「庭先を少し散歩するだけ」と言っていたのに、雫は中々戻ってこなかった。今になって、「とっておきの秘密」とやらを話したくなくなって、戻るかどうか、庭で一人悩んでいるのかもしれぬと無惨は思う。
 雫は大言壮語で自滅しがちである。夜の営みを通して存分に学習し、それを利用して愉しんでいる無惨は、どうせ今回もそうなのだろうと鼻で笑った。
 そんな普通の、穏やかな昼間だった。
突然、何かを叫ぶ、男の声が響き、雫が何時ぞや寄越した辰砂色の女中が、その姿を水龍のように変え、部屋の外へと恐ろしい勢いで姿を消した。
 そうして間もなく、金属の撃ち合う音が庭先から止まなくなった。

「……雫!」

彼女に何かが起きたのだ。そう思うと、陽が射しているのを理解していても、破れた襖を開いて彼女の元へと向かおうとする身体は止められなかった。
「無惨!」
嵐のように渦巻く風で、無惨の身体は日の当たらない部屋の奥へと吹き飛ばされた。
 風と共にやってきた雫は、部屋の中央の畳を開け、何やらぶつぶつと唱え始めた。

「雫、一体何が……。」
「賊だ。月霊髄液に任せているから問題ない。」

そう言った雫は、傷一つついていなかったが、存在感というものがどうにも希薄なように思え、無惨の背につうっと汗が伝った。

「雫、お前――。」

「とは言え、いくつか彼には聞かねばならないことがあるから、私は少し相手をしてくる。君はここに居てくれ。」
畳の下の、どこに続いているかも分からない穴ぐらへ入るように雫が指を差す。賊のためにほんの少し身を隠すだけにしては、やけに厳重なことだった。

「嫌だ」
「悪いが君の意見は聞いていない。」
「離せ!嫌だ、嫌だっ――!」

強風に身を浮かされ、見えない力に引きずり込まれるように、畳の下の落窪へと落とされる。

「そう言えば、帰ってきたら明かすと約束していた『とっておきの秘密』だが――。」
「嫌だ、聞きたくない!五月蠅い!」

何故今その話をするのか、聞いたら致命的な何かが起きてしまうのではないか。
何故だかそんな予感がして、無惨は自分の耳を両手で塞ぎ、大声で雫の声を遮ろうとしたが、雫に人差し指を向けられると、何かが撃ち込まれたような感覚とともに、身体を動かせなくなり、叫ぶように喉を震わせても、空気が吐き出されるだけになってしまった。

「私は魔術師なんだ。」

しーーと人差し指を鼻先へ立てながら、雫は言った。

「ロンドンの時計塔であらゆる才を発揮したこのロード・エルメロイが、賊ごときに負ける訳がなかろう。」

 無惨の声は聞こえないが、必死に、そして罵倒交じりで何かを言い返しているのは、瞳の動きや血管の浮き出具合を見れば分かった。
 こんなにも面倒な駄々の捏ね方をする男を好きになるなんて、過去の自分を知る人間はおろか、ケイネスとして生きた頃の自分本人ですら、思いもしなかっただろう。
 何かを叫ぶ無惨の顔を見て込み上げてくる気持ちのまま、雫は無惨の形の良い唇へ口づけた。
 目を開けた時、口づける間もそうしていたのか、無惨が紅梅色の目をぱちくりと開けているものだから、雫にはそれがなんだか面白かった。

「続きは後にしよう。……Good bye for now,my dear.」

無惨の巻き毛がちな髪を撫で、雫は地下へと続く扉を閉じ、内からも外からも簡単には開けられないようにと呪文を唱えた。



――無惨にはああ言ったが、きっと自分は今日死ぬ運命にあるのだろう。
 庭へ戻り、未だ月霊髄液と撃ち合っていた少年を目に、雫は確信にも近い予感を抱いた。

「月霊髄液を相手によく耐えているが、そろそろ仲間を呼んでは如何かな?」
「俺は一人でも、お前や人食い鬼を絶対に退治してやる!」
「Scalp!(斬)」
「うぐっ!」

 彼が一人で来てくれたのは好都合だ。仲間が居らず、これが少年の単独行動であるならば、彼を殺して山に捨て置けば獣に食われたという話になって終いだろう。自分が居なくなっても、無惨が追われることはない。
そう考えて、雫が月霊髄液での斬撃を強くしようとしたときだった。

――強い眠気と、目眩。
突然自分を襲ったそれらに雫が足元をふらつかせた隙を、少年は逃さなかった。

「くっ!」

月霊髄液の防御が間に合わず、少年の振り回した斧が背中に食い込んだ。
先程からそうだった。少年の見せる隙を狙って撃とうとすると、普段はないような眠気や目眩が襲ってくる。まるで、「自分を勝たせたくない何か」の意志が介入しているかのように、少年に都合の良い形で物事が進んでいく。
魔術師どころか魔術使いとも言えないような、魔術の才能を全く感じさせない凡庸な少年なのに、斧から与えられる斬撃には、強い魔力が乗っている。
きっと、「人食い鬼と妖憑きを倒す、勇敢な少年の物語」を作りたい運命の仕業なのだろうと雫は思った。

「妊婦にこんなことをして、酷いとは想わないかね。」
「お前が先に父さんを殺した!お前も、人食い鬼も、死んで当然だ!」
父さん、斧という言葉を聞いて、雫は都に居た頃の暴動を思い出した。
「ああ、あの時の――」
「地獄に堕ちろ!化け物!!」

そう言って彼が振り上げた斧は、先程までと違い、金属の部分が溢れるほどの魔力で赫いていた。

 何の修練もしていない少年が操って良い魔力ではない。
やはり彼は、この世界の異端である自分と、人ではなくなってしまった無惨を異物として排除するために、世界から選ばれた人物で、運命は彼を後押ししているのだ。

 前世の無様に挫折したときの記憶なんて、自分だって持たずに生まれたかった。無惨だって、自分で望んで鬼となった訳ではない。それを後からこじつけるようなこの世界のやり方に、摘み取られる側であるこちらが納得できる訳がない。
 この少年を英雄などにはしてやらないし、自分もここで終わるつもりは毛頭ない。
 降り下ろされる斧を月霊髄液の一部で庇いながら、残りを庭に散らし、魔法陣を描く。
一つは、攻撃者に対する死の呪い。
一つは、記憶を保持して未来へと産まれる、魔法とも言える域の魔術。
 2つを同時に発動させる魔法陣を描き、起動させるための呪文を唱える。
 限界を超えた出力に魔術回路が悲鳴を上げるように熱を持とうとも、赫い斧に身を裂かれようとも、雫は唄うように高雅に、呪文の詠唱を続けた。
 すると魔法陣は白銀色の輝きを放ち、少年を雷のような力で陣外へと弾き出した。

 今回は抗い切れなかったが、遠い未来できっと、与えられた運命に打ち克って見せよう。
(それまで待っていてくれ、無惨。)
 
 無惨と過ごした日々を心に描きながら、雫は穏やかに目を閉じた。

――23歳の、XX月XX日。
雫は落命した。
前世の聖杯戦争で死亡したのと同じ日、同じ年齢でのことだった。



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