放課後シンドローム | ナノ



 チャラ――と、耳元で無機物の擦れる音がした。
 疑問に思いそのまま耳を澄ませていると、静かに規則的に時を刻む音が聞こえる。自分の中に徐々に現実が戻ってくるのを感じた。そうか、自分は眠っていたのだ。
 まだ足りないと訴える瞼を無理矢理こじ開け、目線だけで辺りを見渡す。タオル地のシーツと薄手の掛け布団が優しく私を包む。清潔感のある真っ白な空間は、適度に空調が効いていて気持ちが良い。
 冬でも日当たりのいいこの部屋の、右から四番目のベッド。来慣れているからすぐに分かった。すっかり定位置と化しつつある。
 自分はどうして此処にいるのだろうか。寝惚けているせいでおぼろげな記憶を少しずつ手繰り寄せる。

 朝食を摂らなかった。馬鹿みたいに晴れているくせに、やたらと湿度が高い日だった。一時間目から炎天下の中で体育だった。そんな小さな出来事が重なって、塵も積もればなんとやら、遂に私は倒れてしまったのだったと思う。
 今年に入って何度目かはもうすっかり忘れてしまったが、両手の指で足りないくらいに保健室のお世話になっている。元より身体は強くなかったが、特に貧血を起こしやすい体質だった。


 指先が冷たいものに触れ、ちゃらり、と先程目が覚めた時と同様の音がする。枕元にあるそれを掴み、眺めた。短い針が丁度ローマ数字の3と4の間を指し、随分と長い時間眠っていたことを知る。

 恐らく此処まで運んでくれたのであろう彼のものである、それ。いつも彼が制服の胸ポケットに入れてだいじに持っている。
 あまりにも大切にしているので、一度だけ興味本位で「これウチにちょうだい」と言ったことがある。自分の趣味ではなかったが、彼の宝物であるなら欲しいと思った。そんな私に彼は、少し困ったように「祖父から頂いた大切なものですので譲ることはできません」と微笑った。かなりの年代物であるのに傷や汚れがほとんどなく、この懐中時計は今までとても優しく扱われてきて幸せ者だなと思ったのを覚えている。
 それを機に、今度は時々「ちょっとだけ貸して」と頼むようになった。
 彼の持つ懐中時計を手の上に置くと、なぜだかいつも心が落ち着いた。それは決して気休めではなくて、実際彼とほんの些細なことで喧嘩をしてしまった時、先程はごめんなさいと謝ってくる彼の手には必ず懐中時計が握られていた。私も上からそれを包んで、ウチもごめんな、大人げなかったと伝える。阿呆みたいじゃなあと二人で笑い合う。もしかしたら本当にこの懐中時計は何か特別な魔力みたいなものを秘めているのかもしれないなと、子供が夢見るようなことを二人で話した。

 私が保健室を利用する度に彼が枕元に懐中時計を置くようになったのも、確かその頃からだったと思う。体調を崩している時は携帯電話のディスプレイを見ると気分が悪くなるというのもあるのだけれど、何よりも気持ちが安らいだから。また迎えに来ますという無言のメッセージであり、且つ、早く良くなってくださいねという彼の想いが込められているのかもしれない。最後のは願望でしかないけれど。


 懐中時計を元あった場所に戻し、鎖の部分を指に絡めて遊んでいると、仕切り代わりになっているカーテンの向こう側に人の気配を感じた。彼が来たのだと分かった。入ってくるのかと思いしばらく待ってみたけれど、彼はこちらに来るどころか物音ひとつ立てようとしない。きっと私が起きているのか、そして眠っているなら起こしても良いものかどうか少し悩んでいるのだと思う。彼のそんなさり気ない優しさに惹かれた。

「起きとうよ。入ってきんしゃい、柳生」

 寝転がったまま声を掛けると、彼――柳生比呂士がゆるゆるとカーテンを開ける。失礼しますなどと言わなくても良いのに、変なところで礼儀正しいところがなんとも柳生らしい。

「おはよ」
「おはようございます。……気分はいかがですか?」
「ん、お蔭さんでな」

 ベッド脇の丸椅子に遠慮がちに座る柳生に少し笑ってみせると、彼はほっとしたように表情を緩めた。私の分まで持ってきてくれたらしい荷物を傍らに置き、猫を愛でるみたいに私の頭を撫でる。他の人にこういうことをされたら子供扱いするなと文句のひとつやふたつ言ってやりたくもなるのだけれど、どうしてだか彼には腹が立ったことがない。むしろこちらも猫のように喉を鳴らして答えようかと考えたことがあるくらいで、奴もそうだが、自分もかなり大概だと思う。
 人より幾分か体温の高い彼の手のひらが心地よくて、うっかりするともう一度眠ってしまいそうだった。手の冷たい人は心が温かい人だなんて言うけれど、とんだ嘘っぱちだと思う。だって目の前にいる柳生は、どちらもこんなにもあたたかいから。



 部屋中に響くチャイム音が、掃除当番の解放を知らせる。



「……そろそろ帰りましょうか。起きられますか?」

 落ち着いた口調で彼が問いかけてきた。
 正直、私は柳生のこの質問が好きではなかったりする。柳生が紳士的なのはいつものことだけれど、自分は少々天邪鬼な質があるのでこんな風に堂々と甘えることなんてできない。手を差し伸べられると突っぱねたくなるし、素っ気ない素振りを見せられるとしがみつきたくなる。こうやって保健室で寝そべっている時間は、自分の思った通りのわがままを素直に口にすることができる大事な時だ。自分の弱い身体に、生まれて初めて感謝したほど。
 そんな至福の時間があっさり終わってしまうのは酷く残念なことなのだ。もう少しだけ、堪能したい。

「……仁王さん?」

 立ち上がって私を座らせようとする彼の腕を掴み、強く引っ張ることでバランスを崩させた。

「仁王さん?」
「多分まだ歩けん。……じゃけえ、柳生も一緒に寝ん?」
「……またあなたはそんなことを言う」

 あまり私を困らせないでください、と大きく溜め息を吐く柳生がなんだか妙に憎らしかった。そりゃあ懐の狭すぎる男もどうかとは思うが、常に余裕綽々でいられるとペースを乱してやりたくもなるという話。
 これでも人並みにお付き合いを始めてそれなりに経っているので、柳生が私のどんな行動に弱いだとか、そういったことは把握している。彼の体重を支えている手に指を絡ませ、普段なら頼まれたってしてやらない上目遣いで見つめた。オプションとして僅かに瞳を潤ませることも忘れない。

「まずは服装を正しましょうか。話はそれからです」
「だってウチは今柳生と寝たいんじゃもん」
「……やれやれ」

 彼の鋭い目が、ハーフミラーコート越しに私だけを捉えた。真っ直ぐに私を見下ろしながら、私にしか見せない種類の笑顔を浮かべる。
 トクン、と激しく脈打つのが自分でも分かった。
 ――この表情。
 優しい彼も決して嫌いではないけれど、紳士という分厚い仮面を外してただの雄の顔になるその瞬間、私はたまらなく彼に魅了されるのだ。



「あなたは本当に悪い子ですね。――お仕置きが、必要みたいだ」



 重さを増したベッドが沈む途端、懐中時計の鎖が少しだけ鳴った。


 ――掛かった。
 自分の思惑通りになったのが嬉しくて、ただただ柳生に触れていたくて彼の背に腕を回す。彼の顔がゆっくりと近付き、私もそっと目を閉じる。降ってくるであろう彼の口付けを受け入れるために。

 と。
 突然の浮遊感に驚いて目を開けると、彼は私を抱きかかえたままの状態で立ち上がっていた。女の子なら誰もが一度は憧れるであろう、所謂お姫様抱っこで。

「さて、帰りましょうか。このまま」
「この……えぇっ!?」

 予想外の言葉に、詐欺師の異名を持つ自分がこんなんで良いのかと思う程たじろいでしまう。
 彼はさも当然であるかのように私の顔を覗き込むと、にっこりと微笑んだ。

「お仕置きが必要だと言ったでしょう?」

 これでも人並みにお付き合いを始めてそれなりに経っているので、知っている。柳生のこういう笑顔は、毒気のないように見えて実は裏にとんでもない何かを秘めているということくらい。
 ……ちょっと待て。私が思っていた“お仕置き”と、まるで違うのは気のせいだろうか。

「仁王さんは目立つのがお嫌いですからね」

 目立つのが嫌い、というのは語弊がある。人目に付くのが嫌であればこんな馬鹿げた色に髪を染めたりしていない。
 私が嫌なのは恥ずかしい目立ち方のほうだ。どこぞのバカップルのように人前で平気で愛を語らうなんてことできないし、キスなんて以ての外だ。
 貧血で倒れるたびに彼は私をここまで連れてきてくれるけれど、毎回毎回自分の意識がなくて良かったと本当に思うのに。
 もし今この場面を漫画に描くならば、私の顔に青冷めを表す縦線は必要不可欠であるに違いない。

「目立つんは、ウチだけじゃなかよ」

 精一杯の抵抗に、柳生を思いっきり睨む。だがそもそも人と若干ずれた感覚を持つ彼には無意味だったようで、ん? と首を傾げられた。

「私は別に困りませんよ」
「なんっ……で」
「むしろ歓迎します。『雅は私のものだ』と学校中の人に知らせるには良い機会かもしれません」

 今柳生が浮かべている表情は、次はどんな悪戯を仕掛けてやろうかと企んでいる時の自分のそれに近い気がした。
 もしかしたら最初から分かっていたのかもしれない。
 毎度飽きもせず私をこの場所まで運び、その時だけは大事にしている懐中時計を置いていく。――ここぞとばかりに下の名前を呼ぶ。
 そんな柳生に、敵うはずがないのだと。

「分かった。服なおす。じゃけぇ、降ろして」
「おや、残念ですね。あなただってお仕置きを望んでいたのでは?」
「もうお前さん紳士廃業しんしゃい」
「随分前に廃業したつもりでしたよ? ――あなたの前では、ね」
「……比呂士のあほ」

 ふふ、と上品にも厭味のない笑い声が聞こえたけれど、ボタンを留めるのを理由に一度も柳生の方を向いてやらなかった。彼はまたそれが面白いらしく、私の方を見ては終始くつくつと笑っていた。本当にムカつく奴だ。
 ネクタイまできちんと締め、不機嫌を全面に出して「帰るぜよ」と視線も向けず声を掛けると、こめかみのあたりにキスを落とされる。そんなに心配しなくても帰ったらたくさん可愛がってあげますよ、と妙に色のある声で囁かれた時、やっぱり彼は自分より一枚も二枚も上手だなとほんの少し悔しくなった。










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GALVANIZE(PCサイト)のMIUさんが以前ご自身のブログで語っていたにょた82な話をリスペクトさせて頂きました。原作レイプですみません……\(^o^)/

2010.9.11.

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