アネモネ2 | ナノ





     三

女の子は可愛いばかりではないのだと、わたしは中学に上がってそれを知った。ばかみたいにグループで行動したがり、どこに行くにもみんなで一緒、単独行動を許さない。誰か一人が席を外すと、次の瞬間話題がたった今まで一緒に楽しく話していたその子の悪口に変わったりする。時には恋人同士でもないのに『男がお金を出すのが常識でしょ』なんて傲慢さを持った奴もいる。
それを差し引いても女の子は弱い生き物だ。力も体力も男に勝てないのはきっとアダムとイブの頃から変わらない。だから女は男に頼るのだ。男性には優しく扱われたい。媚びたくなる気持ちも分からないでもない。わたしも女だから。だからせめて“俺”くらいは、精いっぱい女の子に優しい存在でいようと。
そう、思っていたのに。

あ、と気付いた時にはもう遅かった。べしゃりと崩れ形を失くしたケーキと見えなくなったイチゴ、呆然とするクラスメイト。思いきり振り払った自分の左手。
たった一瞬の間に凍りついてしまった空気に耐えられず、わたしは教室を出た。頭で考えるよりも先に掛け出していた。ひとりになりたい。わたしは走って、走って、必死の想いで屋上へと続く扉を開けた。


どれだけ長い時間泣いていたのか、時計を見ていないからわたしには分からない。分かることといえば声が嗄れるまで涙が止まらなかったことくらいだ。あとは午後の授業がとっくに始まってしまったことも。
ようやく落ち着いて顔を上げると、左手の中指には太陽に曝されすっかり潤いをなくした生クリームが僅かに残っている。逃げることに夢中で手を洗うことさえ忘れていた。馬鹿みたいだ。いや、実際に大馬鹿者だ。惨めな姿を鼻で笑い付着したそれを舌で舐めた。
――甘い。
口の中に広がる砂糖の味を、わたしは嫌ってはいなかった。甘いものは好きだ。食に対する関心は薄いけれど、時折姉が振る舞ってくれる作るたび味の変わるクッキーを楽しみにするくらいには。
女の子ははかない生き物だから、男が守るべきものだと思っていた。理由は他でもない、誰よりわたしがそうされたいと願って生きてきたから。どれだけ汚い部分を持っていたって女の子は可愛くてか弱い。だから大切に扱ってあげるべきなのだ。
(……あの子)
学校にいる仁王雅治という男は女の子には優しかった。掃除をサボる人間がいれば手伝ったし、一般的に女の子が苦手とする力仕事もすすんで引き受けた。点数を稼ぎたいだけの嫌味な奴に見えた人間も中にはいたのだろうと思う。けれど周りの目などどうでもよかった。“俺”にとって当たり前のことをしていただけだ。
(ショック受けた顔、しとった、な)
ぐにゃり。先程さわったケーキの感触が指先を支配して離れない。
案の定掃除をサボタージュしたバスケ部の連中の代わりに机を運んだら、いつもありがとうねと笑い掛けてくれる女子がいた。艶のある長い黒髪をサイドで結んだ、どこからどう見てもかわいい女の子。その彼女が小さな箱を開け、その中からひとつをわたしに差し出した。「これ、お礼に」。それを“俺”が拒絶したのは男らしくないからだ。学校では普通の男子中学生でいようと決めた。だから興味のないスポーツやゲームも勉強したし、クレープが美味しいと評判の店は横目に見るだけで入ったことがない。少しでも不自然なところを見せてはいけない。自分が異端者であるがゆえに人が離れていくのはもう嫌だ。でも、そんなしょうもないプライドのせいでわたしは――“俺”はあの子を傷つけた。この、手で。
やっとの思いで止めた涙が再びにじみ出そうになる。力一杯目を閉じて、袖で顔を痛くなるほどにごしごしと擦った。泣くなんて、男らしくない。
「っ!」
瞬間、冷たい衝撃が頬に走った。思わず肩がびくりと震える。雨? 違う、もっと人工的に冷やされたようなもの。
「これで目元を冷やすと良いです」
振り返った、その先。
「ここにいたんですね」
「……や、ぎゅ、う」


柳生が差し出してくれたミルクティーを礼もなしに奪い取り、足を体育座りの形にして顔を埋める。言われたとおり目元に汗のかいた缶を当てた。泣きすぎたせいで頭が重く、その冷たさが脳にまで沁み渡ったようだった。
柳生は、少しだけわたしと距離を置いた位置に座ったきりずっと黙っている。ただ傍にいるだけで何も話そうとしない。けれど不思議と嫌ではなかった。ひとりになりたかったはずなのに。苦手な人間が隣にいるのに。
ちょっとくらい冷やしたところで目の腫れが引くはずがない。顔面が普段以上に悲惨なのだろうことはわざわざ確認しなくても想像がつく。顔を上げるのさえ億劫だ。今日はこのまま帰宅してしまおうか。すぐに眠ってしまえば明日にはきっと元通りになっている。……“元通り”?
「――彼女が」
柳生が、その言葉を発した。時が刻まれる音は腕時計から確かに聞こえるのに、ここだけその流れが凍ってしまったかのように感じる。息をすることさえ忘れていた。
「心配していましたよ、あなたのこと。自分が何かしたのではと」
「……あの子は、なんも悪くない」
「……分かっていますよ」
柳生がまた言葉を発さなくなったと同時に、ふわりとあたたかいものが頭に降ってきた。つむじから項までを何度か往復し時折耳を掠めるそれが奴の掌だと理解するまでにしばらく時間がかかった。振り払おうとすると髪を触って遊ぶので首を思い切り振って抵抗する。柳生の手がするりと落ちた。
「……あなたは、人のものを落とすのがお好きですね」
「……うるさい」
一度ぶん殴ってやろうかと思った。それができなかったのはもう誰も傷つけたくなかったから。それから、彼の声がひどくかすれていたからだ。
懲りずに伸びてきた柳生の右手がわたしの額に触れる。指先はふわふわと優しく、まるでたんぽぽの綿毛でも扱うかのようだった。変に心地が良い。……そうか、分かった。小さい頃、悪夢にうなされるわたしに姉がよく歌ってくれたあの下手くそな子守唄の感じに似ているんだ。ひどく、落ち着く。一度締めたはずの涙腺がまた緩むのを感じて慌てて口の中を噛んだ。
「……女にするようなこと、するなって、言うた……」
こんなの男らしくないんだよ、雅治。
「――無理しないで」
柳生のあたたかいそれが直に触れる。
「……謝りに行きましょう?」
「……」
「私も一緒に行きますから」
「…………うん」
必死にせき止めていたものが、再び、溢れた。

     *

柳生は“俺”のことが好きではないのだろうと、なんとなくそう思っていた。笑顔にも言葉にも嘘はないけれど、比較的会話上手な柳生が、ダブルスのパートナーである自分と話している時だけはよく言葉を詰まらせる。俺と関わることに戸惑いがあるように思えたし、事実、名前を呼ばれたことは一度もない。いつだって『あなた』と他人行儀だった。
そうして付き合ってきた理由が嫌っているからではないのだということを、柳生の口から知らされた。具体的にそんな話をしたわけではない。けれど、たった一言ですべてを理解した。
仁王さん。
彼は“わたし”をそう呼んだ。

すべてが終わったあと、いよいよ本格的に壊れてしまった喉を潤すべく、ぬるくなったミルクティーを口に含んだ。お世辞にもおいしいとはいえない代物。けれど寒いのが苦手なわたしにはきっとちょうどいいのだと思う。
気まぐれに制服のポケットに入っていたしゃぼん玉セットを取り出し、蓋をあけた。呼気を吹き込むと丸く形を成し、幻想的に漂う。ぱちん。周りの景色やわたしの顔を不格好に映すそれをつつくと、あっさりと壊れてしまった。跡形もなくなったしゃぼん玉を思うと少しだけ切なくなる。真実しか映さない鏡は嫌い。けれどしゃぼん玉にはすべてが歪んで映るから、嘘つきだから好きなんだ。わたしが不細工であることには変わりないけれど、しゃぼん玉の中のわたしは、顔付きが少しだけ柔らかくなっている気がする。反対に、整った容姿を持った柳生はしゃぼん玉の中ではとても面白い見た目になっていた。きっとにらめっこをしたら確実に負けてしまう、そんな顔をしている。
どうして気付いたのと聞くと、柳生はまた長い睫毛をぱちぱちとさせて、「分かりますよ、そりゃあ」と言った。戸惑うわたしに気付いた彼は控えめな笑顔で言葉を続ける。「大丈夫、少なくとも普段のあなたは、きちんと男の子ですから」。
時間はあまりにもあっけなく過ぎ去っていった。開け放った窓から見える景色は徐々にオレンジから濃紺へと変わっていく。わたしは何を話すでもなく、風に乗って天に向かうしゃぼん玉を眺めていた。柳生はわたしの傍に座り静かに読書をしている。けっしてわたしを置いて先に帰ろうとはしなかった。
「……正直なこと、言うてええよ」
思っていた以上に、言葉はすらすらと音になった。
「……正直な?」
「『気持ち悪い』、って」
どうしてだか、柳生になら何を言われても構わないと思った。謝りに行こうと言われた時、もし柳生ではなかったらきっとあんなに素直には頷けなかった。それとはよく似た、けれどまた違った感情でそう思った。覚悟はできている。嫌悪されてもいい。いっそ拒絶されたいのかもしれない。現実を突き付けられたいのかもしれない。諦めなさい、と。期待するだけ無駄なのだと、夢を見るのはもうやめておきなさいと、言われなければわたしは思い知ることができないから。
次の瞬間、わたしが見たのは哀しそうな柳生の表情だった。慈愛に満ちているのにどこか冷淡で、苛立っているようにも見える。一度開きかけた口を噤んで、悔しそうに眉を顰めた。
「……正直な気持ちを述べるならば」
「うん」
「心外です。私がそのような酷いことを言うのだと、あなたに思われていたことが」
「……え、」
それはどういう意味? 問いかける暇もなく、柳生は分厚い革のブックカバーが掛かった手元の文庫本に視線を戻してしまった。以前、部室に二人でいた時と同じような感覚。まったくもって訳が分からない。けれど前のような気まずさはなかった。
きりのよいところまで読み終えたらしい柳生は、しおりを挟むとそれを鞄に片付けて立ち上がった。ずれた眼鏡を上げるその仕草がきれいで思わず見惚れる。――あの指先が、わたしの髪を、触ったんだ。頬に熱が集まるのを感じる。何を考えているんだろう、わたしは。
「仁王さんって、お家はどちらですか?」
突然柳生が言葉を発したので、しゃぼん玉用のストローを落としそうになった。手に持っていたそれらすべてをポケットの中に押し込んで、ようやく自分から柳生と目を合わせた。
「……ちょっと遠いとこ」
「でしたら一緒に帰りましょう。送ります」
「……なんで?」
鞄を背負った柳生は、きょとんとした表情でわたしの方を見た。普段大人びている彼が中学生らしく笑うと本当に心を乱される。どきん。心臓が一度大きく動いた。

「――女性の夜の一人歩きは危ないから、です」

至極当然であることのように柳生がそう言ったとき、身体中の血液がいっせいに巡るのを感じた。
顔が熱い。全身が火照る。

今後知ることなどないと思っていた感情が、わたしの心の奥底で、芽生えた。



     四

朝起きるたび自分のことが嫌いになる。ろくに食べずに家を出て、仮面をかぶったまま一日を過ごす。適当に授業を受け、それなりに部活に励む。何もかもに背いて、嘘をついて、ごまかして生きる。それがわたしの日常。
その繰り返すだけだった日常に彩りが増えた。
色を塗ったのは、柳生だ。

家の近所にある公園の桜の木がこれでもかというほど花を咲かせ、散ってゆく。新品の制服に身を包み落ち着く間もなくはしゃぐ人間は、自分達にとって初めてできた『後輩』という立ち位置にいる。柳生に本当のことを話してから一ヶ月。わたしたちは二年生になった。


屋上庭園を見せてほしいと頼むと、幸村は笑顔で快諾してくれた。幸村の後に続く、こつ、こつ、という不格好なリズムがあまりにもひどくて滑稽で笑えた。ジャズにしてもでたらめすぎる。音楽の才能がないのはきっと血筋だ。
幸村が手を入れた屋上庭園は、それはそれは美しかった。なんの変哲もない、どこにでも咲いているチューリップやパンジーなどの花が、まるで世界で一番輝きを放っているかのように思える。とても大事にされているのだと一目で分かった。
「……きれい」
誰に言うでもなく、自然にこぼれた言葉だった。
あれから、柳生はよくわたしに構うようになった。わたしが一人きりでいるときにどこからか姿を現しては、これでもかというほど私を甘やかす。さりげなくドアを開けてくれたり、気が向いた時にポケットから飴玉を取り出してはわたしの手のひらに落とす。話す機会も回数もずっと増えた。朝の挨拶からはじまって、荷物重くないですか、持ちましょうか、家まで送ります、ねえ仁王さん、あそこに咲いている花はきれいですね、仁王さん、仁王さん、仁王さん……。一度ふざけて柳生に「なあ、喉が渇いた」と不満をぶつけるように言ったことがある。柳生はそれを聞くなりわたしの傍を離れて、一分もすると自販機で買ったらしい甘い飲み物を片手に帰ってきた。お金を払おうとするとやんわり拒否をする。ばかみたいに過保護で底なしに甘い。従順で賢い犬でも飼っている気分だ。それがたまに狂わされるとどうしようもなくなる。たとえば並んで歩いていると柳生が振り返る。目が合った瞬間に指先がわたしの髪をかすって、笑う。「桜の花弁がくっついていましたよ」。女の子に優しい柳生は、わたしのこともそれと同様に扱った。女にするようなことをするなと何度も何度も訴えたけれど、それがただの照れ隠しにすぎないことに柳生も気付いていたのかもしれない。本当は嬉しくてたまらなかった。だって、まるでわたしを、お姫さまみたいに! あの顔で、あの声で、あのくちびるが、わたしの名前を紡ぐのだ。
「仁王?」
……最近わたしは、取り繕うのが下手くそになった。せっかくテニス部内では詐欺師という異名までもらったというのに、名前負けにも程がある。
ぜんぶお前のせいだ、柳生!
「……ごめん、何?」
「ああ、いや、そんなに熱心に見てくれるから、嬉しいなあって思っただけ」
「ほんまにきれいじゃもんね。押し花にして、しおりを作りたいくらい。可哀想じゃけせんけどな」
仁王は花が好きなんだね、という幸村の言葉に、黙ってこくりと頷いた。昔、誕生日プレゼントに姉が植物図鑑をくれたことがあった。あれは確か小学校二年生の時だ。夢中になって、飽きることなく毎日それを眺めた。手垢が付くほどに読むというのはまさにあの状態のことをいうのだと思う。おかげでここに咲いている花はだいたい名称を知っていた。好きなものを好きだということはとても勇気がいる。それでも素直に言いたかった。
ふと背中に視線を感じて、振り向くと幸村が何か言いたげな表情をしていた。無邪気なのに含みのある笑顔で、興味深そうに「へえ」なんて独り言を漏らす。一体どんなことを考え、どんな結論が出たのかと身構えていると。
「仁王、今、恋してるだろ」
「……へっ!?」
考えもしなかった質問をされて、思わず声が裏返った。どうせ幸村のことだからまた予想の斜め上をいくのだろう、という予想は当たっているわけだから、ある意味ではデータ通りとでも言うべきか。いや、それにしても。わたしはそんなに表情に出やすい人間だっただろうか。どちらかといえば無愛想の部類に入るはずだ。
「分かるよ。だって綺麗になったもの」
時に幸村は、相手を翻弄するようなことを平気で言う。しかも本人は無自覚だから厄介だ。なあ幸村さん、天然たらしって言われたことない? どうせ幸村のことだから、その言葉の意味すら知らないのだろうけれど。
「翻弄ついでに、パンジーの花言葉を教えてあげようか」
「え?」
「『少女の恋』っていうんだよ」

     *

色鮮やかな庭園を見た余韻に浸っていたくて、柳生に昼食後の授業を休む旨を記したメールを送信すると、五分と経たない間に返信が来た。『ご一緒して構いませんか?』どう返そうか戸惑っているうちに屋上のドアが軋む音が聞こえる。こんにちはと笑う見知った顔につられるようにわたしも笑った。いいんですか、優等生さん。そう聞くと彼は買ってきたらしいアイスココアのパッケージをわたしに向ける。「今は勉学より、友人と過ごす時間の方が大事ですから」。
「余裕やね、俺なんかと違って」
「仁王さん」
「ん?」
「口調」
「……わたし」
「よし」
何が“よし”だ、コノヤロウ!
重箱に入った高級そうなお弁当を広げる柳生の隣で控えめにサンドイッチをかじるのにも慣れてしまった。最初の頃は、極端に栄養を摂ろうとしないわたしにやきもきした柳生が半ば無理矢理おかずを一品押し付けてくるなんてざらだった。どうしてもわたしが頑なに食べないので、女性とはこんなに少食なものなのですかと心配してきたことがある。その次の日から、柳生の持参する弁当箱に小さいタッパーが増えた。蓋をあけてみるとそこにはおいしそうないちごが詰まっている。タッパーの中身は毎回違っていて、ある時はウサギの形に切ったりんごだったし、またある時にはよく熟れたマンゴーに変わっていた。どうしたの? そう聞くと柳生がにっこり笑う。甘いものは別腹なのだと聞いたことがありますから。どれだけわたしに栄養を摂らせたいんだ、この世話焼きな紳士さんは。結局もらってしまうわたしもわたしだけれど。今日はどうやらキウイらしい。有難くちょうだいします。甘いものは、スキです。
気まぐれにしゃぼん玉を飛ばす。流れる雲をぼんやり眺めながら、先ほどの幸村の言葉を思い出していた。“仁王、今、恋してるだろ”。きっかけはあまりにも単純で、そう呼ぶには幼すぎると思っていた。実際のところ、自分自身、曖昧なのだ。彼のことを考える時間がとても増えた。顔を合わせるのが楽しみになった。ちょっとの会話が嬉しかった。けれど柳生はとても優しいから、もしかしたら兄を慕うような気持ちに似た感覚ではないのかと。だから、こうして改めて第三者に指摘されてしまうと変に意識してしまう。
(いや、別に、幸村は相手まで断定はしとらんかったけど!)
それでも柳生だと思った。
わたしの隣、空に昇っていくしゃぼん玉を見つめる柳生の様子を横目でこっそり窺う。本来なら自分から関わろうとは思わない部類の人種。元々は苦手なひとだった。いっしょにいてこんなにもくつろげるようになるなんて想定外どころかそもそも考えもしなかった。だって楽に決まっている。狼少年だった自分が、何も偽らないで済むなんて。
柳生のきれいな横顔はどれだけ眺めていても飽きなかった。
恋なんて分からない。少女漫画や小説やドラマの中でしか見たことがないし、きっとこの先一生知ることはないのだ、となんとなくそう思っていた。わたしはこの人が“すき”なんだろうか。ライクではなくラブで。言われてみればそのような気もする。そして、それも悪くないなと思う自分がいる。この感情を、恋と呼んでもいいのだろうか。
口には出さず、心の中でその言葉をなぞってみた。わたしは、柳生が、すき。途端にきまりが悪くなって、慌てて彼から視線をそらした。ねえ柳生、こういう時に限ってわたしの存在を気にするの、やめてもらっていいですか。心臓に悪いから。
「先程から落ち着きがないですが、どうしたのですか? にらめっこの練習でも?」
「……そんな変な顔してた?」
「冗談ですよ。あなたが表情豊かなのって珍しいから」
とてもいいことですね、と微笑む柳生を見て、心臓をわしづかみされた気分になった。

分からないなんて嘘だ。認めるのが怖かっただけ。わたしは、柳生が、

(――すき)

なあ姉ちゃん、どうしよ。わたし、すきな人ができたよ。


その日の晩、柳生から着信があった。
『明後日の日曜日なのですが、何かご予定はありますか?』
真意がまったく分からないまま予定がからっぽであることを告げると、良かった、と安堵の呟きが聞こえる。
『母が映画の試写会のチケットを当てたんですが、都合が悪くなったとかで私が譲り受けたんです。よろしければご一緒にと思いまして』
「え、かまわんの?」
『ええ。ちょうど仁王さんが観たいと言っていた作品ですから。あなたさえよければ是非』
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
最近、学校に行くのが楽しくなったせいで、休日が憎らしくなっていた。土曜日は部活があるからいい。けれど日曜日は、部活があっても午前中しか柳生に会えない。すっかり“恋する乙女”思考になってしまった自分に若干呆れもしながら、それでも心を躍らせていた。休みの日に、外で、柳生に会える。
待ち合わせの場所と時間を決め、忘れないように(もっとも、忘れるはずなどないのだけれど)手帳に書き込んだ。友達と出掛けるなんて、そういえば初めてのことかもしれない。休みの日はたいてい引きこもるか、せいぜい近所のコンビニかスーパーマーケットにお使いに出るくらいだ。外出することを知ったらきっと姉の方が喜ぶ。
その後他愛のない話をいくつかして、すっかり夜も遅くなってしまったので会話を切り上げた。名残惜しいけれど仕方がない。明日も部活で顔を合わせるのだ。電話を切ろうとした直前、もうひとついいですか、と柳生に止められる。
『明後日は、本当に好きな格好で来てください』
しばらく、何を言っているのか理解できなかった。だってそうだろ。休日に重苦しい制服なんて着たくないし、そりゃあ好きな格好で行くのが当たり前ではないのか。そこまで考えて、自分が大ボケをかましている可能性があることに気付く。好きな格好とは、どういうことなのだろう。柳生は“わたし”の存在を知っている。わたしを女性として扱ってくれる。まさかまさかまさか。いや、でも、違う。
「……好きな格好?」
『分かりやすく言うと、『かわいい格好』、です』
「……へ」
柳生はおやすみなさいと呟くと、呆気にとられるわたしをおいて、さっさと電話を切ってしまった。
――どうしよう。これではまるで、
(……デート、みたいだ)
さっきまで寝惚け眼で話していたはずなのに、脳みそごと冴えてしまった。
いてもたってもいられなくなり、部屋中をぐるぐると回った。馬鹿みたい。けれど仕方がない。こんなの舞い上がるに決まっている。好きな格好で良いと言った。かわいい格好、と言っていた。
(どうしよう……)
迷いに迷って、そしてわたしはついに、しばらく封印していたクローゼットを開けた。防虫剤のにおいが一瞬で部屋中に広がったけれど、そんなの気にしていられなかった。気に入って何度も着ていたカットソーから、買ったきり一度も袖を通していない春用ニットまで、まるまるすべてを出してきてベッドに山のように積み上げた。やっぱり可愛いといえばパンツよりスカート。色はどうしよう。柳生は清楚な人が好きだから、きっと派手なものは好んでいない。なら控えめな暖色がいいだろうか。でもわたしは桃色やオレンジ色は似合わないから、必然的に所持する数が少ない。どうしたらいいのだろう。何度も洋服の掛かったハンガーを持ちあげては戻し、を繰り返す。最終的に目に留まったのは若葉色のワンピースだった。
柳生の好きな緑系色。
……喜んでくれるといい。可愛い、と思ってくれるだろうか。すっかり上機嫌で、柄にもなく鼻歌まで口ずさんでいた。
(あ、)
そういえば、最後にこのワンピースを着たのはいつだったっけ。一度か二度着たきりずいぶん長いことしまっていたから、サイズが合わなくなっているかもしれない。自分の腕に袖を当ててみても具合はよく分からなかった。
(……着てみるか)
久しぶりの感覚はとても不思議なものだった。スカートを着ると、こんなに足元がすーすーしただろうか。なんだか途端に気恥ずかしくなる。
元々少し大きめのものを購入していたからか、腕を伸ばしてもサイズに問題は感じない。ただ袖のところにほつれを見つけた。気にするほどのものではないけれど、柳生と出掛けるのだ。きちんとした身なりで行きたい。ソーイングセットは確か居間に置いてあるはずだ。ほどけて弱くなった部分をついつい触りながら自分の部屋を出る。

目の前にあったものに――絶望した。

姉はとても気風の良いよくできた人間だが、少々抜けている、というより、何事に対しても雑なところがある。やかんをコンロにかけたまま忘れてしまったり、戸締まりしないまま出掛けてしまったりする。こんな時間にも関わらず居間のカーテンが開け放たれているのも、けっしてわざとではないのだ。

夜の窓ガラスは、まるで鏡のように、知りたくもない現実を映しだす。
映っているのはわたし?
どこからどう見ても男が、気色悪くも女性物の服装で、顔を火照らせ浮かれている、これが、わたし、なの?

いつもの衝動が身体中を駆け巡る。壊してしまわないうちに自室に戻り、鍵を掛けて引きこもった。

ねえ柳生、思い出したよ。わたしの食が細い理由。成長するのが嫌だったの。自分の望まない方向に身体ができあがっていくことに耐えられなかった。だから、幼かった頃のわたしは、それなら栄養を摂らないでおこうと思い付いたんだ。男に近付きたくなかったから。
当時のわたしはきっと、いつか女の子になれると信じていた。
とんだ大馬鹿野郎だ。どうしたってわたしは、“俺”は、男以外の何者でもないというのに。
ねえ柳生。あなたは何を思ってわたしに優しくするの。みじめな姿が可哀想だから? だから女未満なわたしをあわれんでいるの?
ねえ、柳生。

涙がにじんで、前が見えないよ。







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