雫が不在となった翌日、ある一人の薬師が無惨の部屋を訪れた。
それは、薬師が病になった屋敷の者を診に来た帰り、離れを出入りする女中を目にし、尋ねたところ、「妖憑きの妻」を持つ男が暫く病に臥せっていると返事を受けたことが発端だった。
 薬師は善良な男で、女中の話を親身になって聞き、病に苦しみながら離れに暮らす無惨を憐れに思った。そこで薬師は、無惨のことも診たいと申し出た。善意なので金も取らないという薬師の言葉に、家人たちも反対はしなかった。

「誰だ貴様」
「しがない薬師でございます。無惨様を診るように仰せつかって参りました。」

仰せつかったとの言葉や、自分の不在を補うためのあらゆる手段を用意していると豪語した雫の言葉を思い出し、無惨は雫が自分の代わりとしてこの男を寄越したのだと誤認した。当然のようにそうだと思い、薬師にわざわざ確認するようなこともしなかったので、その誤認は解けぬまま、日にちばかりが過ぎて行った。
 そして、薬師は自分の立場に驕ることなく、女中や病人である無惨とも穏やかに話をしていたが、会話を重ねるうちに、「妖憑きの妻」なる人物がどうも怪しいように感じた。
無惨にどのような薬を飲んでいたかと聞けば「薬など飲んだ覚えはない」と言い、食事に混ぜていたのかと厨の者にも聞いたが、「妖憑きの妻」の指示の通り食事を作っているとのことで、指示書も確認したが、病人が食すには少し豪勢な食材が使われているくらいで、不審な点はなかった。
 しかし、咳き込むことも減り、顔色も良くなったと、家の者たちは口を揃えて言う。20まで生きられぬと宣告されたものが、薬も使わずにここまで快方に向かうなど、通常なら有り得ないことだ。
――妖術でも、使わぬ限りは。
薬師はすっかり、女中たちの「あの妖憑きは、無惨様を取り殺すつもりだ」という笑い話のような噂を信じてしまっていた。
 なんとしても、自分が無惨に薬を施し、妖憑きから守ろうと、薬師は一人奮起していた。

 一方、そんな胸中を知らずに、無惨は薬師の処方する不味い薬を咳き込みながら飲んだ。雫は自分にこのような物は出さなかったと不満を言ったところ、「良薬口に苦しと申しますので」と返され、渋々口にしていた。
 雫が毎晩、寝入り端の自分に奇妙な術をかけているのは知っていたが、この薬師の男はそういった術で自分を治療するわけではないらしい。
 そのことを不審にも思ったが、雫が自分の代わりにと用意した男だから、多少手段が違っていても大丈夫だろうと、無惨は男の処方する薬にそれ以上文句を言わなかった。

「あと13日でどれくらい治る?」
「13日もあれば、きっと、十分に……。」
「妻が帰るまでに治したい。」

留守にしているとは聞いていたが、あと13日で帰ってくるということに、薬師は内心で、13日以内で治し、妖憑きの魔の手が及ばぬようにしようと決意した。

「13日もあれば、完治しましょう。とっておきの秘薬があるのです。」
「ではそれを飲む。」

 帰ったときに、回復した姿を雫に見せてやろう。「お前では治せなかった病が、薬師には簡単に治せたぞ」と言ってやれば、雫はさぞ悔しがるだろう。そう思うと少しだけ愉快で、無惨は唇を綻ばせた。
 そんな無惨の表情を見て、薬師は無惨が例の妖憑きの妻を想っているのだろうと察した。無惨はあまり表情が変わらないが、時々このように、不在にしている妖憑きの妻を恋しく思っているような表情を見せる。
 妖は、人を惑わせる生き物だ。その妻が見せていた優しさは、お前を惑わし、取り殺すための幻なのだと薬師は諭したかったが、病に苦しむうら若き少年である無惨にそのような残酷な現実を突きつけるのは良心が咎め、せめて病状が落ち着き、8割方回復したときに告げようと、薬師は口を噤んだ。

 秘薬を飲んで3日目、熱で魘された無惨は目を覚ました。
寝汗などかいたのは久しぶりで、汗を拭う者が近くにいないというのも久しいことだった。
腫れた喉が痛い。喉と同じように、胸のあたりも焼けつくようにひりひりと痛む。全身の血管を蚯蚓が這っているかのように血が巡り、熱と悪寒が同時に襲う。
 薬師の秘薬を飲むようになってからというもの、これまでになかった痛みが日毎自分を襲うようになった。”良薬口に苦し“と言うのだから、これ程の痛みを耐えればきっと、それに見合うだけの結果が残るはずだと、無惨は飲みたくもない薬を飲み続けた。

 感覚が可笑しいところもあり、多少屈折してはいるが、雫は優しい方だったのだと無惨は自分を置いてどこかへ旅に出た妻の顔を思い出した。

この治療法を知っていても、自分がこのような痛みに苦しむことがないよう、この秘薬や、それに類する物を処方したくはなかったのだろう。
――どうして、あのように未熟な男に代わりを務めさせたのだろう。自分の元を離れたりしたのだろう。
こんなにも、痛くて、苦しいのに。

「全然、役に立たないではないか――」

雫の寄越した奇天烈な柄の御守りを懐に握り締め、全身の激痛と共に無惨は夜を過ごした。
 あと10日もこの痛みに耐えなければいけないのを思うといっそ楽になってしまいたいという思いが無惨の頭を過った。それでも、屋敷へ帰って来て、健康になった自分を見た雫の顔に喜びが浮かぶことを想像すると、無惨は不思議と痛みを耐えることができた。


 ひゅうひゅうと、細いすき間風のような音が、呼吸をする度に喉から出る。
あと9日も残っているというのに、痛みは一向に治まらない。雫が帰ってくれば、この痛みもなんとかなるのではないか。
清潔な部屋に、美味な食事。雫は頼んでもいないのに自分の環境を人間らしく整えてくれた。彼女からの額への口づけ1つで、穏やかに寝入ることが出来ていた。

「まだ治らぬのか。一向に良くならぬどころか、却って悪くなっている。どういうことだ。」
「もう少し辛抱下さい。あと9日耐えれば、病は完治致します。」

 そうは答えたものの、思わぬ無惨の不調に、薬師は焦りを感じていた。
雫が見れば分かったことだが、薬師の処方する薬には、僅かに魔力反応があった。本人は意図して調合した訳ではないだろうが、薬には「活性」の性質があり、無惨の免疫力を活性化させることで、病を打ち倒さんとするものだった。
 対して、雫の施していた魔術は「鎮静」の性質を持ち、無惨の中に巣食う病の元を鎮静化させるものだった。
雫の「鎮静」は病を鎮静させる代わりに、無惨自身の免疫力も鎮静化させてしまう。薬師の「活性」も同様、無惨の免疫力を活性化させる代わりに、病の元も活性化させてしまう代物だった。
 雫が敢えて鎮静化させていたものを、無理に活性化させたのだから、通常の服用に比べて反動が大きいのは当然のことだった。しかも、雫は出掛ける前に念のためと、いつもよりも強めに魔術をかけていたので、無惨の味わう痛みは拷問とも言えるものだった。雫がもしこの場に居れば、薬師は怒号を受けるだけでは済まなかっただろう。
 そして不幸なことに、雫が無惨に渡した御守の魔術は物理的・魔術的な攻撃を防ぐためのものであり、身体の内部で起きる痛みの緩和については何の役にも立たないものだった。
 昨晩、苦しみが引かなかったので、この御守がご利益も何もない役立たずであることを、無惨は実感をもって理解していたが、それでも何故だか無惨はそれを手放すことができず、ぎゅっとそれを握り締めていた。

 薬師がそのことに気付いたのは、無惨が魘されるように意識を彷徨わせている日中のことだった。
(きっと、この小袋に妖術が掛けられているに違いない。描かれている面妖な紋様がその証だ。)
このままではきっと、女中たちが噂する通り、この少年は妖憑きに取り殺されてしまうに違いない。
早く、この袋を手放させてやらなければ――!
 薬師は、恐ろしい未来から少年を守ろうと、固く握られた手を解き、なんとか小袋を無惨の手から奪おうとする。指を無理矢理動かそうとする不快さに、昏倒していた無惨はうつらうつらと目を覚ました。

「貴様、何をしている。放せ!」

雫からの御守を、無理矢理奪おうとしていた男の手を振り払い、魔性の怪物のようなぎらつく目で薬師を睨みあげた。

「無惨様、それを持っていては駄目です。それには妖術が掛かっています。」
「何?」

自分の話に興味を示した無惨へ、薬師は落ち着かせようと言葉を続けた。

「妖憑きは、貴方を取り殺そうとしています。今まで貴方を世話していたのは、貴方を惑わせながら、期が熟すのを待っているからに違いありません。」
「貴様、言うに事欠いて私の妻を侮辱するのかっ――!」

治療の腕は雫に遠く及ばず、粗悪な薬で自分の体調は悪化した。
それを恥じ入ることも詫びることもなく、あまつさえ雫を「妖憑き」などと侮辱するのはどういうことだ。
激しい憤怒とともに、血を沸騰させるような痛みが身体を襲う。
朦朧とする中で、薬師に向けて手元にあった何かを振るった無惨だったが、その直後、身体を根本から造り変えようとしているかのような痛みに意識を奪われ、自身が何を振るったのかは、次に目を覚ますまで知る由もなかった。



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