帰ってきた夜は酷く疲れて、雫は幻術を解くだけして眠ってしまった。
 翌朝、そういえば尻やら腹やらを触られたことを思い出し、風呂に直行して、触られたところをゴシゴシと、摩擦で肌が赤くなるほど洗った。
 そして、風呂を上がり、洗面台の三面鏡に映った少女の姿の自分を見て、首の後ろ、――うなじのあたりに、忌々しい変態のつけたキスマークが有るらしいことを思い出した。

「ひいっ!」

確認したら綺麗に消してしまおうと、辟易しながら三面鏡を覗き込み、雫は悲鳴を上げた。

 一つ二つではない。
新手の呪術かと疑う程の、異常な数のキスマークが、殴打された後のような青紫色で、うなじをびっしりと覆っていた。

 心の中で散々悲鳴を上げながら、治癒魔術の応用で、悼ましいそれを跡形もなく消し去った。
それでも首がむず痒いような気がして、雫は上がったばかりのバスルームへ再び戻り、何度も何度も首を洗った。
 

 あんなものをつけて歩き回っていたのだと思うと、酷く屈辱だった。この弁えている使用人たちは顔にも出さなかったが、内心どう思って居たのだろうと思うと、顔を覆って床を転げ回りたくなる。

 赦すまじ、あの変態、鬼舞辻無惨。
鬼の首魁だか何だか知らないが、工房の素材が手に入って用済みになったら、塵も残さず焼き払ってくれる。

「雫様、雫様宛に花束が届いているのですが……。」
「花束?」

形の良い大輪の、艶々とした深紅の薔薇が、品良く小さなブーケに纏められていた。

「いつの間にか、庭の日陰に置かれていたんです。」
「困ったなあ〜、華族たる私は中途半端にお付き合いをしたりは出来ないからなあ。」

口では殊更困った風を装っているが、顔は得意気に綻んでいる。

 普段冷たく振る舞う中、時折こうして子供のような面を見せる「雫お坊ちゃん」を、使用人たちは可愛がっているので、その場にいた全員が、生暖かく微笑んだり、目配せしたりしていた。

 勿論、人の感情の動きなど分かる筈もない雫は、子猫の成長を見守るような視線に気づかず、使用人から高慢な動作で花束を受け取った。

「ブーケのセンスも悪くない。薔薇だって、品評会に出されても見劣りしないような美しさだ。こんなに立派なものを日陰にひっそりと置いていくあたり、きっとこれを贈ってくれたお嬢さんは、良家のご出身なのに、それをひけらかしたりしない、控えめな方なのだろう。気持ちには答えられんが、捨てるような無下な真似は失礼になってしまう。」

 予想される人物像を高説し、悪くない花なので自室に飾ろうかと考えながら、雫は花の間に紙が埋もれていることに気がついた。
 花束の雰囲気に合う、品の良いペイズリー柄のあしらわれた、1枚のメッセージカードだった。

『愛を込めて
 ―貴方の永遠の伴侶より―』

字を目にした瞬間、雫はカードをグシャリと握り潰した。衆目があるのに、反射で魔術を使って燃やしてしまうところだった。
 昨日の商談で、メモを取ったり、署名をしたりで散々見た、どこか力強さのありながら、品良く纏まった美しい字。
何処の誰が差出人か、一瞬で分かってしまった。

「誰が永遠の伴侶だッ!厚かましいわッ!」

バアンッと雫が食卓を叩き、皿やティーポットがガチャリと音を立てた。

「……玄関にでも飾っておけ。私は部屋に戻る!」

――本来ならば、燃やすのが正解だ。
 魔術師であれば、得体の知れない贈り物は受け取らない。どんな呪いがかかっているか、分からないからだ。

「花に罪はないからな。それと、私に無体を働いた迷惑料を貰っていなかったから、その分だ。」

誰に対しての何の言い訳かも分からない独り言を口にしながら、雫は握ったままになっていたメッセージカードに気づいた。

「勝手に伴侶面するな」

雫は誰もいない廊下の窓を少し開け、カードに手を翳して呪文を唱えた。
そうしてペイズリー柄の紋が入った小さな蝶へと姿を変えたカードを摘まみ、雫はそれをぽいっと外に放つ。ひらひらと蝶の飛んでいく様には目もくれずに、窓を閉めて自室へと向かった。



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