Carnivore deer 1



静まり返った部室で、呆然と仰向けに寝ている嵐くんを見下ろす。
お腹の辺りに跨がって、肩を押さえるように両手をついた。
振り払えないはずないのに、嵐くんは私を退かそうとしなかった。きっと私の行動にパニックになっているのだろう、宙をさまよう手が私に触れそうになってビクリと動きを止めた。

触ってくれていいのに。

そう思うけど、口には出さない。
何か言おうと口を開きかけた彼の唇に、跨がったままキスをした。




「わるい、久々にマッサージ頼む」

部活が終わって後片付けをしていたら、肩を掴んで首を回していた嵐くんに頼まれた。
選手のコンディションを調整するのも、マネージャーの勤め。
掃除ももうすぐ終わるから、マットとタオルを用意して待っててね、と出来るだけ顔を見ないで伝えた。

水の入ったバケツを持って部室を出る。
扉を閉めると、大きなため息が出た。
最近の私は何か変だ。
今まで普通にしていたことが全く上手くできなくなってしまった。
嵐くんの顔を見て話すことも、日曜日に遊びに誘うことも、試合や練習で良いことがあってハイタッチをすることもできない。
嵐くんに関係する全てに対して、ギクシャクしてしまっていた。

「(…好きだって、気付いたせいだ)」

正確には、気付かされた。
数週間前の放課後たまたま、裏庭に足を運んだせいだ。
みよと一緒にカレンの家に泊まることになって、二人を待っているあいだにフラリと立ち寄った裏庭。
そこには見慣れた嵐くんの後ろ姿と、同学年の女の子がいた。
去年同じクラスで、長い黒髪が綺麗でスラッとした子。
すごく仲がよかったわけじゃないけど、クラスが離れた今でも校内ですれ違うと声をかけてくれる明るい子だった。

「私、不二山くんのことが好き」

キッパリと言い放つ彼女はとても格好よくて、でもその言葉にドキッとした。
うっかり告白の場面に遭遇しちゃうなんて、二人に失礼だと思いつつも気になってしまって動けない。

嵐くんはなんて答えるんだろう。
あんなに綺麗で明るくて優しい子に告白されたら、やっぱり嬉しいよね。
OKするのかな。
…嵐くんに彼女が出来たら、遊びに誘えなくなっちゃう。

そう思ったら、なんだか急に胸が苦しくなった。
ワケも分からず泣けてくる。

「俺、」

やだ、聞きたくない。
盗み聞きしといて自分勝手なことを思う頭を振り、気付かれないように静かにその場を離れる。
選んだ行動としては正解だったはずなのに、やっぱり気になって仕方がない。
なんて答えたの?
あの子と付き合うの?
それとも振っちゃった?

「…そうだといいな」

思わず零れた本音に慌てて口を塞ぐ。
なにそれ。
嫌な感情だ。
でも、本心。
嫌だ。
嵐くんに近づかないで。
酷い。
こんなの、酷い。
醜くて汚い感情がドロドロと溢れ出てくる。
自分の中にあった我が儘で自分勝手な思考に、今さら気付かされてしまった。嵐くんに一番近いのは私だと、私が彼の一番の理解者だと、勝手に思い上がっていい気になっていた。だから、他の誰かが彼に近づくことなんて考えていなかった。
本当、我が儘だ。
嵐くんの彼女ですらないのに。

彼女じゃない。

…ああ、自分の思考にまで傷付いてる。
結局その日はお泊まり会に行けるような気分ですらなくなって、ドタキャンしてしまった。
体調が悪いのだと誤解して心配してくれた、みよとカレンの優しい言葉が辛かった。

そんな酷く醜い方法で恋を自覚した私が、今までみたいに無邪気に嵐くんと接せるわけもなく、一方的に避けたまま今日まで来てしまった。
恋愛関係には鈍感な嵐くんでも、さすがに変だと気づいているだろう。
このままじゃダメだ。
勝手にギクシャクしたままいたくない。
ここはきちんと気持ちを伝えよう。あの子にどう返事したのかは知らないけど、せめてこの醜い気持ちだけは清算したかった。




部室に戻ると畳にはマットが敷かれていて、その上で嵐くんが軽く柔軟をしながら私を待っていた。

「おう、早速頼むな」
「…うん」

胴着を脱いでマットの上にうつ伏せで寝転がる嵐くん。
今までなら何も感じなかったのに、今日はやけに心臓がドキドキして煩かった。
いつも通りやればいい。
いつものようにマッサージして、帰り支度をすませてからサラッと告白しよう。
伝えればきっと、モヤモヤもなくなるはず。彼の答えを聞くのは怖いけど、もう覚悟はできてた。

まずは肩から背中にかけてマッサージしようと、嵐くんの体に触れる。
途端、彼の身体がビクリと跳ねた。

「うお!」
「きゃっ…?!」

ビックリして手を離す。
どうしたのかと顔を見れば、少しだけ頬を赤くした嵐くんと目があった。

「おまえ、手、冷たすぎ」
「え、あ!ごめん…」

そう言えば、バケツの水を捨てたときに手を洗ったんだった。
自分の手を頬に当ててみると、ヒヤリとしている。確かにこれは冷たい。

「ど、どうしよ、あ!摩擦!」
「冷たい手同士でか?時間かかるんじゃなねえのか」

確かに、効率悪い。
でも冷たい手のままマッサージするのって、なんだか血行によくなさそう。脇に挟めば早く暖まるかな。
手に息を吐きかけながら実行しようとしたら、起き上がった嵐くんに両手を取られた。そのまま大きな手に包み込まれる。

「これが一番早そうだな」
「え、で、でもこれだと嵐くんが冷えるよ!」
「平気だ。…ちいせー手」

すり、と両手を擦って暖めようとしてくれる嵐くん。
親切心からしてくれているのは分かってるのに、なんだかその触り方にぞくん、と身体の奥が反応した。
なんだかムズムズする。

「丁度いいや。いつも俺がしてもらってるし、今日は俺がおまえにマッサージしてやる」
「え!?だ、大丈夫だよ私は、」
「遠慮すんな。おまえ最近疲れてるみたいだし、手にはツボが集中してるから」

言いながら両手で右手を取り、指の間に指を絡めて固定させ、手のひらを撫でるようにマッサージを始めた。
スリスリと触れ合う肌に、必要以上に反応してしまう。
手なんて何度も繋いだことあるのに本当なんでこんな今さら。

力を入れすぎないよう加減してツボを押される。強さの付け方に戸惑っているのか、もどかしくて余計に変な気分になってきてしまう。
指の間を押される。これも加減が弱くてくすぐったく感じてしまった。

「…っ!」
「わり、痛かったか?」
「ち、ちが…大丈、夫」

声が出てしまいそうになって慌てて口をつぐむ。
これ以上は、非常にマズイ。

「嵐くん、もう大丈夫だから」
「ん?でもまだ始めたばっかだぞ?」
「いいの、手も暖まったし、嵐くんが風邪引いちゃう」
「…ダメだ」

手を引き抜こうとすると、強く握り込まれた。引っ張ってもびくともしなくて、無理に引き剥がすことも出来ない。
困り果てて嵐くんを見ると、すごく真剣な瞳と視線がぶつかった。
思わず息を飲む。

「…最近のおまえ、なんか変だ」
「………」
「俺のこと避けてるだろ。…嫌いになったのか?」
「…ち、がう」
「嘘だ。おまえ、気づいてないかもしれないけど、俺の前で笑わなくなった。無理して笑おうとしてるけど、顔が強ばってる」
「そんなこと…っ」
「俺、なんかしたか?嫌なことがあったら言ってくれ。嫌いになったなら、無理に近づいたりしねぇから、」
「違う…!!」

思わず声を張り上げたけど、なんだか喉がヒリついてて中途半端に掠れてしまった。
でも、そんなことは気にしている場合じゃない。
違うの。
嫌いじゃない。
嵐くんは嫌じゃない。
嫌なのは、私。
嵐くんに近づくすべての女の子に嫉妬して、勝手に彼を責めてる私が大嫌いなの。
彼に気楽に触れられるのは私の特権。誰にも渡したくない、大切なもの。

「みなこ?」
「…ね、マッサージしてあげる」
「は?…お、おい」

手を捕まれたまま体を擦り寄せるように近付くと、少し後ろに後退した嵐くんは倒れそうな身体を支えるために私の手を離した。
その隙をついて肩を押してマットに押し倒す。
突然の私の行動に動揺したせいか、逞しい嵐くんの身体があっさりと後ろに倒れ込んだ。起き上がろうとする前にお腹に跨がって馬乗りになる。
ほら、こんなに近づけるのは私だけなの。
他の誰にだって出来ない。
自分の大胆な行動に酔いながら彼の顔を覗き込んで驚いた表情を見た途端、ハッと我に返った。

何やってるの。
何がしたいの。
すぐに退かないと怒られちゃう。
いや、怒られるだけならまだいい。こんなことして、嫌われちゃうんじゃないの。
嫌われたくない。嫌がられたくないのに、私の身体は嵐くんに張り付いたみたいに動かなかった。
私を退かそうと嵐くんの手が動くが、私に触れることはない。
いつも動じないでどっしりと構えている彼が、女の子に馬乗りになられているなんて信じがたい。
更に、それをしているのは他でもない自分自身だ。
またぞわりと背筋が震えた。




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