どうしてこの男がここに居るんだ!!!
今直ぐ山に帰れ変態!
Go home quickly!!

「月彦」と名乗る良く見覚えのある顔に、心の中で大絶叫しながらも、雫はいつもの尊大な薄ら笑いを崩さなかった。

 挨拶は恙無く終わり、早速始められた商談もスムーズに進んで行った。
雫は、先日の暴挙への仕返しとばかりに、一見美味しく見えるが、後で莫大な負債を抱えることになる嫌がらせの爆弾のような取引を持ち掛けてやった。しかし、「それでしたらこちらの方が宜しいのでは?」などと、月彦から雫側にとって若干不利益となる条件で返されるので、それにまた雫が交渉するというような応酬が続いていた。
 珍しく雫が苦戦し、熱くなりかけていることを察し、宝石商の社長は扉近くに控えていた職業婦人に目配せし、紅茶を持って来させた。

「マ、月彦社長、殿下、チョットお休みしましょ。これ、月彦社長のところから仕入れた英国のお茶なんですヨ。勿論お茶菓子も。殿下、英国お好きデショ。スーツも英国製だもんネ。」
「……ええ。」

あまり余計な情報を出すなと念じながら、雫はローテーブルに置かれたティーカップを手に取った。

「月彦社長のスーツもお洒落ですよネ。やはり海外のものを?」

一拍間が空き、「何か不快に思わせるようなことを言っただろうか」と、宝石商がヒヤリと背に汗をかいたとき、月彦が赤い目を光らせて静かに言った。

「私のスーツも、英国製なんですよ。」

様子を伺うような間を挟み、月彦は溜め息をつくように、ふわりと笑みを描いた。

「ロンドンの、時計塔の知人が作ってくれたんです。」

一瞬だったが、雫が青い目を見開き、ティーカップを持つ手を震わせたのを、紅梅色の瞳は見逃さなかった。


まずい。
動揺を出してしまったせいで、確実に勘付かれた。
「時計塔の知人」に対する自分の反応を見て、明らかに態度を変えた月彦に、雫は苦虫を噛み潰した様な顔をした。

「紅茶や菓子まで御贔屓にして戴いて、ありがたいです。御依頼のあった宝石ではありませんが、ダイアモンドでしたらお安く致しますよ。そうですね……これくらいで如何ですか?」
「何っ。本当かネッ。」
「ええ。そういえば、手紙の宝石は、随分と珍しい物が多かったですね。社長の御趣味で?」
「いえ、いえ。この殿下は変わった石が好きでね。困ってるんですヨ。」
「先程から、殿下というのは……。」
「絵画の王子みたいだから、私はそう呼んでるんだ。小っちゃい頃なんかねえ、本当に絵から出てきたみたいだったヨ。どこかに写真が……」
「社長!その話、この商談には関係ないでしょう。」

 まずい!と雫は思わず強めに隣の男を肘で小突いた。
 小さい頃の写真なんて、先日山で無惨と遭遇した時の容姿と、髪の長さくらいしか違いがない。
 性別の違いで辛うじて他人を装えているが、奴に疑念を持たれている今、絶対に写真を見られる訳には行かなかった。

「そうだネ、月彦社長の気が変わらないうちに書面と判子を持ってくるヨ。」
「一度言ったことは変えませんから、間違えないようにごゆっくりどうぞ。」
「いやっ、善は急げとも言うし、早くした方が良いですよ。」

鼻歌でも歌い出しそうな、初老にしては軽い足取りで宝石商が去っていき、部屋の中には月彦と雫、ドアの側に控える職業婦人だけになった。
 職業婦人では心許ないが、この男と二人きりになるよりはましだ。まさか人前で何かを仕掛けたりはしないだろう。
 
「時計塔の魔――」
「交渉の続きがしたいのだが!!」

月彦が「魔術師」と口走りそうになったのを察知して、雫はギロリと月彦を睨み、慌てて言葉を被せた。
 まだ室内には職業婦人もいる。一般人の前で魔術に関する話をするなんて正気の沙汰ではない。

「なるべく早くに欲しい。金額は先程呈示していたもので構わない。」

強姦魔と喋り続ける精神衛生上の負担を、金を出すだけで解決できるのだ。資金は潤沢にあるし、この男に多少多くれてやっても構わない。

「そうですか。ではこちらに署名を――」
「いや、契約はこちらの会社が行うから、戻ってきたら彼に言ってくれ。」

それもそうか、己の取引相手はあの宝石商だ、と無惨は納得しかけたが、それだけのことにしては、雫の顔は死人のように蒼白になり、自信に満ち溢れていた青い瞳は怯えに揺らいでいた。

署名という言葉を出した途端に、だ。
はて、どういうことだろうと考えて、無惨は昔も妻に似たような違和感を覚えたことがあったと、遠い平安の記憶を振り返った。

 都随一の美男と噂の男――。
類い稀な容姿で妖憑きと疎まれ、女の癖に頭の高い妻のどこを気に入ったのかは未だに分からないが、男は妻に懸想し、頻繁に文を送ってきた。
 それに対し、「貴族の品位を教えてやる」などと尊大な意気込みを見せて、妻は律儀に返事を書いていた。
 一度、男への愛を唄うような文言がないかと、妻の書いた文を隈無く確認したことがあったが、――あの文。

あの文の最後には、名前が書かれていなかった。
 
 貴族の娘として、家柄やら礼節やらを重視する雫が、斯様なことをするだろうか。

 不可解には感じたが、当時、女と文を交わしたことのなかった己は、公の書状でもなく、女の書く文であれば、記名を略すことはそう珍しくないのだろうと納得していた。

 男への移り気の方を気にかけていた己にとって、些事でしかない違和感だったので、此まで思い出すことすら無かったが――。

千年、人間に紛れて生活した。
多くの人間と文を交わした。
その中に、名を書かぬ人間はどれ程いた?

そこまで考えて、無惨は妻の行動が異様であったと気がついた。

あの時、妻は署名を書かなかったのではない。
書けなかったのだ。

「それもそうですね。ですが、こちらの商品に関しては、雫さん個人として、直接契約された方がよろしいかと。」
「生憎私は未成年だ。契約は交わせない。」

試しに署名を勧めてみると、落ち着き払った声で言うが、雫の腕は、震えを抑えるように固く組まれ、伏し目がちになった青色の瞳は、冬の海のように荒れていた。

 この青年の容姿や態度だけが妻と似ていても、似ているだけの別人である可能性は捨てきれない。
「時計塔」への特殊な反応も、時計塔を知っていれば、妻とは関係ない人物でも返せるものだ。

 しかし、似通った2人が、同じように署名を怖れるという偶然があるだろうか。

 先日逢った少女は、妻で間違いない。
しかし、この青年もまた、妻と同じ魂を持っているに違いない。

 己が擬態できるのだ。興味さえ湧けば大抵のことができてしまえたあの妻なら、性別を変える擬態くらい出来るだろう。
 仮に、擬態でなく分裂の類いなら、どちらも捕まえて連れ帰れば良い。枷をもう一組用意しなければいけないが、そんなことは捕まえてから考えれば良い。
さて、ではどう捕らえるか――。
紅茶を飲む白い喉を舐めるように眺めながら、月彦は自分のティーカップに視線を落とした。

「紅茶が、冷めてしまいましたね。」

突然何の話だとでもいうように、雫が片眉を上げた。

「すみません、」

雫の不快げな表情を気にも止めず、無惨は扉の側の女に声をかけた。

「厚かましいようですが、温めたものを頂いても?」

 カップの紅茶は一口分も減っていないというのに、微笑みを向けられた婦人は嫌な顔一つせずにカップを下げ、静かに応接間を出ていった。



[ 9/15 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -