森の美少女は眠れない

「お忙しいのに寝かしつけを頼んでしまってごめんなさいね、月彦さん。」
「いえ。では私は仕事がありますので……。」

 上着を羽織った月彦へ、妻の麗は夫がいつも被っている白い帽子を手渡した。それを被った月彦は、「見送りは良いのでゆっくり休んで下さい」と紳士的に微笑み、屋敷を後にした。

 崩れることのない敬語に、取り繕ったような微笑み。現在の夫――月彦は、どこか他人行儀だと麗は思う。
 しかし、そんな月彦でも、西洋の文献を読むときは、穏やかな空気を纏い、幾分か柔らかい微笑みを浮かべている。幼い娘もそれを感じてか、絵本の読み聞かせだけは月彦にせがむようになった。遠い昔を懐かしむような落ち着いた語り口は、繕い物をしながら聴いている自分も眠くなり、何度か誤って自分の指に針を刺してしまったものだと、麗はくすりと笑みを溢した。



 誕生して直ぐ様、15で死ぬ呪いを魔女にかけられ、死は免れたが百年間眠ることになり、最後は王子の接吻で目を覚ます。
 実に馬鹿馬鹿しく、不愉快な物語だったと、無惨は宛もなく山を歩きながら、眉間に皺を寄せた。
生まれ落ちた時から、与えられた運命に振り回されただけの、努力一つしなかった女の話。そんな話の一体何が面白いのか、無惨にはさっぱり分からなかった。

――愛しい者に口付けなどしても、何も起こらなかった。
 最後に「時計塔の魔術師」と名乗った己の妻、雫。尊大な態度に見合うだけの才に恵まれた彼女でさえ、下らぬ賊に殺されるという詰まらぬ最期を迎えたのだ。
 仮初めの娘に読んでやった物語は、そんな己を嘲笑うかのような内容で、こうして内容を思い返すと血管が千切れそうなほど癪に障った。

 それでも、気の短い無惨が娘や妻の前で取り繕えたのは、一重に先日の娘のおかげであった。

 日本語訳の付された海外の写真雑誌。「宜しければ一冊どうぞ。海外の建築物は月彦社長もお気に召すかと思います」と、取引先から渡されたそれ。建造物などを見ても、青い彼岸花や太陽の克服の手掛かりになるとは思えず、無惨はリビングに捨て置いていた。

「お父さん!これ、シンデレラの絵本みたいね。」

これ、と言って娘の指す写真には、時計塔が写っていた。英国の、ロンドンで撮影された写真だった。
――ロンドンの時計塔。
千年前、妻はそんなことを口にしていなかったか。
無惨は目の色を変え、食い入るように写真を眺めた。

「お父さん、どうしたの?」

普段と違う様子に戸惑う娘の声で、無惨ははっと写真から娘へと視線を移した。

「ごめんよ。ちょっと調べごとに使いたいから、この本、お父さんが借りても良いかい?」
「……うん。」
「ありがとう。」

頭を撫でられ、別のことに興味を移した娘がどこかへ走っていくのを取り繕った笑顔で見送ってから、無惨は件の雑誌へと視線を落とした。

 雑誌を読んで、無惨は奇妙なことに気がついた。
ロンドンの時計塔は、1859年に竣工された建物である。つまり、平安の世には未だ存在していない建物ということになる。
妻は気軽に宋まで行こうとしたような女なので、異国の知見を有していることは不思議ではないが、当時存在しない建物をどうして知り得たというのだろう。信じ難いことだが、1つの可能性しか考えられなかった。

「雫は、未来から来た人間か――?」

才を自慢するとき、雫はいつもロード・エルメロイを自称していた。
雫の遺した断片的な情報をまとめ、無惨は推測した。

雫は、1859年以後の世界では、魔術師ロード・エルメロイとして、ロンドンの時計塔で過ごしているのではないか。
そして、現在は1913年。
この50年の内に生まれ、死亡していなければ、再び雫と巡り合うことができるのではないだろうか。

その可能性に辿り着き、無惨はこの千年間感じたことのない昂りに身を震わせた。

「今度こそ、二人で」

永遠を生きよう。
月を見上げながら呟いた無惨の顔は、うっとりと陶酔に綻び、紅梅色の瞳は執着心や独占欲、支配欲が綯交ぜになってどろどろに滲んでいた。



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