金縛りが解けてから何度殴りつけてももびくともせず、声が出るようになり、何度開けろと叫んでも何の反応も見せなかった地上への扉が、突然勝手に開いた。
暗く冷たい落窪から這い出たが、雫は部屋に戻っては居なかった。
雫は、きっと――。
そう悟り、心臓はそれを否定するかのように、血を煮詰めているかのような音を立てたが、脳は恐ろしい程静かだった。
しかし、やること為すこと規格外の雫のことだ。自分の杞憂も余所に、案外けろっと姿を表すのかもしれぬ。
無惨はそのように自分を誤魔化しながら、破れた障子を開き、庭先へと出た。
月明かりを受けて、辰砂の粒が星のように煌めいている。
何時かの夜、雫の流した涙の色に似たそれは、優美な紋様を描いていて、――その中心には、斧で胸を刺された雫が倒れていた。
「斯様なところで眠るな。」
立ったまま見下すように、無惨は雫へ声をかけた。
眠っているかのような穏やかな顔に、悪趣味な悪戯だと信じたいのか、無惨は重ねて幾つか声をかける。
「腹が減った。今日の血はまだか。」
「続きをするのではなかったか。」
もともと色白な雫の頬は、血の気を失ったことで、ますます青白く照らされていて、彼女が既に生者ではないことは明らかだった。
返事をしない雫に、無惨は話しかけるのを止めた。そのまま庭先に植えてあった金盞花を、幾つか引き千切るように手折り、雫の胸元へと乱雑に放った。
「花が欲しいと言っていただろう。喜べ。」
何時もであれば、「それは私が植えたものだろう!」等と言いながらも、雫は頬を薄く色付かせて喜ぶに違いないのに、たった一言の返事すらなかった。
「庭が汚れる。」
八つ当たりするように、無惨は苦痛で醜悪に歪んだ顔で転がっていた少年を踏み躙り、庭の外へと投げ出した。
そして直ぐさま雫へ向き直ったが、やはり彼女はぴくりとも動かなかった。
「雫、」
返事をしない彼女の横に跪き、青紫色になっている唇を己のもので塞ぐ。
冷たく、味のしない口づけだった。
「……子など、作るべきではなかった。」
出て行く前の雫が何処か不安定だったのは、きっと腹の中の子供のせいだ。腹に子さえ居なければ、雫ならば自分の身を守る方法など、いくらでもあっただろう。
「お前のことも、鬼にすれば良かった。」
そうすれば、このように詰まらぬ死を迎えることは無かった。若く美しいまま、二人で永遠に穏やかな日々を送れただろうに。
そして、自分が太陽を克服していれば、下らぬ賊から雫を守ることができた。雫は、死ななかった。
穏やかな暮らしが出来れば、それだけで良かったというのに。
――太陽を克服し、不滅にならなければ、たったそれだけの願いすら叶わないのだ。
無惨は、絶望でひしひしと心が涸れていくのを感じた。壊れた心では、涙の1滴すら零れなかった。
雫の滑らかな肌にはそぐわない粗末な斧を引き抜いてやると、どろりと赤い血が流れて来て、月光に照らされた雫の白い肌を紅く彩っていく。
骨の一片も土などに還してやるものかと、無惨は雫の心臓の上に鋭い歯を突き立て、彼女の亡骸を喰らった。
このとき、無惨が彼女の胸元に散らしたままの金盞花も一緒に食べたのは、美しいものが好きだった妻を想っての、無惨なりの弔いだったのかもしれない。