ああ、これは人払いだな。

神秘の秘匿のため、大仕掛けの魔術を行使するとき、魔術師は人払いをする。
何をしかけてくるのかと、雫は月彦の一挙一動を注視した。

「雫、やっと二人きりになれたな。」

 貼り付けたような微笑みが、狡猾さを浮かべたものに変わった。
先程までの取って付けたような胡散臭い笑みも不快だったが、横柄な態度をとられるのもまた不快なものだ。
しかも、ただの横柄ではなく、自分を所有物だと思っているかのような態度が一層不快だ。

「成り上がり風情が馴れ馴れしく呼び捨てにするな。」
「では私も殿下とでも呼んでやろうか?」
「ハッ。是非そうしてくれ。華族たる私にしっかり敬意を払って呼びたまえ。跪いたって良いんだぞ?」

 雫は意地悪く笑いながら、椅子の背もたれに体重をかけ、足を組んで靴裏を月彦に向けた。
 こんなものは先日の暴挙の仕返しにすらならないが、これで変態の屈辱に歪む顔でも見れば、少しは溜飲が下がるものだ。
そして雫は無惨を悠然と見下し、――ドン引きした。

目の前の男は、心底愉しいという風に、にやにやと頬を緩ませていたのだ。

やはりこいつ、変態だ。
自分より若い男に馬鹿にされて、なんでこんなに嬉しそうなんだ。

表情を取り繕うことも忘れ、雫は少しでも距離を取ろうと、背もたれにぴったりと背中をつけるように座り、月彦の視線から身体を隠すように腕を組んだ。

「私を変な目で見るな!」
「お前が煽るのがいけない。」
「はあ!?煽ってなどいない!私を、君の被虐趣味に巻き込むな。」
「被虐趣味?」
「罵られて喜ぶなんて、被虐趣味の変態のすることであろうが!そのやに下がった顔を鏡で見てみたらどうかね!?」

 テーブルへ前のめりになって雫が月彦を詰っていると、ノックの音とともに、職業婦人が替えの紅茶を持ってきた。

「賑やかにお話されていましたねぇ。雫さんが楽しそうにしているの、はじめて聞きましたわ。」
「それはそれは。早急な耳の検査をお勧めしますよ。」
「あら、うふふ。失礼いたしました。」

 照れちゃってるのね、というようなあしらい方で新しいティーカップを並べていく婦人に、雫は目の検査も勧めたくなった。

「おや、私も愉しいですよ。」

お前は余計な口を出すな。
私“も”って何だ。私は楽しくない。
胡散臭い薄ら笑いを、表皮ごと剥ぎ取ってやっても良いんだぞ。

そんな意を強く込めて、雫は光線でも発しそうな鋭い眼光で月彦を威圧したが、千年を生きた鬼の首魁は痛くも痒くもないようだった。

「もう少し2人で愉しい話をしたいので、少し外していただいても?」
「あらあら……。」
「はあ!?」

 何故こんな変態と二人きりにならないといけないのか。
 この婦人も何を考えているのだ!どこからどう見ても私がこの男を毛嫌いしているのは分かるであろうが!!

 何一つ汲み取れていないのに、察し顔で退室した女を「この愚か者がっ!」と心の中で叱りつけながら、雫は恨みがましく扉を睨み付けた。

「先程の話だが、」

飲みもしないのに、カップをソーサーの上で傾けながら、月彦が喋り始めた。

「私は、気位の高いお前が快楽に負けて悶える様を思うと、愉しくて仕方がない。」
「は……、」

 淫魔かと錯覚するような妖艷で美しい笑みで、突然性癖を暴露し始めた月彦に、雫は息を呑んだ。

「私を挑発して、最後にはいつもお前が快楽に墜ちる。」
「は……、はあ!?」
「私に虐げられたくて態と煽っているとしか思えぬ。被虐趣味はお前の方だろう?」
「い、言わせておけば……。」

 雫は全身をぷるぷると震わせ、カチンと額に青筋を浮かべた。
 初対面の体裁を無視し、涼しげな顔で侮辱をしてくる月彦に、今世で出したことのない程、雫は声を荒げた。

「誰が、被虐趣味だ貴様ッ!」

 思わぬ好機到来に、無惨は口元を手で覆い、勝手に吊り上がろうとする口角の筋肉を必死で抑えた。

 これは絶対抱ける。
平安での夜の夫婦生活の経験則で、無惨は確信した。
「試してみるか?お前は絶対に被虐の快楽に逆らえない」とでも言ってやれば、「望むところだ」などとふんぞり返って返事をするに違いない。
 そこまで行けば、あとは無限城に連れ込み、快楽を叩き込んで、一生離れることのできない身体に躾け直せば良いだけだ。
 千年前、この煽られやすさのせいで、妻は何時か可笑しなことに引っ掛からないかと心配したこともあったが、相変わらず単純で居てくれて良かった。

 とうとう笑みを堪えられず綻び始めた紅い唇で、無惨は褥になだれ込むための言葉を口にしようとした。

「いやあ〜、若いっていいネ!」

 宝石商の男が、いつの間にか書面を持ってローテーブルの前にいた。

 あと少しだったのに、よくも。
これが表の仕事の場ということも忘れ、せり上がってくる癇癪に任せて、無惨は男の頸を落とさんと爪を伸ばした。

 瞬間、足元にバチリと鞭を打つような衝撃が走り、無惨は爪を戻して足元に目をやった。
星を模したような図形を異国語が円状に囲って光を放っており、雫が魔術を放ったのだと分かった。

「月彦社長、足元に……何か?」
「いえ。何でも。気のせいだったみたいです。」
「そうですか。……殿下、書面作ってみたけど、殿下の宝石の分も一緒に作ろうか?」
「ああ、そうですね。この金額で決まったので、ついでにお願いしますよ。」

 雫は金額のメモを宝石商に渡し、息を吐くように一般人を葬ろうとした月彦に警戒と威圧の視線を送った。 
彼の紅い瞳と目が合うと、月彦のニッコリと人の良さそうな笑みを向けられた。

 不意に目があったら、目を逸らさずに微笑み返すのが英国のマナーだ。

 元・英国の名門大貴族当主であった雫は、マナーのとおり、庭園の薔薇のような優雅さで微笑んだ。
……目は笑っておらず、凍てつく猛吹雪のようだったが。

「猥談したり、無言で見つめ合ったり、今時の若人の感性なのかなア。なんか歳を取ったと感じるよ。」
「わっ猥談!?そんなのしていないっ!」
「ドア開けようとしたら、被虐趣味がどうとかって殿下の大きな声が聞こえてサ、びっくりしちゃったヨ。」
「なっ!違う!この男が――。」
「おや、すみません。でも、雫が私を被虐趣味なんて言うからですよ。意地悪を言うから、つい言い返してしまいました。」
「貴様、呼び捨てにするなと言ったであろう!」
「雫、署名するので、机を叩くのはやめて下さいね。」

はああああ!?
誰の、誰のせいだと思っている!
貴様のせいであろうがっ!!

宝石商の手前、そのように当たり散らすこともできず、雫はぐぐっと手を握り、わなわなと震えた。
色白の顔を怒りで真っ赤にし、目の前の男を殴る一歩手前といった様子の雫に、宝石商はうんうんと朗らかに頷いた。

「いやあ、殿下が楽しそうで何より。」
「老眼が進まれたのかな。そろそろ眼鏡を変えた方がよろしいのでは?」
「この老いぼれの目でも、こうして殿下の成長を見れるんだから、長生きはするものだねェ。」
「成長なんか――」

成長なんか、していない。
――前世の最期。
拳銃で神父を撃ち殺して自ら矜恃を手放し、文言の罠に気付けないまま自己強制証明(セルフギアス・スクロール)に署名し、最愛の婚約者を喪った。
あの夜から、自分の時間は止まったままだ。

「社長、出来ましたよ。」

無惨はひらりと書面を渡し、二人の会話を遮った。
項垂れた雫に気を使ったのではない。
隣同士で仲良く話す雫と初老の男に悋気してだった。
茶目っ気のある祖父と思春期の孫のような会話だったというのに、無惨は嫉妬の籠った目を二人に向けた。

「雫、」

月彦の穏やかさに、無惨の低い声が混じった中途半端なテノールで名を呼ばれ、雫は鳥肌を立てた。

「細かい話も伺いたいので、場所を変えてじっくりとお話しませんか。」

――悪魔が御使いの姿を装うは、珍しいことに非ず

どこから見ても人の良さそうな笑みに、雫はその一文を思い出した。
この男、確実に何か仕掛けて来るつもりだ。

「いや、結構。……そういえば、妻子との用事があるのだろう?さっさと帰った方が良いのでは?」
「そういえば随分時間が経ってしまったネ。では、こっちが月彦社長の控えです。今日はお会いできてよかった。今後ともどうぞ弊社をヨロシク。」
「……ええ。」

サインさえ貰えれば、こんな男に用は無いとばかりに、雫は月彦を追い払おうとした。

「殿下もありがとうネ。来てもらって本当に良かったよ。これ、良かったらお土産にドウゾ。商品が入ったら連絡するネ。」

 背後から味方に撃たれた驚きに目を見開く。
本題の後、簡単な会話をしてから帰るというのが何時もの流れだったので、当然今日もそうだろうと思っていた。
なのに、よりにもよって今日はそれがなく、この男と同時に帰らなければいけないらしい。
 帰れとばかりに土産まで押し付けられて居座るようなマナー違反は、雫にはできなかった。

「社長とはあまり話さなかったので、ほんの少しだけでもお話できれば……。」

少しでも月彦と帰るタイミングをずらしたくて雫は言うが、そうしている間も月彦は席を立ったまま、退出する動きを見せなかった。

「ダメダメ。この歳で話をするとチョットじゃすまないんだヨ。一人で帰して殿下に何かあったら、私は親御さんに顔向け出来ないよオ。」
「おや、では私が送りましょう。」
「スミマセンけど、お言葉に甘えても良いですか?殿下、しっかりしてるけど、たまにどこか危なっかしくてネ……。」
「ええ、本当に。私の都合でこんな時間にしてしまいましたし、責任を持って家に送りますよ。」
「なっ!貴様、勝手に話を進めるな!私は一人で帰れる。」

勝手に月彦と帰る約束を取り付けられてしまったショックから戻ってきた雫は、何とか軌道修正しようとしたが、圧倒的に不利だった。

「ほら、雫が駄々を捏ねるから社長が困っているでしょう。帰りますよ。」
「駄々など捏ねていない!……社長、ではまた改めて。」
「うん。気をつけて帰るんだヨ。」

雫は無言で、帽子を上げるだけの挨拶をして出て行った。



「いやア〜、おっかないなア。殿下はやっぱり大物だヨ。」

雫が礼をする間、新しい貿易社長――月彦という若者は、爬虫類のようなギョロリとした紅い眼で自分を一瞥した。
途中で向けられた悋気の視線なんて大したことがないくらいの、おっかない目だった。
 自分を、人間を、蟻か何かのように思っている化物の目だ。今も、情けないくらい膝が震えている。

「アレを貴様呼ばわりは、私にはできないヨ……。」

 いつもひとりぼっちの、異国の王子のような少年は、青年へと成長して、変な者ばかりに気に入られるようになったらしい。良くない女にでも引っ掛かったのか、あまり宜しくない痕もあった。

「あの首、なんか言ってあげた方が良かったかなア〜……」

 脱力るすように、初老の男はドサリと椅子に座り込んだ。



[ 10/15 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -