あのひとのはなし | ナノ







※もはや三次創作
※オリジナルキャラクター(娘)視点、さらに十年後の話
※苦手な方は閲覧をお控えください






















 目を覚ました時、そこにあったのは開きっぱなしの参考書と解きかけの問題だった。どうやら机に突っ伏して眠っていたらしい。異様な肩の凝りと、それでもすっきりしたものを感じる。最近は勉強に根を詰めて、ろくに眠っていやしなかった。自分がうまくブレーキを踏めない人間なのは知っている。けれど加減の付け方も分からないから、結局何度も同じことを繰り返す。うっかりとはいえ、少しの睡眠は確かにわたしの心を落ち着かせた。

 夢を、見ていた。 懐かしい、優しい夢だった。わたしはだいすきな人達に囲まれて、のびのびと笑う幼い自分の姿を、まるで他人事のように見ていた。それは色褪せてしまったわけでも、わたしの手元から離れてしまったわけでもない、のに。なぜだかひどく寂しかった。どうしてこんなにも心が重いのか、どうしてこんなにも、泣きたい気持ちになるのか。眠ってしまう少し前のことを思い出して、そうしてわたしは理解した。

 わたしは、“あのひと”に、ひどいことを言った。

 本心ではない。口から出まかせだった。けれどわたしが“それ”を口にしてしまったせいで、ただの子どもじみた喧嘩ではなくなってしまった。あのひとにどう言って謝ればいいのか、わたしには分からない。もう今までのようには戻れないのかもしれない。もしかしたらあのひとはわたしを、愛さなくなるかもしれない。わたしはすべてを壊してしまった。わたしの、心ないたった一言で。



 あのひとの話をしよう。

 わたしの父、柳生比呂士の話だ。







 物心がついた頃から、わたしには母しかいなかった。自分を変だと思ったことはない。わたしにとっては“パパがいないこと”が当たり前だったからだ。母は時たまわたしを実家の祖父母や叔母のところに預けたけれど、幼稚園のイベントごとには必ず出席してくれたし、目に見える愛情をたくさんくれた。しかしどうしても子ども心というものは正直で、“パパのいる子”を妬ましく思ったことはないけれど、パパがいたらいいのにな、くらいは思ったことがある。ただ、それを知ったらきっと母は悲しむから、と漏らすことはしなかった。父親が欲しいよりなにより、わたしは母が好きだった。
 そんな時、母が連れてきたのがあのひとだった。
 笑顔の素敵な人だった。話す時にわたしに目の高さを合わせることのできるひと。母はこのひとが好きなのだろう。何も言われていないのに悟ることができた。

 次に彼――わたしはその頃あのひとを“ひぃろ”と呼んでいたのだけれど――と会うことになったのは幼稚園のおゆうぎ会の日だ。
 あの日のことは今でも鮮明に覚えている。幼稚園の教室を出ると母とあのひとが並んでわたしを待っていて、二人とも上手だったねと褒めてくれた。そのあと母が“みー”(母はたまにわたしをそう呼んだ)の好きなおこさまランチを食べに行こうかと言って、慣れない調子でひぃろの車に乗った。大好きなファミリーレストランの大好きなおこさまランチを、普段とは違う環境で食べた。たぶん、わたしは子どもなりに緊張していたのだと思う。旗の刺さったチキンライスはいつもと少し味が違うように思えた。
 昼食を食べ終えると、母はわたしに向かって笑顔で言った。「なあ。これから、どこでも実里の好きなところに行こう」。ひぃろの車に乗って遠くまで行けるから、と。
 今ならその言葉の真意が分かる。母はきっとわたしと“ひぃろ”をなるたけ早く打ち解けさせたかったのだ。けれどその頃のわたしはまだ小さかったから、母の言葉に委縮してしまった。
『わがままはいっちゃだめ。だってままはいそがしいから。みーのことをすきでいてもらいたい、だからみーはいいこでいなくちゃ』。
 わたしは母に笑顔を返して、そうして何も言わなかった。行きたいところなんてどこにもないふうに、我侭を言わないいい子を演じた。それなのに、いい子でいても母は哀しそうにしていた。母にはわたしの安い痩せ我慢など筒抜けだったのだろう。けれどわたしは上手な我侭の言い方を知らなかったし、母もわたしからそれを引き出す方法を知らなかった。あの頃のお前は欲しいものもしたいことも言わなかったから逆に扱いに困ったよ、と、今でこそ笑いながら話してくれる母だけれど、当時のわたしはきっと母をたくさん傷付けたのだろう。我侭のひとつも言えない子に育ててしまった、と自分を責めていたのかもしれない。
 それをあのひとはいち早く察した。
 わたしがお手洗いに行って、二人の元に戻るとひぃろがわたしの前にしゃがんだ。わたしの目を見てにこりと笑うとこう言ったのだ。「ねえ、実里さん」「なあに?」

「ひぃろね、少し行きたいところがあるんですけど、もし嫌でなければ一緒に来てもらえませんか?」

 いいよ、とわたしは了承して。
 ――そうしてあのひとは、「自分が行きたいから」と言って、大きな観覧車の見えるところまでわたしを連れていった。
 初めて見る光景に、わたしは思わず歓声を上げた。慌てて口を噤んでももう遅い。けれどひぃろは落ち着いたまま車を止めて「一緒に入ってくれますか?」と言った。あくまで“自分が強引に連れてきた”体を崩さないまま、わたしが遠慮せず遊べる環境を作ってくれたのだ。
 この人しかいない、とそのとき母は思ったらしい。ひぃろの手を引きたくさんのアトラクションに乗り、珍しく(と自分で言うのもどうかと思うけれど)子どもらしくはしゃぐわたしの姿を見て母が泣いていたように思えたのはきっと気のせいではない。



 まもなくして母とひぃろは結婚し、ひぃろはわたしのパパになった。
 しばらくのうちは、わたしはあのひとをパパとは呼ばなかった。……呼べなかった、と言った方が正しいのかもしれない。いきなりパパと呼ぶのは図々しく思えたし、なにより頭の中に描いていた理想のパパがそのまま出てきたように思えて、とても恥ずかしかったのだ。こんな素敵な人がみーのパパでいいのかしら、と考えていたから。







 ――まぶたがじわりと痛くなって、わたしは慌てて上を向いた。こうすれば涙が出ないなんて嘘っぱちもいいところだと思ったけれど、気休めでもないよりはましだ。今泣いていいのはわたしではない。

 この部屋に来る少し前、わたしは父と進路のことで揉めた。
 父方の祖父は内科医で開業医をしていて、父はそれを継がなかった。それを無責任だと言うつもりはないし、事実あのひとはとても優秀で生徒からも親からも信頼される素晴らしい教師だ。わたしは父が自分の仕事に生き甲斐を感じていることを知っていて、けれどそれと同じように祖父が自分の職に誇りを持っているのも理解していた。
 もったいないと思ったのだ。
 あの診療所が祖父の代で終わってしまうことが。
 わたしは医者を目指したいと父に告げた。けれどあのひとは良い顔をしなかった。使命感ではなく本当に自分がやりたいかどうかで進路を選びなさいとわたしに言って、それが事の発端だった。
 普段好きなことを自由にさせてくれる父が口出しをしたのだから、きっとあのひとはわたしが別の夢を持っていることに気付いていたのだと思う。確かにわたしには憧れる職業があって、けれどそれはひどく不安定で現実味のない夢だ。あの診療所を守りたいのも本当のことで、それが本来の形だとも思っている。けれど自分が医者としてあの場所に存在するところはどうしても想像できなかった。おそらくわたしは、未だに揺れているんだと思う。それを父に諭されて、あのひとの言うことがあまりにも正しくて、だからわたしはムキになってしまったのだ。

“父親ぶったことを言わないで!”

 どうしてそんな言葉が出てきたのだろう。わたしはあのひとのことが好きだ。家族でありかけがえのない父親だ。小さい頃少なからず抱えていたわだかまりも随分前に消えてしまった……はずだった。でも、本当に? 思ってもいないことを瞬時に口に出してしまえるほどわたしは頭の良い人間ではない。もし、これだけ長い年月を共に過ごしたあのひとをまだどこかで許せていないのだとしたら。自分が狭量であるがゆえに、だいすきなあのひとを。
 わたしとあのひとの間には確かに絆があって、でもそれが幻だとしたらどうすればいいのだろうか。わたしの下のきょうだいはあのひとと血を分けた正真正銘あのひとの子だ。さっきの一言のせいで、だったらあなたなんていりませんと言われたらどうしよう。どうしてわたしはここまできて尚あのひとを疑ってしまうのだろう。今まで少しの隔たりもなく普通に親子をやってきたのに、他に何もいらないと思っていたのに、どうしてわたしは今、無性に血の繋がりを欲しているのだろう。それがあったとしたらわたしはあのひとを理不尽に傷付けることはなかったし、万が一言ってしまったとしても、わたしを捨てるはずがないと断言することができるのに。

 コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえて、わたしは慌てて目元を拭った。母親がわたしと話をしにきたのかもしれないと思ったけれど、どうやらそれは違うみたいだった。「実里。入ってもいいですか?」それはいつもと変わらない、優しい父親の声だった。
 控えめにドアを開けたあのひとは、目を伏せたまま顔を見ようとしないわたしの傍らに夜食の乗ったお皿を置いた。「今夜も夜中まで勉強するなら、途中でお腹が空いてしまうと思って。よかったら食べてくださいね」。――ああ、あのひとだ、わたしの大好きなあのひとのままだ。それがたまらなく嬉しくて、同じくらい辛かった。「……お、」「ん?」おとうさん、と呼びそうになった声を引っ込める。代わりにどうして、とだけかろうじて口にした。わたしはあなたに酷いことを言った。それなのにどうしてあなたは、変わらず優しいんですか。
 父は少しだけ黙って、そうしてすぐにわたしの頭を優しく撫でた。大きくあたたかいその手はわたしが小さい頃から大好きだった右手だ。「実里の言葉に、いちばん実里が戸惑っていることは見て分かりましたから」「……」「ああ、それから、」

 子どもがぶつかってきたら、受け止めるのが親の役目です。

 ――彼は、きっとわたしが知っているよりもずっとすごい父親なのだ。
 わたしはほっとしたのと申し訳ないのと感極まったのが綯い交ぜになって、そのあと一年分くらい泣いた。父はずっと傍にいて、わたしの頭を撫で続けてくれた。ごめんなさい。泣きながら絞り出した声は自分でも言葉の判別ができないくらい聞き取れないものだった。けれど父にはきちんと通じたようだ。わたしは受験の心配から普段思っていたことまで、何もかもを話した。父はすべて真剣に聞いてくれた。いらないと言われるのではないかと不安だったことも、結局すべて打ち明けてしまった。疑うつもりなんてないのに、信じているのにと。あのひとは少しだけ寂しそうに、けれど笑顔で言った。「私はね、残念ですが、地球をひっくり返しても実里と血縁者にはなれないんですよ。それはあなたも知っている事実。だからもしあなたが私を父親ではないと言うなら、私はあなたの歳の離れた異性の親友になりたいと思っているんです」

 ――それくらい、実里が大事なんですよ。

 泣きながら食べた父の手製焼きおにぎりは、そんな状況でもとても美味しかった。







「私ね、高校一年の頃まで医者を目指していたんです」
 わたしの部屋であたたかいお茶を飲みながら、父は昔のことを話してくれた。
「というより、ならなければいけないと思っていました。親類はほぼ皆医療関係に勤めていましたし、私に期待の眼差しが向けられていたことは幼い頃から知っていました。ですがいつだったでしょうか。自分の目標に初めて疑問を覚えたんです。このままでいいのだろうかと。けれど自分は医者になるべき人間で、それ以外の将来の選び方なんて知りませんでした。疑問は日に日に大きくなりましたが、それがなんなのか分からないまま、とりあえず毎日を過ごしていました。私が何も言わず、無事医者になったらきっと晴れる。そう思っていました。けれど父は、きちんと気付いていたんですよね。ある日、私にこう言ったんです。『お前に医者は向いていないからやめておけ』って。その一言はとても強烈で、今でもよく覚えています。ショックも少なからずありました。けれどどうしてでしょう、それ以上に、肩がふわっと軽くなったんですよね」
 自分が遊園地に行きたいから付き合ってほしい。わたしはあの日の“ひぃろ”の言葉を思い出した。なんというべきか、あの祖父にして、この父ありだな。父も同じような経験をしていたなんて思いもしなかった。とても優しく心地のよい強引さだ。
 あなたが本当に医者になりたいと思うなら目指しても構わないんですよと父は言ったけれど、わたしはもう迷ってはいなかった。「……お父さん、わたし、志望校を変更してもいい?」「何をするかによりますよ」「少し偏差値を落とすことになるけど、文芸部のある学校の国語科に入りたい」幼い頃、給料日のたびに絵本や児童文学書を一冊ずつ買い与えてくれただいすきな父からもらった夢を、少し育ててみたいと思う。おそるおそる口を開くと、あのひとはとても嬉しそうに笑ってくれた。



 居間に戻ると、成り行きが心配だったらしい母が寝間着のままでそこにいた。わたしの姿を捉えると、母は駆け寄ってわたしの頬をはたく。「自分が何を言ったかは分かるな?」「はい」「喧嘩の理由はどっちもどっちやとウチは思う。でも実里は少なからず比呂士を、ウチの大切な人を傷付けた。今のはその罰」「……はい」「分かったら、ええよ。ぶってすまんかったな」ああ、わたしは、本当にこの家の娘で良かったと改めて思った。優しさと厳しさのバランスが絶妙なんだな、この両親は。でもまだ少しひりひりするから、芽生え始めたわたしの夢は、もうしばらく母には内緒にしておこうと思う。



 ――お父さん、わたし、小説家になりたい。



 ――とても、いいですね。










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比呂士の娘になりたい。

2012.12.7.

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