですか……」

 はあ、と肩から脱力する柳生を見てなんだか不思議な気持ちになった。安心? 心配してたの、私を? どうして、柳生が優しいからかな。
 寝起きでうまく回転しない脳みそを必死に働かせた。
 柳生がいる、私の隣、私は寝てる、ここは保健室だ、でもどうして。

 急に視界が眩しくなって、カーテンを開けられたのだと理解した。

「お、起きた」
「丸井君、女性が寝ているんですよ」
「ヒロシがいるんだしいいじゃん」

 ひょいと顔を出した丸井が無遠慮に入ってきた。
 “ヒロシがいるんだし”ってどういう理屈だ。これはアレかな、私が退室すべきなんだろうか。あとは若いお二人で、なんて?
 ……とりあえず、これくらいのことを考えられる程度には元気みたいだ。

 貧血を起こして倒れたんだと丸井が私に教えてくれた。
 確かに体調は万全とはいえなかった。昨日は読書に没頭して(好きな作家さんの新刊の発売日だった)ついつい夜更かしをしてしまったのだ。おかげで朝は寝坊、朝食を摂る暇などないまま急いで家を出た。そういえば昼ご飯も空想に夢中で、食べていなかったような……気がする。
 空腹感はないけれど身体は妙にだるい。人間としての本能を忘れてしまうのは、さすがに自分でもちょっと問題だと思う。

「ヒロシに感謝しろよな。お前をここまで運んだのコイツだし」
「え」
「丸井君っ!」

 柳生がとても焦った様子で首を振り、丸井を睨みつけていた。
 こんなにうろたえる柳生の表情を見ることができるなんて、体調を崩すのも悪い事ばかりじゃないなあ、なんて。スケブに収められないのは残念だけれど。
 そうか、じゃあさっきの、身体が軽くなる感覚は――?
 途端に恥ずかしくなって布団をぎりぎりまで被った。どうしよう、居心地が悪い!

「ごめんなさい……」
「なんで俺の方見るんだよ」
「や、だって……」

 色々と。柳生を見つめすぎてしまったり、そのせいで丸井を怒らせたり(暫定)、貧血のせいで柳生に迷惑を掛けたり、また丸井が怒ったんじゃないかと思ったり(暫定)、諸々。
 ほら、また、柳生がすごく複雑そうな顔をする。
 そもそも私が背景に溶け込みきれていないせいで色々こじれてしまっている。
 現実と商業BLは違う。事件も修羅場もすれ違いもない平和なだけのBLはつまらないけど、現実は平和であってこそだ。時々喧嘩をしてもすぐ仲直りしてしまえるような関係であってほしい。
 ああ、そうか、これはまた新たなフラグか。きっとこの部屋を出たあと不機嫌な丸井が柳生を放って廊下を歩いて行ってしまって、柳生は哀しくて泣いちゃうんだ。声を上げるわけじゃなくて、静かに俯いて声を殺して。一度少しだけ振り向いた丸井がその姿に気付いて、ごめんなって頭を撫でてあげるんだ。抱きしめるのは家に帰ってから!(だってここ一応学校だし)

「じゃ、平気そうだし教室帰るわ。行こーぜヒロシ」
「……すみません」

 だけど。

「先に帰ってください。仁王さんと二人でお話したいことがあるので」
「お? ……おー分かった。じゃあまあ、頑張れよ」
「あなたはっ……もういいです」

 こんなシナリオ、私は知らない。





 保健室の扉が閉まる音が聞こえる。
 本当に、帰ってしまった。カーテンで仕切られた狭い空間に私は柳生と二人きり。
 今、百パーセントの状態で脳が動いていなくて良かったと本気で思う。いつも柳生の顔を見るだけで冷静でいられないのに、更にこんな状況なんて。
 心臓がうるさい。顔が熱い。落ち着け、ウチは病人ウチは病人。……うん、落ち着いた。

「……先程は、変なことを聞いてすみませんでした」

 しばらく押し黙ったままだった柳生が意を決したように口を開いた。

「……へんなこと?」
「丸井君のことをお好きなのですか、と」
「ふうん……へっ!?」

 待って、彼は今なんと言った。
 私が、丸井を、好き?
 どこでどういう思考回路を以てそうなったのか純粋に知りたい。
 というより、なぜ。

「…………ないないないないない、ない、違う、絶対ありえん!」
「あの、分かりましたから、あまり大声を出さない方が」
「……ごめん」
「いえ、体調に差し支えがないなら良いのですが」

 目を覚ました時から陰りがあった柳生の表情が和らいだ。安堵とか、本来持っている柔らかさとか、そういったものが戻った気がする。
 そうかなるほど、丸井だけじゃなくて、柳生にまで余計な心配を掛けてしまっていたのか。申し訳ないことをしたな。
 ……ちょっと待って、なんだか私、村人Dどころか相当なキーパーソンなんじゃないの?いけないいけない、モブに戻らないと。ウチは背景ウチは背景、ウチは、

「そうですか……なら、良かった」


 ――――ねえ、本当にモブなら、こんな台詞聞ける?


「やぎゅ、今の」
「あっ……と、なんでもないです、忘れてください!」
「ちょお待って、柳生、くわしく聞かせて……」
「心の準備が整っていないので無理です!」

 柳生が勢い余って立ちあがったせいで、傍らの丸椅子が倒れた。
 あ、とその音に平静を取り戻した柳生が、蚊の鳴くような声ですみませんと呟いた。俯いたまま素早く、それでいて静かに椅子を立てる柳生の頬はすっかり紅潮してしまっている。……どうしよう、かわいい。
 自然とにやけてしまう口元を慌てて布団で隠した。
 よっぽど好きなんだ、なあ。
 普段大人びて穏やかな柳生がこんなに動揺するなんて。

 わざとらしい咳払いのあと、柳生が座り直す。

「……失礼しました」
「んーん、ええよ」
「とにかく、私が変な質問をしてしまったせいで仁王さんの体調が悪くなったのなら申し訳ない、と思いまして……その、掘り返すようですみません」
「だいじょぶ、むしろ元気になった」
「……え?」

 (萌えという名の)栄養と活力をありがとう、柳生。ウチは今それを聞けただけでお腹がいっぱいです。
 柳生の顔はまだほんのりと紅い。目線は反らされてしまって、空間ではない別の何かをぼんやりと見ている。
 本当に可愛い。私がこんな可愛い柳生を見ていてもいいのかな。でも丸井に見せてしまうのはなんだか嫌だな。独り占めしたい。どうしてそう思うのかは分からないけれど。

「……あの、仁王さん」
「なん?」
「部活は休みますので、一緒に帰りませんか。やはり心配ですので送らせて頂けたら……と」
「え……でも」
「嫌なら、いいです」
「嫌なんかじゃなか!」

 嫌なんかじゃない。柳生はこんなにも格好良いし、綺麗だし、それでいて可愛いし。隣を歩くのはあまりにも申し訳ないけれど、さっきの話も詳しく聞きたいし(本題)。
 でも本当にいいのかな。丸井が嫌がったりしない? 柳生は困ったりしない? 本当に私で良い? ……今の、どういう意味だろう。

 しばらくぽかんとしていた柳生が(やっぱり可愛い、今日のサービスの良さはなんなの!)目を細めて微笑った。

「では帰りに。鞄をお持ちした方が良いですか?」
「ううん、大丈夫じゃけ。自分で行く」
「そうですか。ではB組で待っていますね。ゆっくり身体を休めてから来てください」
「ん」

 おやすみなさい、と柳生が優しく言って立ちあがると、静かにカーテンを閉めていった。
 ごろり。寝返りを打って布団の中に潜り込む。
 どうしよう、どうしよう。ついに柳生からも、あの柳生からものろけに似たようなことを聞いてしまった。
 今はとてもじゃないけれど眠っていられる精神状態ではなかった。
 貧血なんて今の興奮のせいですっかり治ってしまったんじゃないかと思った。










 どれだけ感情が昂っていても体調不良の時は眠れるらしい。
 あれからもう一度夢を見て(どんな内容かは忘れたけれど柳生が出てきた気がする。幸せ)次に目を覚ました時には既に陽が傾きはじめていた。
 ぼやぼやとする頭を何度か小突きながら廊下を歩く。
 身体を休めろとは言ってくれたけど、さすがに待たせすぎたかな。
 ごめんね丸井、今日一日だけ、柳生さんを貸してください。邪魔をするつもりなんかこれっぽっちもない。むしろ全力で二人を応援したいから、そのために柳生に話を聞きたい。
 柳生のあの身体に沁みわたる声が心持ち高くなったりするのかな。照れ臭そうに俯いて、それでも幸せそうに笑うのかな。想像しただけで口元が緩む。
 さよなら、ウチの短かったモブ人生。今日からは二人の恋路を見守る幼馴染ポジションに移ります……。
 はやる気持ちを抑えきれないまま教室の前まで来た。この向こうに柳生がいるのだと思うとまたもや指先が痺れ始めた。このままではいけない、と一度大きく深呼吸。
 あくまで平然を装ってがらがらと扉を開ける。
 なんて声を掛けようかと悩みながら顔を上げて――――そこに存在していた光景に、絶句した。

(ちょっと、まって)

 寝てる。

 柳生が。



 丸井の席で。



(ちょっ…………!!!)

 落ち着いて、暴れないで、静まれ私の心臓!
 こういうときの対処法は手のひらに「人」という字を三回書いて飲み込んで……じゃない、それは緊張をほぐすためだ!(間違いじゃない気もするけど)
 えっと、これは、どういうこと?
 つまり、

(据え膳……?)

 ついさっきまで、丸井ばかりがガツガツしているんだと思っていたのに。柳生はそんなワガママで俺様な丸井のことさえも好きで、大きな心で包んであげるんだと思っていたのに。
 どうしよう、これは、新境地だ。

(見た目以上にヤキモチ妬きな柳生がどうしようもなくなったら、三ヶ月に一回くらい壊れてしまう日があって)
(自分から誘って、狂ったみたいに求めるんだ。場所なんか選んでいられないほど余裕がなくて、そんなときの柳生はふとした仕草さえ妖艶で)
(ああでも! これが事後の可能性もあるし! 独占欲の強い丸井が無理矢理襲った後かもしれんし!)
(ちょっと待ってネタメモ欲しい……ちゅーか考えるんも追い付かんし、もう! 今だけ分身したい……!)

 慌てて鼻から下を利き手で覆った。息が出来なくたって構わなかった。多分このままだと色々出そうだし。……何がってそりゃ、鼻血とか、涎とか。

 本当は今すぐ走りまわって叫びたい衝動に駆られていたのだけれど、柳生を起こしてはいけないという最後の理性が働いてなんとか思いとどまった。
 何度も何度も肩で息をして平常心を取り戻した(つもり)あと、眠っている柳生と向かい合う。

(やっぱり、きれい)

 恋をしているんだな、と思った。人は恋をしたらきれいになるのだと聞いたことがあったから。
 柳生はどんな恋に落ちたのだろう。どうやって心を通わせ合ったのだろう。どんなふうに、人を好きになったのだろう。
 考えただけで胸が締め付けられる想いだった。トクントクン、と脈が速くなるのを感じる。
 どきどきする。こんなにも切ない、苦しい。

(……スケッチだけ、してもええかな)

 こっそり立ち上がり自分の席に戻る。お目当ての物を見つけて鞄から取り出し、もう一度柳生の前に座った。
 左手ががくがくと震えて思ったように線が引けない。
 静かに目を閉じた。グラウンドから汗水垂らして部活に励む生徒の声がかすかに聞こえる。
 ああ、こういうのが好きだ。穏やかにゆるやかに流れる時間。現実は滅多なことで激動などなくて、ただ淡々としている。その方がすき。気が付いたら過ぎ去っているような毎日がいい。
 そんな私の好きな空間に今は柳生もいるんだ、と思うとなにかとても嬉しかった。
 シャープペンを滑らせる。風向きが変わったからかもうグラウンドからは何の音も届かない。聞こえるのは芯と紙の擦れる音だけ。

(あ、)

 書き進めているうちに、あることに気付いた。

(眼鏡、邪魔そう)

 窓ガラスに寄りかかっている柳生が僅かに眉間に皺を寄せた。私は視力がいいから分からないけれど、さすがに眠るときは眼鏡を外すのだろう。
 勝手に外しても良いのかな、大丈夫かな。寝苦しそうに見えるし。
 手にしていたシャープペンを置いて、刺激しないようにそっと眼鏡を抜き取った。……まつげ、長い。こうして見ると余計にきれい。
 いつも大人びているのに寝顔は妙にあどけなくて、やっぱり同い年なんだなと少しおかしくなった。
 まるで眠り姫だ。柳生はどちらかというと王子様だけれど、ましてや私は王子でも姫でもないけれど、でも、眺めることくらいは許される?
 はちみつ色の髪が風に揺れる。ふわりとシャンプーの香りがした。甘すぎない心地のよい香り。
 ふ、と柳生の口元が笑った。何か幸せな夢でも見ているのかな……かわいい。
 薄いのに柔らかそうなくちびるがとても魅力的に見えた。荒れて乾いた私のものとは違う。なんだかとても、

(おいしそう……)

 ほんのりと赤い柳生のそれに吸い寄せられる気分だった。
 あとちょっと、近くで見たい。もう少し、もう少しだけ――

 あまりにも柳生を見つめるのに夢中だった。
 いっぱいいっぱいになりすぎて、柳生の目が開いたことにさえ鈍感になっていた。
 寝起き独特のうつろな瞳が揺れて、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。
 私が『普通』を取り戻したのは柳生の脳がきちんと働きだした直後、椅子ごと身体を引く柳生を見てすぐだった。

「な……に、してるんですかっ!」
「あっ、えっと、あの……ごめん、見惚れてた」
「……えっ?」

 またやってしまった、と後悔しても遅い。
 自分の空想癖や、一度スイッチが入ってしまったときの妙な集中力は自覚しているのに、だからといって簡単に直せるものではない。
 ……とてつもなく恥ずかしい。まさに穴があったら入りたい。
 どうしよう、どうしよう、こんなの言えるはずがない。だって、あまりにもおいしそうだったから。このくちびるを食べられる丸井を本当に羨ましく思ったんだ。

 さっきから黙っている柳生がなんだかとてつもなく怖く思えて、様子をうかがうべくおそるおそる顔を上げた。……多分、なんの準備もなしに挑んだのが間違いだったんだと思う。現実は創作された世界じゃないから、次にどんな事件が待っているのかと身構えることなんてしない。
 柳生と目を合わせて、そして、私は初めて柳生と出会ったとき以上の衝撃を受けることになる。

 怒っているのか、それともただ考え込んでいるだけなのか分からない複雑な表情。愛想の良い優しい笑顔じゃない。



 眠っていたときには分からなかった、眼鏡のない柳生の顔。



(目つき、悪っ……!)

 一度戻ってきた羞恥心はどこへやら、私は息を飲んだまま目をそらすことができなかった。
 くっきりと刻まれた二重。切れ長の吊り目は眼鏡がないせいで見づらいのか更に細くなっている。どちらかといえば三白眼の部類である瞳が鋭い眼力を更に強烈なものにしている。
 ああ、知ってる。これは確か、あの部類だ。

(“鬼畜眼鏡”……っ!!)

 ちょっと待って、つまりそれって。


(………………攻め?)


 今まで浮かびもしなかった第三の可能性が、妙にすとんと心に落ちた。
 眼鏡を外すと変貌、二面性、昼は紳士だけど夜は野獣、なんて?
 独占欲と支配欲が人一倍強くて、ベッドの中では優しさなんて欠片すらないドS属性。
 全身の力が抜ける。ぐらり、また倒れそうになる。心臓のざわめきがあまりにも煩い。落ち着いて、落ち着きんしゃい雅。

(そうか、逆だったんだ。なんだか不思議な感じ、でもなんとなく分かる気もする)

「……仁王さん?」

(今までのは表の顔、仮面紳士。優しゅうて穏やかな柳生に、丸井は惚れたんかもしれん)

「あの、何か、」

(けど想いが実っていざ付き合うってなったら、柳生の裏の顔にびっくりするんだ。意地悪で尊大で、でもそんな柳生のことも丸井はきっと)

「落ちました……け、ど……」

 そうだ、帰ったらすぐに机に向かおう。もちろん勉強のためじゃない、脳内整理を兼ねて自己生産するためだ。お風呂でもネタを練ろう。いつものように考えすぎてのぼせないように気をつけないと。
 大丈夫、ウチはどっちが右でも左でも応援してる……。

「……仁王さん」

 ――もしもタイムスリップができるなら、三分前の私に言いたい。
 反省したばっかりじゃなかったの、と。
 空想世界にトリップするのは一人の時だけにしておきなさい、と。

「はい……」

 あまりのどんでん返し(私が予想しきれていなかっただけなのだけれど)に度肝を抜かれて、それでまた、周りが見えなくなってしまっていた。呆けたような腑抜けたような、ばかみたいな表情をしていたのだと思う。そんなこと気にしていられないくらいに夢中で、目の前の柳生が床にしゃがみこんでいるのだという事実すら理解するのに時間が掛かった。
 あと少し、もう少しだけ早く、柳生さんが何を見て固まっているのかに気付けたら。



「これは、一体……どういうことなんでしょうか」



 柳生が覗くのは、私の手から滑り落ちたものだった。

 ――イコール、スケッチブック。



 ご丁寧に、熱心に書きかけていた柳生の寝顔のページが開かれたまま。



「……! ご、ごめん、なさいっ!」

 全身の血の気が引いていくのを感じた。
 なるほどこれが蒼白という状態なんだ、とか考えていられる余裕なんてこれっぽっちも残っていなかった。
 柳生の手からスケッチブックを半ば強引に奪うと無理矢理鞄の中に詰め込んだ。
 一体何に対して謝っているんだろう、私は。覗き見したこと? 肖像権を無視してスケッチしていたこと? そのくせ特別上手いわけでもないこと? ……全部、かな。
 柳生の眉間の皺が深くなる。目つきがみるみる鋭くなる。きれいな顔が歪む。

「……あの、」
「ごめんなさいっ、あの、別にこれでどうこうしようとか思ってなくて、あくまで個人が楽しむ範囲で、じゃなくて、えーと」
「そうで、なくて」
「…………ごめんなさい!」

 テンパるっていうのはきっとこういう状況なんだな、と、さっき柳生が起きた時に思った。
 馬鹿じゃないのか私は。
 あんなかわいいもんじゃない。だって私は今、穴があるならそのまま埋まってしまいたいと思う。もしくはこの部分の記憶だけガスバーナーで焼き消したい。起こってしまった事実は消えないけどこの際どうでもいい。

 逃げてしまおうと思った。運動神経は悪い方じゃない。運動部の柳生を撒けるほど早くは走れないだろうけど、途中でどこかで隠れてしまえばいい。
 そこから先の行動は素早かった。正しく言うと素早かった“はずだった”。
 自分の鞄を引っ掴み、教室の出口へとダッシュ……するつもりが、やっぱり元々持ち合わせた反射神経の違いからあっさり手首を掴まれてしまった。おそるおそる振り返ると柳生に怒った様子はなくて、けれども有無を言わせないオーラみたいなものをまとっている気がした。

「……ごめん、なさい」
「だから、そうでなくてっ……あーもう、こんなタイミングで言うのもずるいと思うんですけど、仁王さん!」
「はいっ!?」
「……っですから……、好き、なんですけど!」

 柳生が発した言葉に、焦燥感も羞恥心も、申し訳なさすら飛んでいった。

 ――今、彼はなんて言った?
 好き? 誰が誰を。柳生が……私を?
 まさか、ありえない。だって柳生はこんなにもきれいな人で、好きになるのもそれに見合う素敵な人のはずで。
 だってそもそも柳生は。

「初めてお会いした日から、不思議な人だと、思っていて」
「気になって仕方がなくて……もう一度会いたいと思ったんです」
「本当ならメールで済ませれば良い伝達を、わざわざ伝えに来ていたのも……あなたに会うための口実で」

「一目見られるだけで満足でした。……そのはずでした」

 柳生の言葉が、口調が、声が、耳の中に残ってこだまのように響き続けていた。
 私の腕を掴む柳生の手のひらが熱い、耳が紅い。



「仁王さんは、私のこと、どう思っていますか……?」



 一度どきんと高鳴った脈は、いったいどちらのものだったんだろうか。



「ウチは……柳生のこと、きれいな人じゃってずっと思ってて、優しい笑顔とか、はにかむ表情とか、ぜんぶきれいで。ウチの憧れで…………でも」
「……恋愛対象としては?」
「……っ」

 好き、って、なんだろう。
 好きか嫌いかと聞かれれば好きだ。けれどライクとラブの違いなんて私には区別をつけられないし、恋をしたことなんてないから分からない。
 恋なんて、おとぎ話と漫画と小説の世界でしか知らない。私は柳生のことが好きなの? 柳生の為に可愛くなりたいと思ったり、付き合ったり手を繋いだりしたいと思ったことが一度でもあった?
 答えは――ノーだと思う。

 柳生の顔を見る余裕なんてなかった。
 どうしてだか泣いてしまいたい気持ちになって……それでもなんとか耐えて、ただ首を横に振る。
 とたんに力の抜けた柳生の手が、するりと私の手首を解放する。さみしい、なんて、どうして感じてしまうのだろう。

「そう、ですか……」
「…………」
「……ありがとうございます」
「……えっ?」
「あなたは真剣に自分と向き合って、きちんと答えを出してくれましたから」

 いつもしゃんとした柳生が、今にも崩れそうな――たぶん、精一杯なんだと思う――笑顔で、言った。
 違う、違うよ柳生。私は真剣に向き合ってなんかなかった。いつだって自分の私利私欲のために解釈して、行動して、勝手に理解者ぶって、結果的に柳生を傷つけてしまったんだ。
 ……最低だ、私なんて。
 柳生が必死に笑ってくれるのにそれに合わせることさえできない。

「……すみません、やっぱり今日、一緒には帰れません。ですが……明日からしばらくは、また普通に話しかけても良いですか?」
「……しばらくじゃのうても」
「察してください。……諦められなくなりますから」

 ああ、そうか、これが恋というものなんだ――と、今更になって思った。
 ひとつの恋が終わりを告げたら、もう一生混じり合うことはないのかな。私が柳生を、ふってしまったせいで。


「……では、また明日。さようなら、仁王さん。……お気をつけて」





 さっきはあんなに見るのが辛かった柳生の後姿を、私はただずっと、遠くなるまでずっと見ていた。










 とんでもないことをしてしまった。
 基本的に自分には正直。来るもの拒まず去るもの追わず、けれど欲しいものには執着する。そんな風に生きてきた。後悔なんてほとんどしたことがなかった。
 ねえ、どうして現実は、たった一日で、私の知っているドラマのない平凡な日常から姿を変えてしまったんだろう。どうして私は今こんなに苦しいんだろう。



 最後に見た柳生の無理矢理作った笑顔と、寂しい後姿が目に焼き付いて離れなかった。大好きな本を読んでも湯船で空想の世界に浸ってもかなしい気持ちは拭えない。
 部屋の照明を消したまま、デスクの明かりだけで部屋に籠った。
 考えるのは柳生のことだけ。
 今何をしているんだろうか、明日から普通に話せるんだろうか……どうして私なんかを好きになってくれたんだろうか。
 気が付いたら今日一日で、柳生でいっぱいのスケッチブックが一冊出来上がっていた。










******
勘違いが勘違いを生む中学生日記。
の、予定だった。
何を間違ったってまず仁王ちゃんを頭の弱い子にしてしまったのが問題だった。おかげで何度もマウスを投げそうになった。

2011.4.15.

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