臆病ラインに響く声 | ナノ
せめて言葉だけでも、と思っていたのに。
ベッドで横になっているにも関わらず、目を開けると視界がちかちかとしていた。指先で触れた頬は熱く、状況が眠る前となんら変わっちゃいないことを思い知る。そりゃ確かにここ数日で一気に気温は落ちたけれど、漫画みたいなお約束な展開をわざわざ辿らなくたっていいじゃないかと思った。重い身体を起こして飲んだ常温の水は喉にしっかり痛みを残す。どん底まで転がり落ちた体調と気分は簡単には戻りそうになかった。
これだから季節の変わり目は嫌いなのだ。
それから中途半端に強くない自分の身体も。
もう何度目だろう、と溜め息にならない息を吐いた。
いっそ恒例行事と呼んでもいいかもしれない。大事な日に限って体調を崩すのは。
物心のついた時から本番には弱かった。楽しみにしていると尚更だ。小学校の遠足なんて行った数の方が少ないし、修学旅行では旅行先で熱を出して二日目は旅館で強制待機だった。いい思い出なんてひとつもない。
これでも中学からテニスを始めて多少はマシになった。大会当日もそれなりのコンディションで挑めるし、実際にいくつか勝ち星を拾っている。だから、大丈夫だと思っていた。そう信じていたし、考えないようにしていた。
ずきずき痛む頭をすっかり温くなった氷枕に押し付ける。
楽しみにしないなんて無理だった。だって柳生の誕生日だ。一緒に過ごそうと彼は約束してくれた。そんなの浮かれずにいられるはずがない。張り切ってプレゼントを買って、寒くならないうちに帰宅した。できる限りのことをした。
それなのに、結局当日どころか三日前から高熱と闘う羽目になった。何度測っても体温計は三十八度を下回る数字を映し出してはくれない。なんとしてでも治さなければと思えば思うほど症状は悪化するばかりで、だったらこの際デートはできなくてもいいからいちばんにおめでとうを言いたかった。
次の日、腫れた喉から声は出なかった。
三日前、ゆっくり休んでくださいと言った柳生の声を思い出す。優しかった。あたたかくて真っ直ぐな声だった。外出なんてしなくたって部屋でゆっくり過ごせばいいと笑って言ってくれた。結局私はその約束を守れないどころか、お祝いの言葉を掛けることさえもできない。
せめて言葉だけでも、と絞り出そうとした声は喉につっかえてそのままだ。柳生はきっと私を責めたりしない。その事実が辛かった。
薬を飲む気力もない自分は、あとどれだけの間苦痛を強いられるのだろう。気が遠くなる。
ごろりと寝返りを打ち、枕元にあるスマートフォンを見た。少し型の古くなったそれには、柳生と撮った写真がたくさん保存されている。お互い写真に写るのは苦手だというのに、記念だからと残しておいた。
なにげなく手に取って古いものから一枚ずつ見返す。なんだか無性に柳生に会いたかった。せめて少し話をするだけでもいい。
熱のせいか夢うつつなのか分からない頭で、私は無意識のうちに緑色のアイコンに触れる。柳生の名前はいつだっていちばん上にある。プロフィール画像は一度私がふざけて描いた似顔絵だ。一分そこらで出来上がったそれを柳生はえらく気に入ってくれたようだった。改めて見てみるとまるで似ていない。そんな設定されると知っていたらもうちょっと気合を入れて描いたのに、と声にならない笑いが漏れた。
うっかり開いたトーク画面に簡素な言葉を打ち込む。
こえがききたい
送信は押せなかった。
私は、なんて自分勝手なんだろう。もっと先に伝えるべきことがあるはずだ。何週間も前からあれこれ話して計画した特別な日を私はめちゃくちゃにしたのだ。彼には怒る権利がある。
もし、柳生に愛想を尽かされたらどうしよう。もしも他の誰かがもっと素敵な誕生日を用意していたら、彼はそのひとの元に行ってしまうだろうか。
そんなことあるはずがない。分かってる。彼はいつだって私に誠実だ。けれどはっきりしない思考の中で被害妄想ばかりが膨らむ。
会いたい、声が聞きたい、ごめんなさい、嫌わないで。
色んな言葉が駆け巡って目が回りそうだ。
これだから季節の変わり目は嫌い。それから中途半端に強くない自分の身体も。だいきらい。
いっそ眠ってしまおうと頭から布団を被る。優しい柳生に会えるならもう夢の中だっていい。
その時、手元のそれがぶるりと震えた。
緑色のアイコンに赤い通知が浮かび上がる。
送信を躊躇った画面に、新しいメッセージがあった。
『もし眠っていたらすみません。
体調はいかがですか。
お見舞いに行けたらいいのですが、あなたが休めないだろうと自粛しました。
また、元気になったら学校でお会いしましょう。』
リアルタイムという長所を使いこなせていない長文が彼の人柄を表していた。
柳生はいつも返信が遅い。それは意地悪でも面倒だからでもなくて、ゆっくり考えてくれているからだと私はきちんと知っている。
彼はこのメッセージを送るまでに一体どれだけ悩んだのだろう。何度言葉を選び直してくれたのだろう。
今、私が我侭を言うのは許されるだろうか。
打ち込んだままだった言葉を見返しもせずに送った。彼から着信があったのは、既読の表示があってすぐのことだった。
『もしもし、仁王さんですか?』
体温が伝わってくるのではないかと思う程あたたかい声だった。
私はそれに応えようとして、その時やっと喉をやられていたことを思い出す。なんの音も発せない私を、彼は見捨てたりしなかった。
『……大丈夫ですか?』
話したいことがたくさんあった。せめて意思を伝えたくて、スマートフォンの端を無意味に叩く。どんな音でもいい、彼に届いて欲しいと思った。
頭の良い柳生はすぐに状況を察してくれた。無理して声を出そうとしなくていいですよと笑って、声を聞きたいと言った私に優しく話し掛けてくれた。
まるで子守唄のように私の耳から身体中に浸透する。すっかりささくれた心が浄化されるようで、ぽろりと涙が零れた。泣いたところで声は出ない。ただ鼻をすするみっともない音だけが届いているのだろうと思うと穴を掘って埋まりたい気分だけれど、今はそれよりも彼の声に浸っていたかった。
おやすみなさいと響いた声は、私にとって初めての、“特別な日”の良い思い出だった。
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きみと繋ぐライン。
2014.10.24.