「無惨、もう朝だ。そろそろ起きなければ。」

気絶から目覚めた雫は起きようとしたが、自分を抱く無惨の腕が思いの外力強く、抜け出ることが出来なかったため、眠っている無惨の背中をぽんぽんと叩いた。浅い眠りを邪魔された無惨は、眉をしかめ、そっぽを向くように壁の方へ寝返りを打った。

「女中たちも、朝餉を持って来ても良い時間だろうに……。」

一体何をやっているのかと、起き上がりながら雫は小言を口にしたが、生憎彼女たちは全て、この数日の間に無惨の腹の中へと収まってしまったので、彼女らが雫たちのために膳を運んで来ることは一生ない。

「……この屋敷にはもう、私とお前だけだ。……私が、奴等を喰ろうたから。」

罪のない人を葬ってしまった罪悪感か、突如変異してしまった自分の身体への恐怖か。
どういった感情に拠るものかは分からないが、無惨の体は震えていた。

「私の居ない間に何があったのか、聞かせてくれないか。…ゆっくりで構わないし、口に出すのが辛ければ、言わなくても良い。……君の力になりたいんだ。」

魔術師だったころと基本的な性格が変わらない雫は、人を慮るという経験に欠けていた。どうすれば良いか分からない彼女は、おろおろしたまま思いを口にし、何故自分がそうするのかも分からないまま、慰めるように無惨の背を撫でていた。

「何が薬師だ。人の治療方針も知らずに勝手なことをするな、愚か者が!」

 無惨の話を聞き終わったときの、雫の心はその怒りで荒れ狂った。
 無惨が余りに不憫でならない。細かな成分は分からないが、その薬の性質上、自分のかけていた沈静の魔術の反動で、無惨には凄絶な痛みがあったことだろう。魔術師の自分なら兎も角、何の訓練も受けていない少年にとっては、いっそ死んでしまいたいと思えるような、拷問と同様の痛みだったに違いない。

魔術による無惨の死徒化――所謂人間の吸血鬼化によって無惨の寿命を伸ばす方法は、当然雫も考えついてはいた。
しかし、雫はその方法を考えつくと共に真っ先に選択肢から切り捨てた。
それをすれば無惨は一生他の人間を喰らうことで命を繋がなければならないし、この世界の教会が機能していれば、永遠に教会から逃れる生活を送ることになってしまう。歴戦の魔術師ならば構わないだろうが、20歳にも満たぬ、病床での暮らししか知らない無惨に負わせるには余りに過酷な宿命だ。
何より、吸血鬼として完全であればあるほど、死ぬのは難しくなってしまう。懇願しても死ぬことができないというのは辛くて残酷なことだと、雫は前世の最期で身を以て実感している。
 幸いと言って良いのか、無惨には日光や藤の花といった弱点があるので、完全な死徒よりは「死にたくても死ねない」という状況にはなりにくいが、それは結果論であるし、依然デメリットの方が大きい。

「君を一人にして、済まなかった。」

 一義的に責を負うべきなのは余計なことをした薬師だが、猜疑心の強い無惨が身内以外から貰ったものを口にすることはないだろうと、外部の者による服毒への対策を講じていなかった自分の手落ちでもある。
 その結果、無惨には責のないことで果てのない業を背負わせてしまった。謝って済む問題ではないが、謝罪を口にせずにはいられなかった。

「それだけか。」
「勿論、謝って済む問題ではないことは分かっているが、私にはそれしか……」
「違う。」

布団の端に縮こまっていた無惨は、はあっと苛立たしげに溜め息を着くと、雫の両肩を掴んだ。

「私は人を喰らう化け物になったのだぞ。現に屋敷の者たちは全て喰ろうた。全て、だ。自分もそうなるとは思わないのか。」
「はあ、」
「私はお前を喰うかもしれないのだぞ!」

危機感の全くない返事に、分かっているのかと声を荒らげる。ぎりぎりと、雫の細い肩を掴む手にも自然と力が入った。

「現に君は私を食べていない。」
「そういう問題ではない!私はこれからの話をしているのだ。」

話の通じない苛立ちに、ビキビキと顔に血管を幾筋も立てて牙を剥く様はまさに鬼の形相だったが、雫は全く動じなかった。

「そうだな。これからの話をしよう。」

流石にそろそろ痛くなってきたので、肩に置かれた無惨の手にそっと手を重ねると、無惨の手がびくりと震え、力は緩まり、そっと肩を離れていった。その一瞬、血管の巡る腕や、青紫の尖った爪の自分を見て、無惨が青褪め、何だか泣きそうな顔をしているように見えた。

――鬼になろうと、人を喰らおうと、彼は自分を一目で恋に落とした、あの日の無惨と同一の存在に違いなかった。不慮の事故で望まぬ力を得た上に、それを持て余して震えるただの少年を、どうして今までの愛を全て無かったことにして、人食い鬼などと蔑むことができるだろう。
 
 それを思いのまま口にすれば良いのに、感情論や精神論では安心できないだろうからここは論理的に、と考えてしまうあたりが雫の残念なところだった。

「当面の体力を保つのに必要なだけの人数は食べているようだから、食人衝動は暫く大丈夫だろう。たまに人を食べなければならないかもしれないが、私の血でも飲んで、よく睡眠を取っていればそう頻繁に人を食べずとも活動できるはずだ。」
「……。」

私はそういうことを言っているんじゃない、と無惨は思ったが、それを言ってもまた同じような流れになるのだろうと予想できたので、閉口してしまった。

「……人を食らうのだぞ。」

先程から、雫は人を食らうことを膳の端に副菜を添えるような感覚で話しているが、そこをどう理解しているのだろうか。

「そうだな。」

それで?とでも言うように、雫は言葉の続きを待っているが、続きなんてない。

「人を食らうなど、化け物のすることだ。」

 進んで化け物扱いされたい訳ではないが、「そうだな」の一言で片付く問題ではない筈だ。普段は雫の独特の思考にはあまり口を挟まない無惨だが、これには食い付かずにはいられなかった。

「人間が獣肉を食すように、上位種が下位の種を搾取するのは自然界では当然のことであり、大抵の生物が栄養を摂取しなければ生命活動を維持できないのは更に当然のことだ。野菜や肉・魚が「食べないでくれ」と声を発すれば、我々人間は彼らを食べないか?違うだろう。」
 
雫の口にする論理は確かに筋が通っているように聞こえるが、依然として噛み合わなさを感じる無惨だった。それは違うのではないかと口を開きかけたところで、雫が喋るのを続けた。

「それに、世の中には災害やら何やらで意志に反して緊急避難的に人肉を食べざるを得なくなる人間もいるし、君だって大きく括ればその部類に入るのではないかな?もっと言えば、好んで人肉を食べる食人嗜好の人間だっている。そういった種内補食に比べたら、君の食人はよっぽど自然の理にかなっているよ。」
「……。」

 何か違う気はするが反論も思い付かず、無惨は批判を唱えようとしていた口を静かに閉じた。
当初の自分が何を問題にしていたのか。無惨は段々とそれが分からなくなってきた。

――当初は、そう。
最初に女を喰らった時は、ただ飢餓感だけがあって、彼女を喰らったのだと気付いたのは彼女の他に3体程の女を食べた後だった。初めから狩り方を知っていたかのように、鋭く伸びた爪と獣のような力が彼女らを裂き、牙となった犬歯で骨すら噛み砕いた。傅いていた人間たちが、ただの「食糧」にしか見えなくなっていた。
今は良くても、いつか。雫のことも、自分はいつか「食糧」として見るようになり、食欲のままに彼女の白い肌をこの爪で切り裂くのかもしれない。
 そう思うと、自分のこの身が恐ろしくて仕方なかったのだ。
……そうだ。
他人のことを雑草くらいにしか思っていない雫には、こう聞くべきだった。

「私がお前を今すぐ食べたいと言ったらどうする。」

つうっと人さし指で雫の喉をなぞり、喉仏のところで爪を伸ばす。
 薄い皮膚はぷちりと簡単に破れ、ゆっくりと血の滴が溢れてきた。

「……正直な話をしても良いかな。」
「ああ。」

我が身の話となるとやはり違ったかと、無惨は嘲笑った。
でも、自衛のために彼女が自分を殺すと言い出すなら、何だかそれでも良い気がした。

「私を食べても良いが、その……。」

もごもごと言い淀む雫に、早くしろと喉に沈める爪先を深くした。そうすると、雫が慌てて口を開いた。

「その前に君と子を成したい!」

焦っていたせいで思ったよりも大きな声で言ってしまい、雫は羞恥に頬を染めた。

「……は?」

場にそぐわない突然の子作り希望宣言に、無惨は盛大に眉をしかめて指を下ろした。

「違う、今のは、」

頬だけでなく、ついには耳まで真っ赤に染め、失言をしたと言うように雫は口元を手で押さえている。
「そ、そういえば朝食(ブランチ)がまだだった。何だか空腹感があるような気もするな!わ、私は失礼するっ。」

居たたまれなくなったのか、雫はくるりと背を向け、異常な早さで庭の方へと向かっていってしまった。呼び止めることができないまま、無惨は雫の背を紅梅色に染まった瞳で見送るしかなかった。

 雫の思考は結局良く分からなかったが、自分が鬼となってしまったことは、不思議と大したことではないように思えてきた。これからも雫と在るならば、人を食べることの罪悪感に潰されることもなく、どうとでもなるような気がする。
……ただ、太陽の元へ出ていった彼女を追いかけることができないのだけが、この身となって少しばかり残念だ。
 きっとまだ庭を小兎のように駆けているのだろうと想像しながら、雫の血が残る指先をそっと口に含む。
 桃のように瑞々しく、葡萄のような芳醇さに、蜜のような甘さがふわりと乗る甘美な血だった。
 その血を余さず舐めるうち、何時かの夜、寝る前に訪れた彼女が呪文を唱えた時のような、不思議な充足感が全身に満ちるのを感じ、無惨はほうっと目を細めた。



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