夜を奏でる | ナノ
――夜空に懐かしい音が響く。
頻繁なわけでなく不定期に、忘れた頃に聞こえる音だった。今日も今日とて何の変哲もない平日で、俺はぼんやりと、久しぶりに鳴ったなあと考えていた。
靴を履いて玄関を出ると、昼に比べると随分涼しい風が鼻先をくすぐる。時々途切れてはまた鳴り始めるその音を頼りに俺は歩いた。
今日は星は見えない。けれど街灯のある道でもはっきりと見えるくらい月が綺麗だった。心が洗われる、という言葉があるがなかなか言い得て妙だ。
自然にふっと口の端が上がる。ひどく落ち着いた気分だった。
夜空に響く音が少しずつ近付いて、“奴”の背中を見つけた時、ふうと長い息を吐く自分に気が付く。
別に今でなくてもいい、明日になればまた学校で会えるのにどうしてだかその姿に安心した。
「……千歳」
小さく名前を呼ぶと、奴は振り向いて優しく微笑んだ。
――別に、特に無理をしている訳ではないのだ。俺が好きでやっていることだし、それが俺の役割である以上責任を持ちたい。けれどテニス部の部長になってから、たまにふと『疲れた』と感じることがあった。どこかで自分にプレッシャーをかけすぎていたのかもしれない。上手く肩の力を抜く方法を俺は知らなかった。
そんな時に聞こえてきたのがこの草笛の音だ。どこで何を嗅ぎつけたのかは知らないが、俺がこうして『疲れた』と思う時、タイミングよくこの音が風に乗って俺の部屋に届くようになった。音のする方に行くと千歳がいて、千歳はそのたびに微笑んで俺の頭を撫でてくれるようになった。
最初は恥ずかしかった。自分の弱いところを他人に曝け出すなんて考えられない。けれど繰り返されるうちに慣れて、そのうち俺にとって大切な癒しになった。
千歳は頭を撫でるだけで何も言わないし、俺も黙ってそこにいるだけ。たったそれだけの時間が何よりも大事なものになった。千歳が何を考えているかなんて重要なことではない。そう思える事実が自分にとっては不思議だ。
今日も千歳は何も言わないで甘やかしてくれる。だから俺も月を眺めてその音に浸るだけ。
そう、思っていた。
「……白石」
ふいに草笛の音が止まる。目を合わせたその表情は、驚くほどに真剣だった。
「俺な、」
千歳の言葉に、俺は黙って、頷いた。
――夜空に懐かしい音が響く。
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Twitterにて速筆トレーニングをした時のログ。テーマは『夜空に響く音』。
方言をごまかすために千歳がほとんど喋らない事態が発生。
2013.8.29.
(初出 2013.8.21.)