大丈夫、無惨は生きている。
そう思いながらも、雫は不安を拭いきれなかった。
やはり無惨を一人にすべきではなかった、自分が側で守ってやるべきだったと後悔する頭の中には、どうしても前世の記憶がちらついた。
美しかった手は腕から切り落とされ、他にも拷問の跡を体の端々に残し、瞳には何も映さなくなった婚約者の姿。その姿を、無惨でイメージしてしまう。悪夢のような現実が起きていないかと、雫はいつもの部屋の襖を開けるのが怖かった。
「無惨、帰ったよ。開けても良いかな?」
きっと無惨は大丈夫だ。ただ勝手に海外行きを決めて不在にしてしまったから、ちょっと拗ねているかもしれない。
雫は珍しく、少し機嫌を取るような声で話しかけたが、無惨の返事はなかった。
……部屋の中に、人の気配も感じられない。
違う、返事もしないほどに、無惨は拗ねてしまっているだけだ。自分は前世の記憶のせいで、悪い方に考えてしまっているだけだ。
「無惨、その……拗ねているのかな……?長い間家を開けてしまったことは、本当にすまなかったと思っている。……開けるよ?」
無惨の無事を必死に言い聞かせ、拗ねている無惨の気を立てないよう、そろりそろりと襖を開ける。
……無惨がいない。
誰もそこにはおらず、無惨の病に伏していた布団に、不自然な形に血のような赤黒い液体が飛び散っていた。
「そんな……」
雫は崩れ落ちるようにぺたりと腰をついた。
庭に仕掛けた外敵用の魔術も、部屋に仕掛けた結界も全て残っているのに。
今度こそ、今度こそ完璧だったはずなのに。
不完全な自分のせいで、無惨を賊の手にかけてしまった。今世でも自分は最愛の人を失ってしまった。
「あ、あ……」
嗚咽とともに、ぽろぽろと涙が零れてくる。
前世と同じ轍を踏んだ自分の愚かさ、無惨を喪ったという事実に、ただ嘆くことしか出来なかった。
「……雫?」
聞き覚えのある声に、縋るような気持ちで雫が顔をあげると、そこには無惨の姿があった。歩こうとするとふらりふらりと覚束なかった彼が、真っ直ぐ立って自分を見下ろしていた。
「無惨、君、生きて……、」
「勝手に殺すな。」
眉間に皺を寄せる表情は無惨のもので、雫は勢いに任せて無惨に抱きついた。存在を、生きていることを確かめるかのように、ぎゅうっと背に回した手に力を込める。随分と体温が低くとも、確かな肉体の感触に、雫は安堵の溜め息を漏らした。
「良かった。君が、無事で……。どこか痛むところは?何か食べたいものがあれば用意しよう。欲しいものだって、私が、何でも……。」
「お前が」
「ああ」
「お前が私の側を離れぬというのなら、それで良い。」
「勿論だ。もう君の側を離れたりしない。約束だ。」
雫がぎゅうぎゅうと頭を押し付けるせいで、夜着越しに腹部あたりが雫の涙で湿っていくのを感じたが、無惨は不思議とそれが不快ではなかった。
むしろ、自由気ままで掴みどころのない彼女が、縋るような目で自分を映し、必死にしがみつく様は、恍惚にも近い悦びがあった。
悦びに綻ぶ口元を隠しもせず、無惨は宥めるように雫の小さな頭を撫でた。