詐欺師と紳士と携帯灰皿 | ナノ
――慣れというのは恐ろしいもので。
賑やかな笑い声が廊下にまで響き渡り、B組だなと分かった。三年生の中でも特に落ち着きのない自分のクラスは男女関係なく仲が良い。グループらしきものはそれなりに存在するが、体育祭や文化祭時の団結力は他のどの学級にも劣らないと思う。うるさいだけで終わらないのがうちのクラスの長所だ。
そんな教室のドアをがらがらと音を立てて開けると、今までのざわつきが嘘だったかのように一斉に静寂が広がった。空気が張り詰められたというべきか。
気にせず堂々と教室の後方を歩く。窓際一番後ろにある日当たりの良い自分の席に着くと、クラス全体の緊張の糸が徐々に解れていくのが見て取れた。一瞬のうちに音を忘れてしまったのではないかと思われた教室に、少しずつ囁き声が戻ってくる。
『ねぇ――』
チラリとこちらを見て話す奴がいれば、あからさまに目を逸らす奴もいる。
またか、と思った。
一限の授業の用意をしながら、極力クラスメイトの会話を拾わないよう努める。伸びと共に欠伸をすると、教室の反対側にいた女子の何人かが肩をビクリと震わせた。怖じけたのだろうか。
「おい、仁王」
声を掛けてきたのが誰かなんて考えなくても分かる、丸井だ。この教室で俺と関わろうとする人間なんて奴くらいだ。
前の席の丸井は椅子を動かすことはせず、背もたれ部分を跨いでこちらを向く。
「おぉブンちゃん、おはよう」
「『おはよう』じゃねーよ。欠伸なんてしてて良いワケ?」
「さて、何の話かの」
「お前って本当マイペースっつーか、暢気だよなぁ……」
丸井は俺の机に頬杖をつき、面倒臭そうな表情でガムを膨らませる。その薄緑が割れると同時、デコピンをお見舞いされた。しかも相当な力で。
「ま、せいぜい怪我すんなよな。ほどほどにしとけ」
ズキズキと痛むのは、額だけではなかった。
「気ぃ付けるよ」
――立海大附属中の仁王雅治といえばちょっとした有名人だ。
普通に有名なのではない。悪名が高いのだ。毎日のように問題を起こす、いわば不良。
最早日常と化してしまっていた。自分が入った途端に教室が静まり返り、誰かがこちらを見てヒソヒソと話す。何か恐ろしい猛獣を見るような視線を注がれる。呆れた丸井が説教じみた言葉を口にする。
仕方のないこと、というより、むしろこの反応が当たり前なのだと思う。光を浴びると透ける銀色の髪が更にそれを際立たせているのだろう。
さて、今日の“俺”はどんな武勇伝を残したのだろうか。
まるで他人事のように考えることで妙な空気である時間をやり過ごすことも、俺にとっての日常に組み込まれていた。
ようやく昼休みになった。
昼食を片手に教室を出ると参謀と鉢合わせた。適当に挨拶を済ませると、柳は俺の顔を観察するようにじっと見つめてきた(気がする)。
奴は一度大きく溜め息を吐くと、いつ如何なる時も肌身離さず持っているノートで俺の頭を優しく叩いた。一体なんなんだ、気持ち悪い。
「程々にな」
何故かとても穏やかな表情で、柳は言った。
「さっき丸井にも同じこと言われたんよ」
「同じ言葉かもしれないが恐らく意味合いは違うぞ」
笑うしかなかった。こういう時の誤魔化し方を俺は知らなかった。奴も俺につられたように苦笑していた。
今まで柳はこの話題に触れるどころか、知っている素振りすら見せなかった。
……『すべてお見通し』、ということなのだろうか。やはりうちの参謀は怖い。
屋上へと続く扉を開ける。
眩しさに目が眩みそうになるのを必死で耐えながら、右に左に視線を移す。程なくして、学校規定通りの制服に身を包む彼の後姿を見つけた。
どこか物悲しいその背中に俺は迷わず声を掛ける。
「今度は何やったん? ――柳生」
振り返った柳生の右手には、半分程の長さになった一本の煙草。
「“俺”、十人相手に喧嘩したんだって言われとったけど?」
「噂とは恐ろしいものですね。正確には七人だったと思いますよ」
「そう変わらんよ」
メロンパンの袋を開封しながら、今日初めて心から笑った。
隣に立つ柳生は元生徒会役員、現風紀委員という真面目を絵に描いたような奴だ。少なくとも、外面は。
教師・生徒問わず信頼は厚いし、紳士なんて二つ名まで持っている。まさか裏で荒んだことをしているだなんて誰も疑わないだろうし、そもそも思い付きさえしないだろう。
――きっかけは幸村だった。
確か一年生の終わり頃だったと思う、俺と柳生を何度も交互に見たかと思うと「キミ達って顔付きだけ見てみると少し似てるよね」と突拍子もなく口にした。言われてすぐ柳生の顔を覗き込んだ時には分からなかったのだが、帰って部員で撮った写真を並べて確かにそうかもしれないと思った。
それを機に柳生と少し言葉を交わすようになった。自分と価値観の違う人間と話すのは新しい発見があって楽しかった。
俺に関する悪い噂が流れるようになったのはそれからしばらく後のことだ。
最初は派手な見た目から出たものかと思っていた。しかし、放っておいたらそのうち収まるだろうと思っていたそれらは止まるどころか勢いを増すばかりで、内容も曖昧だったものから現実味を帯びるものへと変わっていった。
俺の周りから人がいなくなった。
どうこうしようとは思わなかった。弁解したところで誰も信じやしないだろうし、元々一人でいることに苦を感じないタイプだ。俺は誰にも頼らなかったし、縋ろうともしなかった。結果的に更に孤立することになった。
そんなある日のこと、帰り道で運悪く不良に絡まれた。ダッシュすればなんとか撒けるだろうかと考えていたら、身に覚えのない台詞を吐かれた。「一昨日はよくもやってくれたな」。
全くもって意味が分からなかった。
ふわり、と身体が軽くなる。浮いているような感覚に襲われた。いや……実際に、浮いていたのだ。
ああ、胸倉を掴まれたのか。なら俺はこれから殴られるのだろうか。
自分でも驚くほど冷静だったことだけは覚えている。不思議と恐怖心はなかった。ただ、外で殴られて帰ったら親が泣いたりするんだろうかと場違いなことを阿呆みたいに真剣に考えていた。
ほんの気休めに目を閉じる。やるならやれ、それで気が済むんなら構わない。
だが、浴びせられると思っていた拳はいつまで経っても降ってこなかった。相手が怯んだのが俺の服を掴んだままの左手から伝わって、おそるおそる目を開ける。
俺と同じ姿と顔を持った人間が、そこにいた。
「やれやれ……仇の顔くらいきちんと覚えておいてくださいね」
俺とそっくりのそいつが、周りの気温が下がって凍り付いてしまうんじゃないだろうかと思うような笑顔で言った時――俺は全てを理解した。
柳生と親密になったのはそれからだ。
どうしてだか自分の姿で悪さをする彼を咎める気にはなれなかった。今まで関わってきた柳生比呂士という人格とのあまりのギャップに興味を持ったことだけが理由ではないと思う。とにかく非難する気はなかった。
柳生は制服の内ポケットから携帯灰皿を取り出すと、すっかり小さくなってしまった煙草を収める。続けて鞄から出したのは立派な風呂敷に包まれた弁当箱だった。もし柳生にひとつだけ文句を言えるとしたら、「せっかく親御さんが作ってくれた弁当なんに食べる前に舌を馬鹿にしてどうする」と言ってやりたいなと思った。
奴は、菓子パンだけの昼食を摂る俺に「栄養が偏りますよ」と金平ゴボウを分けてくれた。スレているくせに栄養バランスを気にしたり、ポイ捨てせずに携帯灰皿を持ち歩いていたり変な奴だ。紳士と呼ばれる理由はもしかしたらこんなところにもあるのかもしれない。
――俺を助けてくれたあの日、独り言だったのかもしれないが柳生が零した言葉がある。
「優等生って、疲れるんですよ」
そう呟いた奴はどこか儚く寂しげで、今でもあの時の表情を忘れられずにいる。
柳に掛けられた「程々にな」という言葉を思い出した。
理解はできるが、きっと実行は出来ないのだと思う。
ごめんな、参謀。口から出た途端その言葉は空気に溶けた。
2010.9.4.
2011.1.14.掲載