見慣れた夜景。窓際に突っ立ち、片手はコップを握っている。
硝子越しに煌びやかなそれらを眺める男性の、薄く浮かべている笑みが反射していた。
「…やけにあの子に執着してるわね」
「ま、そう見えても仕方がないかな」
そのうしろで、広々としたカウンターテーブルに腰を預けている女性。
両腕を軽く組み、男性に対して背を向けている状態。
「…今の話を聞く限り、あんたの歪んだ愛なんて嘘っぱちじゃない」
「そうかな?はたしてそれは立派な推理と言えるのかどうかはさておき…」
あの子と俺は昔からの仲だからね。色々あって今あんな感じになってるけど。
そう言うと、あんな感じって何よ。と返された。
「くれぐれも本人の前では言わないようにね」
「…」
あんな感じって何よという質問を何気に無視している。
そして、俺が気まぐれにも昔話をしてやったんだからさ。と続けた。
「それを恩だと思って、今回ばかりは聞かなかった事にしてほしいところだよ」
「自分で話し始めたくせに何を今更」
あんたなんかと幼馴染みで、よくもまあ一緒に居れたもんだとは思ったけど。
結局私からしたら後半のあれだってただの惚気にしか聞こえなかったわよ。
「本っ当くだらない」
「くだらないなんて言い方は酷いなぁ波江さん」
俺だって案外苦労してたんだ。
あの子だって波江さんと同等の…相当のものを抱え込んでいたんだよ。
「一緒にしないでくれる?」
「でもまあ…」
それをくだらないって一言で片付けるもよし。そのくだらないという発言を必死に否定するもよし。
「この件に関しては、俺は当事者だからね」
「別にそれはどっちでもいいけど」
それより、やっぱり本人はこの事を知るべきなんじゃないかしら。
「確か、明日来るとか来ないとか」
「だめだよ。知るのはまだ早い」
硝子に反射している表情はさっきとは違った。
今この無表情は見えてしまっているだろうか。
「それはまたなんでかしら」
振り返った波江の声に、臨也は再び口を開いた。
「…ネブラに吸収されそうだった矢霧製薬」
その他にも色々と脅威はあったけど…
と言って振り返り、目先の黒革仕様の椅子に腰をかける。
「…その頃よりも前から、海外のある会社は人体実験を繰り返していた」
その会社は関西のとある中小企業と繋がりがあってね。
材料調達なのかどうなのか…当時はそこまで知らなかったけど、いずれ子会社がその企業に裏で人間を売っていたらしい。
「…その子会社っていうのはどこにあるわけ?」
「ここだよ。灯台下暗しってやつさ」
東京に?と、波江は聞き返した。
「そうだよ。本社がそっちだっていうから基本的にそっちばっかり調べてたんだけどさぁ」
こっちを重点的に洗いざらいしらみつぶしにやってみたら、これがまたおもしろいくらいに出てきてね。
「へえ。どこの会社も懐が緩いのね」
「それ自虐?時間差あり過ぎない?」
臨也の小さく嘲笑う様子に、ムッと眉間を寄せた。
だがぐっとこらえて文句は言わなかった。いつもの事だからだ。
「それで?」
「…あの子の両親は、子会社に売られたんだよ」
関西に飛んでからどうなったのかは正確には分からない。まあ誰でも予想は出来るだろうけど…
そう言って視線を落とし、コップを置く。
「とっくの昔に、実験用として処理されてたんだろうね。海外で」
「…それ、普通に話してるけどやっぱりなんともないのね」
もうそれ程驚かないよ。この街はそれの連続だ。
例え姓が関わっていてもね。
「それに、こういう話は波江さんの件で落ち着いてるからね」
「…また傷を抉るのが上手ね」
あっはは、そんなつもりはなかったんだけどね。
まあでも…この件は矢霧製薬に油を注いだ事の発端みたいなもんだ。
「警察はまるで役に立たなかったみたいだし、情報屋の俺でさえここまで辿り着くのに時間がかかった」
「…そんなに躍起になる理由は?」
…そういう質問をされるとは思っていなかった。
今まで予想なんて簡単に出来ていたのに、何故…と思った。
「…さあね」
もう知ってると思うけど、情報屋としての性ってやつもあるし。
大体俺の性格だっていい加減分かってるくせに。
「そういう事だよ」
「……」
黙られた所為で、嘘なんじゃないか…なんて疑われたと思った。
硝子に微かに反射している波江の表情は、やはり…
「ところで…」
あれから弟の様子はどうなんだい?
「…っ」
せ、誠二に…何かあったの。
「いや別に?でも気になるじゃない。あんだけの事が起きたんだ」
なんかの変化があったっていいだろ?
「っはぁ…変化なんて情報屋のあんたなら私に聞かなくても分かる事でしょ」
「まあね。だとしてもそういうのは直接聞きたいもんさ」
…ま、仮初めだとしても平穏が戻ったみたいでよかったじゃないか。
「あの一見以来…どこもかしこも落ち着いてさ」
「あまり嬉しそうに見えないのは気の所為かしら」
気の所為気の所為。と片手を目先で振る。
俺はいつでも平和を望んでいるからね。なんていう発言は、怪しい表情に包まれている。
「…嘘くさ」
「嘘偽りなんてないさ」
俺が誰かを引っ掻き回したって、結局は蚊帳の外だ。
目標がどう動いていくかを観ているだけで、何も今ここで殺し合いをしてくださいなんてドラマみたいな事を言っていたわけでもないしね。
「…だったら、本当の事を言った方がいいんじゃないのかしら」
その方が平和に済むように思えるけど。
「まだそれ言ってるの?」
「…」
あの子はまだ知っちゃいけないんだよ。
俺とどうあったかなんて、あの子にとっては邪魔な存在に成り得る。
「それは一体どういう意味なの」
「…」
…俺が人間を愛するきっかけってのが、そこにある気がするんだよ。
だらしなく椅子に背を預けた臨也のその笑みに、波江は何も返せなかった。
「俺がそれを理解するまで、あの子には何も思い出してほしくないのかもね」
「…その言い方、自分でも解ってないんじゃない」
そうだよ。この部分については俺だって曖昧なままなんだ。
だから誰かが理解するなんて事は絶対にない。
「人間への愛はあるくせに、その子に対しては適当なのね」
そのくせに一生懸命身元なんて探しちゃって。
「それいい加減認めたらどうなの?」
「言いたい事は分かってるつもりだよ。それにもう折り合いはついてるさ」
大体、俺だって解ってるんだからさ。
「…一体全体どっちなのよ」
「認めろって言うから認めたんじゃないか」
そう言われ、波江はわざとらしい溜め息をついた。
話が一向に進まないわね。などと呆れて、視線を横へ移しては自分の椅子へ片手を動かした。
「じゃあ次はどこから話そうか」
「何、まだ続くわけ?」
嫌々しい声色で聞くと、どうせ暇だろ。と返された。
「暇なのに出勤する意味あるの?」
「あるさ。こんなに暇だってのに、ちゃんと給料を払ってる」
片手を向けて意思表示をすると、波江は苦い表情をした。
「上司の話は聞くもんだよ」
「…ただのパワハラじゃない」
どこまで話したっけ?ああ、そうそう。
と、臨也は勝手に思い返していく。
「高校に上がってからも、シズちゃんの事を抜きにすれば中学の時となんら変わりはなかったけど」
さっき話した子会社ってのが、その頃からついに表に出始めてね。
「普段は制作会社みたいな顔立ちだったけど、なんかのミスで赤になって」
高2に上がった年でその店舗は空になった。
俺も知ってたけどさ。でもその裏でやってる事だけはなんでかリークされなかった。
「どうして?」
「君なら分かるんじゃないかな」
矢霧製薬の重役でもあった君なら、この会社がどう回避したのかも予想出来るはずだけど。
「……」
「…数ヶ月後には空きテナントが看板背負ってたよ」
しかも中身は以前の社員が揃ってて、裏でやってた事も継続していたときた。
「ただの違法じゃない」
そんなつっこみに、それを波江さんが言うなんてねえ…と笑みを浮かべる。
波江はすぐさま、それとこれは今は引き離してちょうだい。と言い切った。
「…ま、その看板通りの仕事は一通りこなしていたみたいだよ」
一応だけど。
「……」
「…別会社として偽り始めてからが、本当の始まりだったのかもしれない」
どういう意味?と聞き返された。
そう、姓が失踪したのはこの時期だった。紅葉が歩道を染めて、少し風が吹いただけでふわっと散る季節。
当時は偶然と思っていた事が、今更…
「姓はずっと目をつけられてたんだよ」
中学高校で普通に暮らしてると思っていても、本当はそうじゃなかった。
「本当は?」
「そう。当時俺の予想はかなり簡単なものだったからね」
物事のサイクルはほとんどの場合2、3年が多い。
俺もあの子もその2、3年に当てはまる。それに気付く前に、向こう側が姓に辿り着いてしまったんだよ。
簡単な予想は出来ても、それに気付けないただの高校生だったのさ。
「ただの高校生が野球賭博なんてしないと思うけど」
「それはひとつの潤いとしてやっていただけだよ」
潤いねぇ… と波江は頬杖をついて聞き流した。
「…日本人として材料にされたのは姓の両親が初めてだったらしい」
「ほとんどは外人が多かったってわけ?」
というより、9割5分が外人だったよ。
姓の両親は日本人としてのデータとして利用されたんだ。
「そしてその娘である姓は、数年後に証拠隠滅として攫われたって事」
「…それ、さっきからずっとぺらぺらしゃべってるけど」
人間の心境として、普通じゃないわ。
「心があるのならって前提だけど」
「本当酷いよねえ」
俺にだって人としての良心くらいあるよ。
何故だか分かるかい?
「さあ?興味ないわ」
「…また、辛辣だねえ」
笑みを浮かべている臨也は波江から視線を外した。
「言っとくけど、あなたの過去話自体が気になるわけじゃないわ」
その姓って子が明日来るまでの過程がどうだったのか、嘲笑う為よ。
私と同じように苦痛を経験したのなら尚更。
「悪趣味だねえ」
「人の事言えるの?」
機嫌の悪いような言い方をした波江に、話を戻すけど… と臨也はいつものようにスルーした。
「姓が居なくなってからの学校内は意外に静かだったよ」
むしろ何があったかなんて誰も知らなかったし、表上は長期欠席って事になってたからね。
俺が本格的に調べ始めたのは、月を跨いだ頃だ。
「何かあったわけ?」
「ああ。君の会社だよ」
そう言うと、波江は少し驚いたようにピクッと微動した。
「その頃から少しずつ広まり始めていたのさ」
この件の所為なのかどうなのかはまず置いといて…矢霧製薬の事が浮き彫りになり始めていた。
まだ確信とまでは言わないけど、どこか怪しいんじゃないかって噂くらいは誰もが知ってる程度にまでね。
「個人的には引き金だったかもね。それがあったからっていう感謝さえある」
「あなたみたいな非道に感謝されても何も嬉しくないわ」
だろうね。でもその頃の俺は確かに、それがあったから動けたも同然だったんだよ。
卒業するまでずっと探りを入れていたさ。
「流石に卒業してからは組織とも手を組んでいたけどね」
「…」
…そうやって結局、今に至るってわけね。と、波江は手元の資料を見つめながら言った。
その資料は臨也が関わった姓についての件や他の海外会社の事が書かれていた。
「君にも言ったけど、俺だって骨が折れる思いだったんだよ」
「…それで、その子の居場所はどうやってつきとめたの」
粟楠会が手を回してくれてね。
その発言に、ああ…なるほど。と波江はそれだけで返した。他に言う事などない程それで片付くからだ。
「…でも、あなたも過信し過ぎじゃないかしら」
「ん?それは一体どういう意味として言ってるんだい?」
その姓って子が故意に姿を消したとしたら。
「探し出そうとしていた折原臨也って存在が邪魔で仕方なかったとしたら」
「はは、それはないだろうね」
どうしてそう言えるのかしら。記憶を失っている相手に何を今更。
「そもそもここに連れてきて何を吹き込む気なの」
「吹き込むってより、俺個人として確かめたい事があるからかな」
そう言った臨也はすっと椅子から腰を上げ、半分入ったままのコップを手に取った。
「…」
「…」
無言のまま臨也は歩きだす。
飲む気が失せたのかなんなのかは分からないが。
「…ちょうどその時間帯は色々と振り込みだのなんだのあるからね」
波江さんは、残念ながら姓には会えないと思うよ。
「別にどっちでもいいわ」
「……」
そこからの話は遠ざけたい。確かめたい事なんてそれっぽく言ったが、正直別の何かもあるわけで。
こんな事を明かしてしまえば、これは弱みとして握られる。
別に弱みだろうがなんだろうがどっちでもいい話だけど、マウントを取るような言動は誰でもされたくないだろ?
「…で、そろそろ帰ってもいいかしら」
「ああもうそんな時間だった?」
気軽な言い方で今の自分を隠す。
記憶を失った姓。その現実に直面した時、俺はなんて言うべきだろうか。そして、何を言われるのだろうか。
両親の事を告げて、情報屋として協力するなんて言っても、はたしてそれは本当に情報屋としてなのかどうなのか。
「……」
波江は身支度をしてそそくさと室内を歩いていった。
「……」
またあの頃と同じような言葉が支配しつつある。
自分はどっちなのか、ってね。
「…まあ、楽しみなのには変わりないな」
こんな悩みがある事自体幸せなのだろうか。
それとも、不幸として聞こえるのだろうか。
姓は今、どっち側なのだろうか。
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