追想 | ナノ




 柳生がピアノを弾けることを知ったのは不思議な偶然の巡り合わせだった。

 目的のない放課後、その日は寄り道をする気分にはなれなかった。元より放浪癖の気がある自分が道草を食おうとしないのは妙なことで、おかしな気まぐれに身を任せても良かったのかもしれないがそのまま直帰するのは癪だった。なら仕方がないから校内を適当にぶらつこう、という考えに至ったのは酔狂でしかなかったように思う。
 長く真っ直ぐ伸びた廊下にはほとんど人の気配がない。古くなった壁に指を伝うと左手に白くざらざらとした感触が残った。
 中庭へと続くドアを開けると、どこからともなく吹いてきた秋の風に髪が揺れる。この場所でこっそり可愛がっていた仔猫は、しばらく忙しく構ってやれなかったその間に姿を見せなくなってしまった。空気が冷えるからどこかで丸くなっているのか、俺の知らないところで死んでしまったのかは分からない。けれどできることなら、心優しい人に拾われ惜しみなく愛を注がれて幸せにやっているといいと思う。

 風に乗って物悲しげな音色が聴こえてきたのはその時だ。

 それは俺でも耳にしたことがあるようなクラシックだった。今まで芸術とは無縁の人生を歩んできた俺はなんという曲であるのか知らない。分かるのは有名であるということくらいで、かつてどこで聞いたのかさえ覚えていなかった。
 普段であれば素通りするその音になぜだかどうしようもなく情緒を揺さ振られたのは――もしかしたらこれもまた一種の酔狂だったのかもしれない。
 自分からは絶対に足を踏み入れない第二音楽室。ピアノを奏でる人間が誰かは知らないが、曲名を尋ねるくらいは許されるだろう。演奏の邪魔をしないようにそっと扉をスライドさせて、そして。
 ――驚くというのはこういう状況のことを表すのだ、と思った。
 そこにあるのはよく知った後姿だった。何度もテニスコートで見た共に闘ってきた背中だ。柔らかそうな蜂蜜色の髪に、丁度傾きかけた陽が射し込む。ひどく幻想的な光景だった。
 眩しさに目を閉じる。今はただ静かに、この音楽に触れていたい。

 ピアノが止むと同時に拍手を送ると、奴は目をまん丸くしてこちらに振り返る。俺の姿を確認すると表情を緩め、びっくりしました、と甘いテノールで呟いた。ああ、俺だってそうさ。たまたま魅かれた音を奏でていたのがまさか相方だなどと夢にも思うまい。そこには教室の隅で読書をしているようなタイプの女子がいて、綺麗な曲だなと話し掛けたのを切っ掛けに仲良くなって、恋に落ちるなんてシナリオを期待していたのに。そう揶揄するように笑うと、柳生もつられて微笑んでいた。
 グランドピアノの上、譜面板の上に置いてある楽譜は俺には到底解読できそうにない。表紙に書かれているChopinという文字の読み方すら分からず、変に可笑しいなと思った。
 ショパンですよ、と柳生が俺に教えてくれる。
 ノクターン、第二番。それがこの曲の名前だった。
 俺は柳生の傍らにパイプ椅子を運んできて、その上に腰掛ける。もう一、二曲聴きたい。純粋にそう思った。音楽なんてごく稀に気の向いた時にジャズを流すくらいだった自分にとっては、わけのわからない現象だった。そしてそれが決して嫌ではなかった。
 そうだな、今度は日本の曲が良い。堅苦しくなくて、程良く明るくて、俺でも知っているような。
 我ながら注文の多い厄介な客だと思う。俺が同じような立場にいたらきっとお引き取り願っていた。けれど柳生は、練習中なので失敗したらすみません、と言って俺の我侭を聞いてくれた。去年の夏DVDで観た映画のあの曲だった。
 空中を飛び跳ねる軽やかな旋律に神経を研ぎ澄ませながら、そういえば柳生とこうして会話を交わすのが久しぶりであることを思い出した。










 俺は、ピアノの音が聞こえるたび第二音楽室に立ち寄るようになった。
 ある時は情熱的なクラシックだった。またある時はゆったりとした三拍子だった。
 不思議なことに俺はそれらすべてを気に入った。たまたまなのか、それとも奴が俺の好みを心得ているのかは分からない。
 確実に言えるのは、自分の中に存在する音楽の幅が広くなったということ。それから……悔しいが、柳生の弾くピアノが毎日の楽しみになりつつあることだった。
 部活を引退してからというもの、時間を持て余していた俺にとって貴重な潤いのひとときだった。

 小鳥のさえずりに似たメロディーをバックグラウンドミュージックにして、俺は今日もそこに向かっていた。
 模擬試験の結果は上々で非常に気分が良かった。今日はとびきり明るいのをリクエストしようと考えている時、ふいに音楽が止まる。柳生が曲の途中で演奏をやめるのは俺が知る限り初めてのことだった。堅物とはいえ奴も人間なのだ、なにか突然気が変わるような出来事でもあったのだろう。そう考えた。
 間もなく流れ始めたそれに俺は耳を傾けた。先程までのそれとはまるで雰囲気が違っている、俺の知らない曲だった。

 とても綺麗な、寂しい曲だった。

 美しく切ない調べは、長調と短調の区別もつかない俺の心にずどんと重く圧し掛かる。
 そうして思い出すのは――なぜだろう、八人で戦ったあの夏だった。欲しいものを手に入れられなかった、掴むことができなかった、今年の夏。
 ふと自分の左の手のひらを見た。あれだけ肉刺だらけだったそこはすっかりきれいになろうとしている。

 散々面倒だと嘆きながらそれでもやめなかったテニスを、いつの日かしなくなった。引退直後は、思い出に浸る暇も与えないほど部活に顔を出していた。
 行かなくなったのは受験勉強に集中するため……ではない、なんとなくだ。
 最後にラケットを握ったのは、コートに立ったのは、黄色い球を追い掛けたのは……一体いつだったろう。
 ほんの少しの間に、いろんなことが変化してしまった。泥だらけになったスニーカーではなくローファーを履くようになり、抱えた鞄は教科書と参考書しか入っていないスクールバッグだった。負荷を掛けていた手首に、リストバンドはもうない。
 説明しようのない虚無感に包まれる。
 俺は変わったつもりなんてなかった。それなのに季節は、確実に、巡っていく。

 ドアを開けると、俺は相当酷い表情をしていたらしい、柳生が心配そうに様子を窺ってきた。
 ちらりと見た譜面板に楽譜は置いていない。
 俺は変わってしまったんだろうか。尋ねるつもりではないが、奴に聞こえるように呟いてみた。その言葉に柳生は少しの間俯いて、それからすぐに儚い笑顔で言った。

「大丈夫、あなたはちゃんと、私の知っている仁王雅治君ですよ」

 俺は、柳生が今年度いっぱいでこの学校を去ることを知っていた。





 何か弾いてくれと頼むと、だったら仁王君は歌ってください、なんて無茶を振られた。
 歌うことは好きではなかった。音感のない自分にも分かるくらい、俺は音を外してしまうから。
 それなのに柳生は俺の話なんかどこ吹く風、この曲なら知っていますよねなんて勝手に伴奏を始めてしまった。
 狼狽して止めに入ると柳生が笑う。
 今日ね、十月十九日。私の誕生日なんです。ですからお願いします、歌ってください。ワンコーラスだけで構いませんから。
 下手に出るように見せかけて有無を言わせない問い掛け方は、ズルイよなあ。
 奴が小賢しさを身に付けた理由が“仁王雅治とダブルスを組むようになったから”だったとしたら、俺は過去の自分に控えめにしておけと真剣にアドバイスをしたいと思った。

 あの夏は終わってしまった。俺はそれを思い知ってしまった。
 皆が望む『また来年』は来ないし、時間を戻すこともできない。
 俺はきっと、もう高校ではテニスをしないのだろう。
 そのうちすべてを忘れてしまうかもしれない。


 けれどできることなら、柳生とこうして夏の終わりを歌ったことだけは忘れないでいたいと思った。










******
思い出は消えない。

2012.10.19.




映画のあの曲………『Summer』(『菊次郎の夏』より)/久石嬢
美しく切ない調べ……『ごめんね…』/ピアニスターHIROSHI
夏の終わりの歌……『少年時代』/井上陽水



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