「ほら、雫。おいで。」
「一人で帰れるから放っておいてくれ。さっさと家族の元に帰りたまえ。」

月彦の優男じみた態度で話しかけてきた無惨に、しっしっ、と追い払う仕草をしながら背を向けると、何故か彼は酷く嬉しそうに近寄ってきた。

「私は帰れと言ったんだが。」
「素直になったらどうだ?手招いていたではないか。安心しろ。妻子との用事などない。……妻子を作ったのはその方が都合が良いからだ。お前が望むなら今すぐ殺してやる――。」
「面倒毎は御免だ。そしてこれは英国では追い払う仕草だ。おいではこう、指が上だよ。一つ賢くなれて良かったじゃないか、貿易社長殿。では失礼。」
「逃がすと思うのか?」

人気のない道に出た瞬間を見計らったように、パシッと無惨に腕を掴まれる。

「1週間前の今頃、山に居ただろう。……どちらの姿が本物だ?」
「何の話かさっぱり分からないな。私が登山を好むように見えるのかね?」
「私のつけてやった痕、よく似合っている。」
「痕?何を言って――!?」

ハッと刮目し、雫は咄嗟にうなじを押さえた。
瞬間、目の前の男の紅梅色の瞳がチェシャー・キャットのように嗤って、失態に気づいた。

「あれほど契った夫を、切り刻んで置いていくとはな。」
「またそれか。貴様の下らない妄想話よりも、君の『時計塔の知人』の名を言ってみろ。」
「お前だ、雫。」
「は……?」
「千年近く前、死に際のお前が言った。時計塔の魔術師、ロード・エルメロイだと。」
「私が――?」

ドクリと、心臓が嫌な音を立てた。

生まれたときから、拳銃を撃ったときの衝撃が手に残っていた。矜恃ある大貴族の魔術師であれば、使うことなど有り得ない、現代兵器。
あれの感覚が、今も消えない。
――消えない。

「やはり君は人違いをしているよ。私がその名を誰かに名乗ることはない。」

現代兵器を使うという恥を晒し、自らの血とロードの栄光に泥を塗った。
脈々と受け継がれてきたエルメロイ派本家たるアーチボルトの血を、自らの死で絶やしてしまった。

血を穢した自分が、ロード・エルメロイやアーチボルトの名を騙ることは赦されない。

「私は亡霊だ。ロードの名誉とエルメロイの血に未だ縋りつく、惨めで穢れた亡霊だよ。」

線香の煙が宙に消えていくような、か細い声だった。

「亡霊ではない。お前は私の妻、雫だ。月色の髪に青い瞳の――私だけの、美しい妻だ。惨めでもなければ、穢れてもおらぬ。」

病人のような蒼白く冷たい手が、頬を撫でる。
邂逅した時よりも近い距離で、紅い瞳がこちらを見つめている。

「髪と、目の色だと?エルメロイ派は大貴族だ。古きを辿れば、血を守るために近親で交わったこともあっただろう。血が濃ければ、似た容姿なんて幾らでも生まれ出る。……君の妻、ミセス・エルメロイと私は別の個体だ。」
「知らぬ。」
「は?」
「知らぬと言っている。私がそうだと言っているからそうなのだ。私は妻を間違ったりはしない。」
「は……。」

 嘗て、論文という名目で、個人的な所感の多分に含まれたレポートを渡してきた学生だって、もう少し論理立てた文章を展開していた。粗はあったが論理の部分自体は、それなりにまともだった。
なのに、この男ときたら。

「そ、そんなのただの横暴ではないか!まだ外見的特徴を挙げていたさっきの方が、論理としてまともだったわ。いいかね、私は並行世界、別の世界線から来た人間だ。そして君の妻は、私とは別の並行世界からやって来た可能性が高い、と私は推測している。まず第一に、」
「知らぬ、お前は私の妻だ。何度も言わせるな。御託なら契った後に聞く。」
「最低だな君は!もう少し紳士的に口説けないのかね!?」

 雫が青筋を立てて怒っているのに、無惨はふわりと、花が綻ぶように笑った。
 
「そうか、口説かれたかったか。」
「違う!私は紳士としてのマナーの話をしているのだ。出会って直ぐに手を出そうとするやつがあるか!……言ってる側から尻を撫でるなッ!」
「……ちゃんと食っているのか?骨と皮ではないか。

「うるさい!無駄な肉がついていないだけだ。そろそろ離さないとまた切り刻んでやるぞ!」
「好きにすると良い。私も好きにする。」

さわさわと、ときどき摘まんだりもして、尻や腹の肉付きを確かめるように這い回る不躾な手に、雫は呪いを放った。
そしてそのまま手をパシッと払い落とされ、無惨はムッとした表情を雫に向けた。

「何だその顔は!私の方がよっぽど不満で不愉快な思いをしている!」
「夫が妻の身体を触って何が悪い。」
「妻だと?ハッ。残念なことに、こちらが本物の姿だ。あの夜は、その方が都合が良いから娘の姿をとっていただけだ。」
「安心しろ。衆道文化の分かる者なら居る。」
「どこに安心する要素がある……?」

この男の思考が理解できない。

輝く貌と唄われた忠義の騎士。
アインツベルンの薄汚い魔術師殺し。

理解できない思考の男は、自分の運命をこれ程までに捻じ曲げた。
この男だって、きっと在るべき運命を捻じ曲げる。

そんなことは赦されない。
あの世界線で泥を塗り、途絶えさせてしまったアーチボルトの血を、今度こそ繋がねばならないのだ。

――殺すべきだ。
いつか邪魔になるなら、今、確実にこの男を殺すべきだ。
殺すべき、だが――。

「……帰る。」
「帰す訳が無いだろう。」
「触るな。いいか、君みたいな性欲塗れの変態なんて、本来とっくに殺している。それをしないのは、今日君と契約した商品が、手に入らなくなるからだ。他意なんてこれっっぽっちもないのだからな。分かったら、君も私の宝石のためにさっさと帰って馬車馬のように働くのだな!」

 ふんっと鼻を鳴らしてくるりと背を向けると、雫は何やらブツブツと呪文を唱え始めた。
また魔術かと、無惨が雫を捕らえようと手を伸ばしたが、彼女を中心に巻き起こった旋風が、壁のようにそれを阻んだ。
 あまりの強風に目を瞑ると、再び開いた時には、雫の姿は忽然と消えていた。





「おかえりなさい、月彦さん。」
「ただいま。先に寝ていて良かったんですよ。」

申し訳無さそうな顔を作りながら、月彦は麗に上着と帽子を預けた。

「私は書斎でもう少し仕事をするので、麗さんは本当に寝て下さいね。」
「あら……もうこんな時間なのに?」
「ええ。馬車馬のように働けと言われましたから。」

酷い言葉なのに、くすくすと楽しそうに笑いながら書斎に籠る夫の背を、麗は不思議に思いながら見送った。


「本来とっくに殺している、か。全く……。」

 宝石がないと困るからなどと言い訳していたが、全く偏屈かつ鈍感で困る。
 山で邂逅し、心臓を穿った時は確かに殺す気だったのだろう。だが、それ以降はどうだ。
癇癪で暴走したかのように無差別で浅い斬撃しか出さぬ水銀に、足止めのような小賢しい魔術。殺意などこれっぽっちも感じなかった。
殺せる力があっても、それを使おうとしないのだ。その理由なぞ分かりきっているのに、感情に鈍感な妻は、自分自身の感情すら気付けないでいるらしい。

 そのくせ、可笑しなところで単純だから危なっかしい。
どうせ今日の商談も、雫を猫可愛がりしている様子の、あの耄碌に煽てられてやって来たのだ。もしあの耄碌が雫と歳近ければ、雫はあの男ともっと親密になっていたかもしれぬ。

……平安の世、雫に懸想して袖にされた、文の男。
奴も、もし罵られた後も文を送り続けていたならば、雫は奴を相手にしていたかもしれぬ。

「寄せられる好意に、お前は絆されやすい――」

よく今まで、可笑しな虫に付け入られずに過ごせたものだ。
まずは身体から、と思っていたが、心の方も簡単に手に入りそうだ。

「口説いてやろうではないか。“紳士的”にな……。」

洋灯の仄かな光を映し、明るく煌めく紅梅色の目を細め、無惨は仕入れたばかりの洋書を開いた。



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