「霊脈も申し分ない。この土地を私の新たなる魔術工房としよう。」

 嘗て、平安時代で無惨の妻として生きた女は、今世でも同じ名前で生を受けていた。
しかし、千年でぐつぐつと想いを煮詰めて宜しくない方へ拗らせつつある夫とまるで違い、雫は平安時代のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 平安での死は、敵を葬り、夫を守ることが出来た。そうしてそれなりに満足できる往生を迎えたからか、今の雫には一欠片の記憶も残っていなかった。
 一方で、前前世での最期は、薄汚い魔術師殺しに敗北を期して魔術師としての力を失い、自分のせいで戦争に巻き込んだ愛する婚約者は目の前で命を奪われるという、凄惨なものだった。そのため、そちらの方――前前世での記憶だけは、今世に於いても健在だった。

 自分は時計塔から出るべきではなかったと、雫は思う。どの分野の魔術も手を出せば成功し、周囲もそれを称賛した。9代続いた名門アーチボルトの血が作り出した自分という作品は、それが出来て当然だと思っていた。成功が常に約束されていると信じていて、それが思い上がりであるとは気づけない程、自分は失敗というものをしたことがなかった。
 そんな若く世間知らずな、自分の思い上がりへの罰としては、聖杯戦争で迎えた結末は余りにも残酷なものだった。

 生まれた時からこの記憶を持っていた雫の今生における願いは、「誰とも関わらずに魔術の研究を進め、アーチボルト家の再興を図ること」だった。
そうして今世の雫は、魔術工房に適した土地を求めて、今日のように、夜の山をふらつくのが習慣となっている。

「ん……?」

見晴らしの良い場所に出ると、洋装の男が美しい満月を見上げていた。
この男を知っているような、奇妙な繋がりを感じてそのまま遠くに見える後ろ姿を眺めていると、視線の気配を察知してか、男がくるりと振り返った。
 逆光の中、人外の証であるような紅梅色の瞳だけが、宝石のように輝いていた。




 神仏は、己を助けたことも、罰したことも一度もない。神仏など存在しない。
故に、これは神仏のもたらした奇跡などではなく、自分が強く望んだ結果なのだと、無惨は夢のような邂逅に息を飲んだ。

「雫――?」

殺意はない、不思議な視線を感じて振り向くと、月色に輝く髪、叡智の光を宿す青い瞳の、洋装を優雅に纏った少女が在った。艶やかな毛先は緩やかに巻かれ、幾分か身長も伸びているが、それ以外は記憶の中の妻と瓜二つの容貌で、此は妻の雫に違いない、と無惨は確信した。

 何故下らぬ賊相手に死んで己を置いていったのか。
 何故青い彼岸花を作って自分に太陽を克服させなかったのか。
言いたいことは沢山あったが、身体が先に動いた。

 すっぽりと、小さな身体は簡単に両の腕に収まった。幻や、魂だけの存在ではない。確かな温かさがある。
 抱きすくめた小さく脆い雫の身体は、確かに人間の肉体だった。
 ああ、やっと手に入れたのだと、喜びのまま、皮下に流れる血の甘美な薫りを楽しもうと、白い首筋に顔を埋めようとしたとき、雫が口を開いた。

「なんだ貴様っ。離れろ!」

現実は残酷だった。無惨のことを小指の爪先程も覚えていない雫は、抱き締められて数秒固まったあと、硬い革靴の先で無惨の脛をげしっと蹴った。
平安を共に過ごした、幼い無惨であれば、この仕打ちには大いに傷つき、涙を溢したかもしれない。しかし、千年を生きた鬼はそれなりに逞しくなっていた。

「千年振りに逢った夫にその態度か?」

脛への蹴りなど子猫のいたずらだとでも思っているかのように、甘く蕩けた笑みを浮かべて無惨が言った。

「はあ?夫だと?私にそんな者は居ない。私は私に相応しい、優れた男しか選ばない。」

 ちっぽけな女のくせに、この尊大の過ぎる態度。こんな女が何人もいる筈がないので、やはりこの少女は自分の妻に違いないと、無惨は確信を強めた。

「分かったらさっさと、私を離したまえ。」
「離したりするものか。お前は一生私のものだ。」

ぷるりと瑞々しく小さな唇に、無惨が己の唇を寄せようとしたときだった。
 雫が顔の前に手を翳し、バチリと電気のような衝撃が放たれた。
一瞬出来た隙から、雫がするりと無惨の腕を抜けて、走り出す。
逃してなるものかと無惨が追おうと地面を蹴ったところで、雫がころりと身体を傾けた。どうやら太い木の根に躓いて転んだらしい。

「夫を忘れ、置いていくとは薄情なことだ。」

この好機を、無惨が逃す筈もなかった。
ついた膝を立てようとしたところで、ずしりと背にのし掛かった重みに、雫はさあっと青ざめた。

「離せ痴れ者がっ!夫などいないっ!」
「心は忘れていても、身体は私のことを覚えているだろう。」

耳元で囁く無惨に、雫の全身がぞわりと粟立つ。勿論それは快感ではなく、気持ち悪さから来るもので、蕁麻疹が出そうだった。

「三文小説の読みすぎだ!離せ変態!」
「相変わらず口だけは達者なことだ。」
「人違いだと言っている!これ以上するなら強姦罪で貴様を警察に……ぅぐ!?」
「全く……」

喋りかけの雫の口内に、無惨の指がズボッと無遠慮に浸入する。その指がバラバラと口内を暴れ回り、首筋にも、柔らかいものの触れる感覚や、ちりっとした痛みが何度も走った。
 このままでは、この訳の分からない、妄想癖の勘違い男に犯されてしまう。
打開策を考えている間も男の動きは止まらず、コートのボタンをぷちりぷちりと外されていく。
魔術礼装たるコートの内ポケットには、魔力を充填した水銀――月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムの試験管が入っている。あれを開け、呪文さえ唱えれば、この不届きな男に誅伐を下すことができる。
 先ずこの口内の指を何とかして退ける必要があるなと、雫は思いついた方法にげんなりしながら、無惨の手首をつんつんと指で突ついた。
何か喋りたいことがあるのだと察した無惨は、暫し迷ったように指の動きを止めたあと、ずるりとそれを口内から引き抜いた。

「君の名前を呼びたい。……思い出すためにも。」

嘘だ。全く呼びたくない。
しかし、この男は自分のことを妻だと勘違いしているのだから、こう言えば口を塞がれることはないだろう。後で通報するためにも、名前を知ることは有効だ。

「無惨だ。」

……今のは、名前だったんだろうか?
無惨、無残……?
どちらにせよ、名前としてあまり一般的ではないような気がするが、聞き間違いだろうか。

「むざん……?」

思わず呟くと、満足げに微笑んだ吐息が耳にかかって気持ちが悪かった。

 何はともあれ、呪文は唱えられるようになったので、あとは月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)を試験管から出すだけだと、脱がされかけのコートの左胸に手を潜らせると、無惨がまたもや耳元で囁いた。

「待ちきれなかったのか?淫乱め……。」
「は!?違う!!ひぃっ!変なものを擦り付けるなっ!」

この男、どうやら自分が胸で自慰を始めたのだと勘違いしたらしい。しかもそれで興奮したのか、尻のあたりに硬くて熱いものを擦り付けてきた。
死ね。……いや、殺す。絶対に殺す。切り刻んでくれる。このロード・エルメロイを辱しめるとはどういうことか、きっちり教えてやる。
取り出した試験管を開けると、地面に、水銀が広がっていった。

「Fervor,mei Sanguis(――沸き立て、我が血潮)」

月霊髄液を見た無惨が距離を取ったがもう遅い。

「Scalp(斬)!」

心臓を一突きにしてやると、ぐらりと無惨の身体が傾いた。

「ハッ。高貴たる私に無体を働くとはどういうことか、その身に私が直々に教えてやったのだ。感謝したまえ。私に手を出しても良いのは私に相応しい者だけだ。」

コートに袖を通し、襟元を正しながら、胸を押さえて蹲ったままの死体に吐き捨てると、どこからか男の声が響いた。

「つまり、お前に手を出して無傷であれば、それは相応しい男であると認めたということか?」
「まあ、多少の飛躍は感じるが、そういった考え方でも構わないな。尤も、私の魔術の才の前にそんな者など――!?」

この、声は。
蹲っていた筈の、即死させた筈の死体の唇が、三日月のような弧を描く。
そして、その顔の下、月霊髄液が開けた胸の穴は、驚くべき早さで塞がっていった。

「私は無傷だぞ?さあ、私はお前に相応しい、伴侶となるべき男だな。」

それは問い掛けではなく、確認に違いなかった。
そんな訳があるかと、雫は立ち上がった男を威嚇するように見上げ、紅梅色の目と視線が交わった。

 こんな目を、雫は知らなかった。

敵意は感じられず、おそらく好意の類を向けられているらしいことは、感情に疎い雫でも理解できた。しかし、無惨の紅梅色の瞳は、恋と言うにはぎらぎらと捕食者の光を放っていて、愛と言うにはあまりに暗くて重い感情を孕んでいた。

 あっという間に傷口を塞いでしまった肉体よりも、魔術師の権謀術数の中ですら見たことがない、得体の知れない感情を訴えるこの瞳が恐ろしかった。

「……s,Scalp(斬)!Scalp(斬)!Scalp(斬)!!」

 無惨の向ける感情を理解出来ず、否、理解したくなくて、雫は何度も月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムに攻撃を命じた。

「私はもう二度と、誰かを愛したりはしない!」

自分に言い聞かせるように叫び、再生を続ける無惨へ魔性特攻を乗せた呪いガンドを放った。
これで暫くは動くことが出来まいと、雫は月霊髄液ヴォールメン・ハイドラグラムを地面に滑らせ、自動車も敵わぬ速さで山を下った。



[ 3/15 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -