どこへ行っていたのか、雫は日没と共にひょこりと部屋へ戻ってきた。

「無惨、無惨。」

誰もいないと言うのに、雫は内緒話をするような小声で無惨を呼んだ。

「何だ。」
「今夜引っ越そう。」
「そうだな……。」

 背中の大きな風呂敷を見るに、これは妻の中では決定事項だ。もう何も言うまい、と無惨は少年とは思えぬ諦観の境地で返事をした。
 雫としては、鬼となった無惨を討伐せんとする動きの芽は潰したが、騒ぎになっていた以上、目立たぬ場所に移動したいと考えあっての行動だったが、これまでの自由な行いのせいで、無惨からは「突然の思いつき」と認識されてしまった。
 実際、引越先の選定は「魔術の研究に良さそうな霊脈のあるところ」を重視したため、新居は山奥だ。夫の意見も聞かず、都暮らししかしたことのない貴族の無惨に突然の山暮らしを強いるのだから、「突然の思いつき」と思われるのも仕方のないことだった。

――自分の生きた場所。
そこはまともに日も射さぬような、暗い部屋で、こうして外から見ると、随分と古ぼけた、誰もに忘れ去られたような場所だったことが分かる。
雫が来なければ、自分はそこで病に苦しみながら死を待つだけの存在として、密かに生を終えていただろう。
 苦しんだ記憶の方が多い、見窄らしい部屋だと言うのに、いざ去るとなると何故か惜しむような気持ちが胸中を覆うのだから不思議だ。

「無惨?……忘れ物か?」

離れの見えなくなる角で、じっとそこを見つめたまま動かない無惨に、雫は首を傾げた。

「いや、何でもない。」
 雫に続いて角を曲がり、玄関の門をくぐった後、無惨が振り返ることはなかった。

「ふふ。君との旅行なんて初めてだ。」
「そうだな。……旅をする日が来るとは思っていなかった。」

妖憑きと言われる女との婚姻、人食い鬼と化したこの身。我ながらに数奇な運命の中を生きていると思う。
この目まぐるしい運命を生き抜いた先、自分たちには何が待っているのか――。
神へと問いかけるように空を見上げたが、星々が煌々と輝きを返すだけだった。

「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」

唄っているかのような心地良い声で、雫が突然そう言った。

「そのような言葉もある。初めての旅を、君にも楽しんで欲しい。」
「ほう。では私を確と楽しませよ。」

初めての旅への不安を隠すように、無惨は帝のような態度を取ったが、雫は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「では、せっかく星が美しく輝いているのだから、星見でもしながら行こうか。」

後の世では誰もが知る希臘ギリシャの神話を物語に、この日、二人は都から姿を消し、誰もいない屋敷だけが残された。

二人を照らす月と星の明かりだけが、彼らの道行きを知っていた。



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