激動の初夜前譚

 昼は自分の生きる時間ではなく、夜闇の中こそが鬼の身となった己の在るべき場所なのだと、無惨はこうして夜に目を覚ます度に思う。
雫と共に床へついても、一睡したかどうかというところで、勝手に目が覚めてしまうのだ。最初のうちは屋敷の周囲を散歩してみたものだが、雫が新居として選んだこの屋敷は何故か辺鄙な山奥にあり、散歩をしても面白くないどころか、都には居なかったような虫や蛇が居て却って不快になった。都では、「あはれ」やら「をかし」やらと風流なものを愛でることが流行っていたが、月や花を愛でるのも3日と経たず飽いた。
 そうして、目が覚めても特にすることがなくなってからは、隣で眠る雫の顔を眺めることにしている。

 今日の雫は、どうやら夢を見ているようで、むにゃむにゃと口を動かしていた。
 何か面白い寝言が聞けるだろうかと、無惨がそのまま口の動きを待っていると、雫は何時か諳じた詩の漢語とはまた違う、何処か異国の言葉を喋り始めた。これだけでもぎょっとしたというのに、高い語彙力がそうするのか、雫は本当に寝ているのかを疑いたくなる程、仕切りに喋り続けている。それはだんだんと、苛立ったような荒い語調になっていった。
 煩いので起こしてやろうと、無惨が雫へ声をかけようとしたところで、雫は突然静かになったかと思うと、すんすんと鼻を鳴らしはじめた。

「ソラウ……!」

悲痛な声とともに、雫の眦からぽろぽろと涙が溢れていく。
 己が死んだと勘違いしたときに流していたような、月の光で輝く涙の粒が、雫の白い頬を伝っていく。美しい光の粒が布団へと吸い込まれていくのを勿体無く思いながら、どこかで聞いたことのある言葉を記憶から探り出してみる。
 そらう。聞き馴染みのない言葉だが、思い出そうとすると雫の声で再生される。幽霊でも見たかのような、驚きに溢れた青い瞳で己を見つめる雫の顔と共に――。

――そうだ。初めてあの部屋を訪れたとき。己の顔を見て、雫はそう口にしなかっただろうか。

「ソラウ 、ソラウ……!」

迷子の猫が母猫を呼ぶ鳴き声のように、或いは恋い焦がれた想い人を呼ぶかのように。月の流砂のような涙を流しながら、雫はその名を何度も口にした。
酷く不愉快だった。

「雫、起きろ。」

肩を強く揺さぶり、何度か呼び掛けると、応えるようにぴくりと瞼が震え、濡れた睫毛から涙の粒がつうっと筋となって、白く滑らかな顔を伝い落ちていった。

「雫、」
「……。」

ゆっくりと開いた目は、まだ夢うつつなのか、ぼんやりと虚空を見つめている。
 このままでは、雫を奪われてしまう。
己の元を去ってしまう。元いたところへ帰ってしまう。彼女に憑いている妖が、憑り殺して己から奪おうとしている。
そんな予感にも似た馬鹿馬鹿しい焦燥が、突如腹の底にぐるぐると渦巻き、雫に一層強く呼び掛けた

「雫、何時まで眠っているつもりだ。」
「……雫?……ああ、そうか、私は……。」

雫の瞳に何時もの叡智の光が徐々に宿り、夢に奪われていた思考が戻って来ていると分かった。

「酷く魘されていたぞ。」
「……そのようだな……。」

平時はこちらが鼻白む程、理知に富み溌剌だというのに、今の雫は魂を彷徨わせているかのように、どこか生気の籠らない返事をした。まだ夢に囚われているようだった。

「雫、」

今にも頬へと溢れそうな、雫の目の縁に溜まりきった涙へ、啄むような口づけを送る。果実のような香りの、甘い味がした。
 
 雫が涙を流すのは、己の為だけで良い。「そらう」などにくれてやる分は一滴もない。

 余さず自分のものにしようと、無惨は涙の伝い落ちた頬の跡も舐め取った。雫は擽ったそうに小さく身を捩りながらも、抵抗せずにされるがままとなっていた。
「そらうとはどこの男だ」と、無惨は問いたくて仕方なかったが、それを聞いたが最後、雫は夢幻のように忽然と姿を消しそうな気がして、言葉を喉奥に飲み込み、床にぎりりと爪を立てた。

「お前は、私の妻だ。」

 鼻先が触れ合う程に顔を近付け、言い聞かせるような重さで無惨は言った。
 すると、雫は仏のように穏やかな微笑みを描き、無惨の頬にするりと手を伸ばした。

「知っているとも。愛しているよ、無惨。」

そう言って、雫が額に口づける。
 病だったときと変わらず、彼女から口づけをされると、仄かに熱が灯るような暖かさが広まって心地よい。
手慣れた口付けをする雫に、「そらうにもこうやって口づけをしたのか」と問いたくなるのを堪え、無惨は別のことを口にした。
「早く子を授かれば良いな。」
そうすれば、そらうなど気にも止めず、お前はもっと己だけに確かな愛を注ぐようになるだろうか。
 無惨はそう考えながら、何時か己の子を宿すであろう雫の薄い腹を撫でる。
「…………そうだな。」
雫の返事はやけに間があった。壁の方へそっぽを向いてしまったので、恐らく照れているのだろう、と無惨は理解した。
顔を隠すように丸まった雫は何かの小動物のようで、それを見ているだけで、夜は随分と楽しいものだった。

 壁を向いている雫が目を瞬かせたり、頬を引きつらせたりと、何やら混乱していたことに、無惨は気付かなかった。



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