アダージオ | ナノ
※夢小説ではありませんが、女性が出てきます
――ぽたり。
最後に一滴だけ雫が零れ落ちたことは、大目に見てほしい。
今まで、僅かな生の証を察知していた何かの機械が、突然壊れたかのように一定の音しか出さなくなった。途端に室内が騒がしくなるが、自分には関係のないどこか遠くの出来事のように感じられた。
理解など出来なかったが、反面でこれで良かったのかもしれないと思った。だってもう、これ以上彼を頑張らせたくなかったから。
楽にしてやりたかった。
“俺が安心して逝けるように、笑って見送ってや。”
それが彼――白石が俺に言ったひとつめの我侭だった。
タチの悪い冗談言わんで。そう言い返せなかったのは覚悟をしていたからだ。白石は絶対治る、元気になる。退院したらたくさん遊びに行こう。そんなことを口にしていたくせに、結局は気休めでしかないのだと心のどこかで分かっていた。
……認めたくなどなかった。
白石は最期の最期まで、優しい彼のままだった。そんな彼を愛していた。いや、今だって変わらず愛している。自分の寿命を半分削ってもいいから、それを白石に分け与えてやりたい。そう思う程に、これからも共に生きていきたかったというのに。
「ちとせ……今、しあわせ?」
酸素マスクをされた状態で、苦しくてたまらないはずなのに、俺に優しい瞳を向けて。自分が出来る限りの精一杯の力で頷くと、わらって、と蚊の鳴くようなか細い声で言うのだ。
その瞬間、抑えきれない感情が目から溢れ出しそうになって。涙が出ないように上を向くなんて昔の歌があったが、とてもじゃないけどそんなことで止まるとは思えなかったし、何よりほんの一瞬でも白石の表情を見逃したくなかった。まばたきすらも惜しかった。
油断すると爆発しそうになる気持ちを必死で自分の中に押しやって、必死で笑顔を作った。多分、いや確実に笑顔にはなっていなかっただろうが、白石には伝わったようだ。
最期に安らかに微笑った彼は、そのまま、
「……くん、千里くん?」
名前を呼ばれて、我に返る。うっかり急に目を開けてしまったから眩しくて仕方がなかった。俺が痛そうに瞼のあたりを覆うと、クスクスと笑われて少し恥ずかしくなった。
「どうしたのかと思っちゃった。今更マリッジブルー?」
「まさか」
「だよね、良かった。私泣いちゃうよ?」
彼女は優しい心を持った人だ。誰よりも他人を思いやれて、笑顔で人を元気にする。そのくせ頑固なところがあって自分の信念を貫く。そんなところを好きになった。
別段美人と言う訳ではないが、自分の隣で真っ白いドレスを着て微笑む彼女は本当に綺麗だと思った。
白石は、もうひとつ俺に我侭を言っていた。
“ちゃんと俺より好きな人見つけるんやで。それで、結婚して子供も生まれて、幸せな家庭作りや。”
白石以上に愛せる人間の存在なんて、考えられなかった。それは今でも変わらない。実際に見つけることなんて出来なかった。
だから、白石。これで許してほしいのだ。
――白石、ごめんな。白石以上の人間は無理。
――ばってん、“同じくらい愛せる人間”ば見つけたっちゃよ。
空を仰ぐと、そっと背中を押された気がした。何だかそれが嬉しくて、俺は彼女の手を取り、バージンロードに足を運ぶ。
その速さはとても緩やかで心地よく。
アダージオ
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アダージオ=「ゆるやかに」 (イタリア語)
2010.6.12.