「無惨、今日の食事だよ。」

 書物を読んでいた無惨の部屋に突然やって来た雫は、自分の血が入った小瓶を無惨へと手渡した。
ふふんと自信に満ちた雫の顔を見て、無惨は嫌な予感を覚えた。

 平時すら、常人を置き去りにした思考を展開する雫だが、こういった偉そうな学者のような態度をとるときは、輪をかけて意味の分からぬ話をし出すのだ。
 そして、雫の血は何度か口にしているが、こうして小瓶に入れたものを持って来られたのは初めてのことだ。これまでは、雫が夕餉をとるのと共に、小さな白磁の器に盛られたものを、強い酒を嗜むようにちびちびと飲むのが当たり前だった。
生き血を喰らうという行為も、彼女は「ただの食事」としか捉えていないようで、気を害した風も特段気にした風もなく、無惨が血を飲んでいる向かいで、雫は普通に夕餉を食べていた。

 そのため、今回のように、突然訪れて血を渡されることを無惨が不審に思うのは当然だったが、「完璧な薬」を無惨に早く飲ませたくて仕方がない雫が、それに気付くことはなかった。



(――怪しい、怪しすぎる。)
案の定、無惨は雫の行動を不審がり、僅かに目を細めた。
何時もだったら、雫はこのしたり顔をすると、常識外れのことをつらつらと喋り始めるのにそれがなく、何故か血を飲むのを今か今かと待ち望んでいる。
 夕餉の折、血の飲み干された器を見て、健やかな子供の成長を見守るような微笑みを浮かべることはあるが、飲む前からそわそわしている様子を無惨は初めて見る。
 雫のことだから、害になるような代物ではないのだろうが、そもそも何を害とし、なにを利とするかというところで、彼女と己の間に激しい乖離がある可能性は大いにある。

「今日は腹が減っておらぬ。」

何を企んでいるかは知らぬが、こう言っておけば問題ないだろうと、無惨はそのように言葉を放った。

「確かに空腹感はないだろう。だが、この血は今まででも極上の、栄養価の高い血だ。成分が変質しないうちに摂取して欲しい。」

 さあ、早くとでも言うように、雫は小瓶の蓋を開け、背を伸ばして飲ませようとしてくる。
 煌めく青い瞳を見下ろし、己が考えすぎだったのだろうかと、無惨は小首を傾げた。

思いの外質の良い血が採れ、その質が変わらないうちに飲ませようと考えているならば、特段怪しい振舞いではないのかもしれない。勿論、怪しんでしまった己は全く悪くない。悪いのは、こういった時に信用してもらえないような振舞いを日々繰り返している雫である。
 そんなことを考えながら、小瓶を傾け、血を飲もうとしたときだった。
 かかったな、とでも言うように、雫の唇の端がにやりと意地悪く吊り上がるのが、視界の端に映った。

勿論、雫に悪意はなく、そのような意図で笑ったつもりはなかったが、前世から表情筋に刻まれている、魔術師としての底意地の悪さを感じさせる笑みは、そうとられても仕方のない表情だった。


――私の妻はこの女、絶対に何か盛ったな……!
雫の悪人染みた笑みを見てそう感じ取った瞬間、無惨は雫の腕をぐいっと力強く引き寄せた。
 突然のことにバランスを崩した雫が、無惨の鳩尾のあたりに顔を埋めるような形で倒れそうになったが、彼の片手が雫の小さな頭を鷲掴みにするように捉え、それを阻む。

「むざっ――!?」

血の鉄錆びた味が口内に広まり、雫は目を見開いた。くちゅり、くちゅりと無惨の舌が口の中を我が物顔で荒らしていく。飲み干しきれなかった唾液交じりの血が、雫の口端からつうっと零れ、無惨の舌がそれを舐め掬って雫の口内に余さず押し込んだ。

――おかしい。効果は確かにこういった薬だったが、遅効性だが持続力のあるものにしたはずで、即効性なんてなかったはずだ。

「無惨、なんで――。」

唇が離れたときに口端に垂れた涎を拭いながら、整わぬ息で雫が聞いた。

「なに、栄養価が高いとしたり顔で豪語するものだから、いつまで経っても幼子のような我が妻に、夫として確と栄養をつけてやらねばと思うてな。」

どうであった?と聞いてくる無惨の横には、小瓶が転がっており、ころりと傾いたそれからは、赤い液体が零れて床に小さな円を描いていた。

「そんなっ……!私の作った完璧な薬が……」

作業時間は大したことがなかったが、無惨の身体に合うよう、あらゆる調整を重ねて作った改心の出来の薬だった。なのに、それが無為にも畳に消えていく。
 そのショックに襲われている雫は、自分が口を滑らせたことに気づいていなかった。

「ほう。『薬』だと……?」

楽しそうな声で、緩やかな笑顔で言う無惨だったが、顔の端にビキビキと血管が浮かんでいるのを見れば、不興を買ったのは明らかだ。
その顔を見て、雫は慌てて弁明した。

「ち、違う。薬と言っても、疚しいことは、これっぽっちも……」

いや、十代の童貞の少年と性行為を円滑に進めるための薬なので、あれは疚しい類いのものと言われたらある種そうに違いないだろう。
頭の片隅でどこか冷静な自分がそんなことを認めてしまい、雫は疚しさで思わず無惨から思いきり目を反らした。

「疚しいことがないなら、何故私の目を見てそう言わぬ?」

ずいっと近付いてきた無惨の端整な顔にどきりとし、雫は照れくささと後ろめたさから顔を反らした。

「きっ、君の目が美しいから直視できないだけで、薬には何の疚しいところもないっ。」

鬼だろうと何だろうと、無惨は子作りの仕方も知らない純粋な少年だ。正直に、子細に薬効を説明するのは彼の健全な成長に悪影響だ。
 そう考えた雫は、何がなんでも白を切り通すことにした。魔術師として生きた前世では、対立派閥からの拷問で口を割らないよう、そういった訓練も受けている。そんな自分が、素人の無惨に尋問の類で負ける訳がないのだ。

「疚しいことがないならば、どういった薬だったのだ?言ってみろ。」
「栄養剤、ただのよく効く栄養剤だ。」

嘘は言っていない。夜に絶大な効果を発揮する、そちら方面の栄養剤だ。

「ほう、ではただの栄養剤……栄養をつける効果しかなかったと、そうお前は言うのだな?」
 
くいっと雫の顎を持ち上げ、雫の瞳に映る嘘や誤魔化しを見落とそうとしない、鬼の眼差しが突き刺すように雫を見下ろす。

……厳密には栄養があるのは血の方で、薬の方は精力の増強的な意味での栄養はあるが、主な効果は性感の増大だ。
 しかし、そんな生々しい話は自分の脳内に留め、栄養剤で通した方が良いだろう。
 そう判断した雫は「そうとも、ただの栄養剤だ」と言うべく涼しい顔で口を開いた。

「栄養をつける効果しかないと言うと嘘になる。厳密には性感の増大が主な効果で、精力の増強は副次的なものだし、栄養が含まれているのは私の血の方だ。……!?」

ただの栄養剤だと白を切るつもりでいた雫の思いを裏切って、口が勝手に回り始める。
何故こんなことが……!と慌てふためきながら考えたところで、雫はハッと薬を作っていた時のことを思い出した。

 夜、痛くしたりするつもりはないが、嫌なことがあれば嫌、気持ち良ければ気持ち良いと、無惨が素直に思ったことを言えるようにしよう。

そう思った自分は、僅かだが――。

「自白剤としての効果も付けたな。」

余計な行動をした過去の自分を呪いたい。そう思いながら、相変わらず勝手に動く口ごと、雫は自分の顔を覆った。

……待て。もっと不味いことがある。
あの薬は元々無惨が服用する前提で作ったもので、数時間経たないと効果を発揮しないのは、飽くまで服用者が鬼の場合だ。
 僅かしかないはずの自白の効果がもう出ていて、こんなにも早く効いているということは、他の効果は――。
「全く……。」
「ひゃあんっ!」
 顎を撫でるように無惨の手が離れていくと同時に、雫が情けのない小さな悲鳴のようなものを上げた。
時が止まったかのように、二人とも動きを止め、沈黙が続く。

「違う、今のは、幻聴……きっ……気のせいだ!」

焦った声を上げる雫は、内心で更に焦っていた。

――このままでは、不味い、非常に不味い。
主な薬効である性感の増大が作用してしまっている。飲んでしまったのが僅か数滴とはいえ、あれは鬼である無惨が飲めば少し気持ち良い程度のものだが、人間が飲んでしまうとそうではない。これ以上本格的に効いてしまうと、自分があられもない痴態を晒すことは確実だ。
 初めての無惨の前でそのような姿を晒せば、無惨に心的外傷を残してしまうかもしれない。何より、自分の自尊心にとっても許容し難いことだ。
早く工房に帰って、薬の無効化をしないと――。

 熱を持ち始めた体を押さえ、ふうふうと乱れてきた息を吐きながら、この場を逐一退散するために、雫は無惨から少しずつ距離を取る。

「何処へ行く?」

じりじりと雫が逃げようとしているのは明らかで、無惨はにやりと口元を歪めながら聞いた。

「そろそろ夕餉の用意を……。」

1歩、2歩と雫が後ろ足で小さく退がる度、同じだけの歩数で無惨が距離を詰めてくる。
 長身の無惨の方が歩幅が大きく、開いていたはずの距離は瞬く間に元通りになってしまった。

「しかしお前は随分と調子が悪そうに見えるぞ?背中でもさすってやろうか。」
「いや、遠慮しよう。」

言葉は凛としながらも、いやいやをするように首を振り、涙目になりながら雫がまた後ずさろうとする。追い詰められた獲物のような雫を目に、無惨はぞくりと背筋が震えるような興奮を覚えた。
可愛らしく表現すれば虐めっ子、有り体に言えば、加虐体質。本人すら自覚していないが、無惨はたった今、そういった扉を開いてしまった。

「くっ……。」

無惨が背を撫でまわしはじめ、雫は嬌声を上げそうになるのを喉奥で必死に留めた。
布が厚く重なっているおかげで、背を撫でられている感覚が緩和される。当初は無駄に布ばかり重ねる機能性の低い服だと思っていたが、この時ばかりは雫は平安貴族の装束に感謝した。
 一方無惨は、思ったような反応が得られず、つまらないので背を撫でる手を止めた。何かを耐えるように、雫が唇を噛んでいるのを見て、これをどうにかして先程のような声を出させることはできないかと思案しながら、雫の頬に手を伸ばした。

「ひゃああぁぁ……。」

目を瞑り、熱い息を溢しながら、雫は頼りない声を漏らした。そのまま上へ下へとさすってやると、手の動きに合わせるようにして、雫がか細い声を出す。

「む、無惨……もう駄目だ、止めろ……。」

 ぴくりと肩を小刻みに揺らし、大して力のない拳が胸をぽすりと叩く。普段人の話を聞かず、勝手なことばかりする雫がこのようになっているのは大変気分の良いものだ。

 一方、雫は前世と変わらず自尊心プライドの高さも時計塔随一のままである。そのため、この状況はかなりの屈辱だった。
 自分の作った薬で自分が気持ち良くなり、その醜態を無惨に見せてしまっている。
(最悪だ。私は変態か!)
 そう考える合間すら、無惨の手の動きに都度反応して、発情した雌猫のような声が口から出る。もう情けない気持ちで一杯だった。
(しかし、何よりも、無惨……。この、天性の加虐嗜好者め!)
快楽で薄くしか開けない目でも、加虐の愉悦に浸る無惨の口元はしっかりと見えている。純粋な少年だと信じていたし、今まではこのような片鱗は見せなかったのに、まさかこんな一面があろうとは思わなかった。
(ちょっと油断していたとはいえ、調子に乗って……!あ、止めろっ、首筋は止めろ。)
 雫は無惨のことを愛しているが、それで矜恃を曲げるような者ではない。
 そのため、「このロード・エルメロイ相手に、無惨は少し調子に乗りすぎた。立場を分からせるために、態勢を立て直し次第、少し仕置をしてやる必要があるだろう。」と、すっかりやり返す気で青い瞳を鋭く光らせた。
 頬を撫でていた無惨の手が、好き勝手に首筋を撫で回し始めたので、それを許してなるものかと、雫は快楽でくたりと力なく垂れていた手を翳し、魔性特攻の魔法陣を張る。
 痺れる程度だが、無惨をほんの一瞬怯ませ、手を退かせるには十分だった。

「くっ……!今回は、私が少し油断しただけだ!薬さえなければ、童貞の君にこの私が負ける訳がない!今夜、覚悟していたまえ。」

びしりと人差指を突きつけて堂々と宣言した後、両足を魔力で強化し、まだ日の出ている庭へ雫は風の如く颯爽と退散した。
 なお、雫はこれを堂々たる風格での挑発行為と考えているが、無惨はそうは捉えていなかった。
 突きつけた人差指は未だ感じる快楽でぶるぶると震えており、瞳も泣く寸前のような涙目になっていた。
――切羽詰まっての捨て台詞。雫の挑発をそう捉えた無惨は、余裕そうに鼻で笑いながら、雫の走り去っていった庭の方を眺めていた。



 その夜、無事に薬を無効化し、自分の勝利を確信した態度で無惨の前に現れた雫だったが、彼女がどうなったかは、当人たちのみの知るところである。



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