桃色日和 | ナノ
片手に菓子の入った紙袋を提げ、呼び鈴を鳴らすと彼女はすぐに開けてくれた。
いらっしゃいと小さく口にしたきり黙ってしまった彼女に土産を差し出すと、少し戸惑いつつも受け取って俯く。その表情はおそらく一般的には不機嫌に見える種類のものであろうが、俺は真意を理解しているから大して気にならなかった。
彼女は感情を表に出す能力に欠けているのだ。
今だって決して怒っているのではない、照れ隠しである確率が八割を超える。
そんな彼女を、俺は可愛いと思う。
飲み物を準備するからという彼女の好意に甘え、俺は先に彼女の自室へと歩を進めた。十四段ある階段を上がり、廊下の先の突き当たり。そこが彼女の部屋だ。幾度も訪れたので間違えようがない。
扉を開けると、仄かに甘い匂いが漂った。シャンプーと洗剤、あとはチョコレートの残り香。それらはすべて彼女を形成するのに不可欠なものであった。
俺と彼女――柳生比呂未は、かねてより図書室でよく顔を合わせていた。
とはいっても直接面識があった訳ではない。図書室を訪れると高確率で遭遇する人間、くらいの認識しか持っていなかった。
そんな“顔見知り未満”の関係が覆ったのは、彼女と出逢って一年と七ヶ月経った二年生の秋の日のことだ。
偶然にも俺は、書棚の前で途方に暮れる彼女の姿を見掛けた。彼女は自分の身体を最大限まで上方に伸ばし、右手は空を掴んでいた。女性の中では比較的長身である彼女だが、僅かの差で目当ての本に触れられないようだった。
俺はまるで吸い寄せられるかのように彼女の眺める書棚に近付いた。
「……これか?」
彼女の目線の示す辺りを指差すと、え、と短い疑問詞が聞こえる。
しばし動揺していた彼女に、俺はまた問い掛けた。
「お前が読みたいのはこれで合っているか?」
「いえ、そのひとつ右の……ではなくて、あの、大丈夫ですから」
「ああ、こっちか。取ってしまったから受け取って欲しい。ほら」
「……ありがとう、ございます」
彼女は、丁寧な口調と固い表情に若干の戸惑いを残したまま、静かに感謝の言葉を述べた。
これが俺と彼女の初めての会話だった。
その後俺達は、図書室で鉢合わせると挨拶を交わすようになった。ひと月も経つと打ち解け、軽い雑談程度なら行うようになった。
話題は専ら最近読んだ本の話であった。俺と彼女の好みの系統は違っていたが、彼女の薦めで手に取った本はどれも非常に面白く、よくできた内容だった。
それから更に二ヶ月と四日経ったある日のことだ。
気になる小説があるが学校の図書室にはなく、最寄りの図書館では貸出予約が殺到しているという話をすると、所持しているから貸すと彼女が申し出てくれた。俺はその厚意を有難く受けることにした。
彼女から借りた本はページをめくる度心地好い香りがした。読み進める速度が上がってゆくのは偶然ではない。
と、そのペースを乱すようにはらりと舞うものがあった。おおかた彼女が挟みっぱなしにしていた栞か何かだろうと考え、床のそれに手を伸ばす。
そこで一度、思考が停止した。――ように思えた。
今でこそ驚きもしないが、その当時はそれほどに衝撃を覚える出来事だったのだ。
俺がこの手で拾った“ファンシーで可愛らしい柄の描かれた栞”は、間違いなく彼女に借りた本に挟まっていたものだった。
元々気にかかる存在であった彼女に、俺はその時“落ちた”のだ。するものではなく落ちるものだ――と、誰が言い始めたのかは知らないが、その言葉は言い得て妙だ。
その瞬間、彼女の印象とはかけ離れているそれを抱きしめたい衝動に駆られた。
交際を申し込んだ時、彼女は一度断った。
わたしは柳君が思うような人間ではありませんから。
俺は彼女が隠そうとしたその内側を知りたいと思った。だから言ったのだ。
「251ページだ」
「……えっ?」
「開いてみれば分かる」
柳生は訳が分からないとでも言いたげな様子でその頁を探し始めた。そこに辿り着いた時、彼女は文字通り固まっていた。
「……見、た、んですか……」
いつも冷静で落ち着いた彼女からは想像もつかない挙動にまた興味が湧くと同時に、それを自分以外の誰にも見せたくないという醜くも愛しい感情が生まれた。
「ああ」
「……あの、」
「俺はそういうお前をもっと知りたいと思うのだが、いけないだろうか」
「……えっ?」
そうして俺は、めでたく彼女の恋人になることができた。
学校では『クールビューティー』などといわれ、性別を問わず羨望の的になる彼女は、その実極めて可愛らしいものが好きであった。
どちらかといえば寒色かモノトーンが釣り合いそうな彼女の部屋は明るいもので溢れている。桃色の水玉模様のカーテンはいつも優しい陽射しを程良く通し、寝具の上にはぬいぐるみ、極め付きは大きなハート型のクッション。壁際にある本棚の中身だけが、図書室にいる彼女そのままだ。
彼女は自分に似合うものをよく理解していた。だからこそ、自分の好むものを人に晒すことを恥じていたらしい。
交際を始めてからも、彼女はしばらく俺を家には呼ばなかった。好きなものを好きだと言うのには勇気がいる。だから俺はその時を待つことにした。
その甲斐あって今ではこの場所に立ち入ることができる。
階段を上がる音がしたので、彼女が来るタイミングで扉を開いた。
「柳君、あの」
彼女は申し訳なさそうに顔を俯ける。
「すみません。先程頂いた箱の中身が和菓子だと知らなくて、紅茶を淹れてしまったんです」
柳生が持ってきたトレイの上には、俺が土産に持ってきた菓子と、香りの良さそうな紅茶があった。
一見非常に滑稽な取り合わせではあるが、案外俺達らしいのかもしれない。和菓子の合間に紅茶を飲むなんて、おそらく日本中を探しても自分達しかやらないことだ。それが妙に嬉しい。
悪くないなと呟くと、彼女も同意をくれた。
ベッドの上の数々のテディベア。
ガラスのローテーブルの上には美しく繊細な形の和菓子と彼女の淹れた紅茶。
立派なブックカバーに覆われた洋書。間に挟まれた栞。
このアンバランスな桃色の空間で、今日も俺は穏やかな幸せを噛み締める。
さて、これを飲み終わったら、彼女の好きなクラシックでもかけて、その後は。
――その後はどうやって甘やかしてやろうか?
それらはすべて、俺だけに許された特権だった。
******
2012年6月27日。
こっそり乙女趣味な柳生(♀)とそれを知った上でべろべろに甘やかす柳さんのお話を書きたい書きたいとずっと言うてたんですよ。
ただ、凄く書きたかった話なのにも関わらず、柳生受けという壁にぶち当たって途中からぐっだぐだなんですよ。
なんですかねこれ!!
日の目を見ないのも哀しいので埋葬だけしておきます。