異変が起きたのは、その文を返信して3日経った夜のことだった。
 何かの鳴き声のような不思議な声がするので、「日本古来の幻想種か!?」と、研究者気質の雫は逸る思いのまま、地下の工房から鎖や縄といった、研究の過程で自作した捕獲用の魔術礼装を即座に引っ張り出し、庭へ繰り出そうとした。しかし、襖を開けようとしたところで、その鳴き声に一定の規則があり、よく聞けば日本語であることに気づく。

――和歌だ。
それは男の声が紡ぐ和歌だった。
前向き過ぎるほど前向きで、薄っぺらな恋の歌。
詠まれた和歌の作風は、自分に迷惑な文を送ってくるあの男のものに違いなかった。
 気付いた瞬間、雫は逸る思いが一気に鎮まったのを実感した。愚か者は無視してさっさと地下で魔術の研究を続けようと、地下への通路を隠している畳を再び持ち上げようとしたときだった。

「我が蒼月の君、こちらをお開け下さい。」

先程の男の声が、襖越しに訴える。

「申し訳ありませんが、私は貴方の“蒼月の君“ではありません。無惨の妻です。襖は開けませんので帰って下さい。」

何しに来たのか知らないが、もう二度と来るなと思いながら、雫は襖の外へ声を投げる。
「お待ちを。蒼月の君とは貴女のことです。前にちらとお見かけした貴方の月色の髪、青く美しい瞳、月の光のもと、透けるような輝きの白い肌……。月の精と見紛うような貴女の美しさを目にし、僭越ながら“蒼月の君“とお慕いしておりました。唯今拝聴した鈴を転がしたようなお声も、精霊のようにお美しい。」

陶酔した声での砂糖を吐きそうな台詞に、雫は眉間に軽く皺を寄せた。

「お褒めの言葉、恐悦至極です。私も愛する夫のいる身なので、他の女に現を抜かす貴方の奥方様を思うと可哀想でなりません。どうか奥方様の元へお帰り下さい。」

むしろこの男の妻に対しては、自分の旦那が余所に迷惑をかけないようにきちんと管理しろと思っており、可哀想などとは思っていない雫だったが、男の妻をさぞ慮っているかのような声音で言った。

「正室との仲は冷えきっています。私が愛しているのは貴女です!」

熱弁する男とは対照的に、「浮気する男は皆そう言うんだよ」と雫はすっかり冷めきっていた。

「貴方の夫婦仲など知りませんし、私には貴方を招き入れる気はありません。風邪をひかぬうちにどうぞお帰りください。」
「嫌です!私はどうしても貴女を諦めることができません。貴方の顔を見るまで、私はここを離れませぬ!」

 そのまま襖を開けるのではないかというくらい、襖をガタガタと揺らしながら、男が面倒なことを言い始めたので、雫は額にピキリと青筋を立てた。
 風邪でも引いたのか、無惨に呼吸器系の体調不良が若干見られたため、雫はここ数日、それを緩和するための魔術を寝る前の無惨にかけている。睡眠で効果が定着する魔術なので、起こすような真似は避けたかった。

「蒼月の君、どうかこちらを開けてください!少しだけでも貴女とお話したいのです。」
「 もう少し声を落としてくれませんか。隣の部屋にいる夫が起きてしまいます。」
「夫だというのに、部屋が違うのですか。私であれば貴女にそのような寂しい思いをさせませぬ。」

現に浮気して、正室に寂しい思いをさせているのはどこのどいつだと言いたかったが、これ以上煩くされるのは御免である。

「ではお招きするかどうか、貴方のお話を聞いて判断したいと思います。この静かな夜にぴったりのお話が何かあれば、聞かせて貰えますか?」
「ええ、では……」

女が興味を持つような話運びに自信があるのか、物語を語って聞かせるような、一種芝居めいた喋り方で男は襖越しに話始めた。
あとは勝手に喋らせておこうと、雫は男の話を聞き流し、無惨が起きてしまっていないかを確認すべく、隣の部屋へと繋がる襖を男に気付かれぬようそうっと開けた。


 あれだけ煩く騒いでいたのだから当たり前と言われればその通りだが、無惨は起きていて、数分前にかけた魔術は解けてしまっていた。
もっと言えば、無惨は最初から、つまり男が雫に恋の和歌を詠み始めた時から起きていた。男の気色悪い唄声も気にはなったが、その声を聞いた雫が隣の部屋で慌ただしく走り回るような足音が聞こえ、雫にしては随分珍しいことだと、無惨は雫の慌てぶりの方に驚いた。  
それからはつい、耳をそばだてるかのように、無惨は隣の部屋での会話を聞いていた。

「部屋が一緒でないのは寂しいものか。」

先程の男の言葉を気にしたかのような無惨の問いに、雫は気を抜いたようにフッと微笑んだ。

「寂しいという感覚は、よく分かりません。だから、別々の部屋ということに特段不満はありません。……でも、無惨となら、寝る前に語らったり、星読みをしたりするのも楽しいかもしれませんね。」
「では此方で眠るようにしろ。彼方の部屋で眠ることは許さぬ。」
「はい。」

 先日、溢れ出る感情のままに無惨を抱き締めたが、それからというもの、無惨からも少しずつ歩み寄ってくれているように思う。そのきっかけになったと思えば、文の男を誉めてやらんでもないと考えたところで、雫は男を放置していたことを思い出した。
そろそろ追い返してやるかと、隣の部屋に向かおうとした雫の寝巻を、無惨がくいと引いた。

「何故戻る。」
「そろそろ追い返そうかと」
「放っておけ。」
「では私の布団だけ持ってきますね。」

 こくりと首肯く無惨の顔が僅かに熱っぽさがあり、早く無惨を眠らせて治癒魔術を使おうと思いながら、雫は襖の向こうへ向かった。

投げ出していたままの縄や鎖は、歴とした魔術道具なので、誰かの目に触れないよう、片付けてから向かおうと、悠長に鎖を仕舞い、今度は縄を仕舞おうとしたところだった。
がらりと襖の開く音がして、大きな男の影が雫を覆った。

「蒼月の君……。やっと貴女に見えることができた……!」
「は?」

自分へと伸びてきた腕へ、咄嗟に縄を投げて抵抗する。

「お話をしていてもお返事がなかったので、眠られてしまったかと思いきや、まさか閨の準備をしてくださっていたとは……。縄など一体どのように使うのです?」

はあはあと、興奮したような息遣いが気持ち悪い。
縄を片付けようとしたことと、無惨の部屋に布団を運ぼうとしていたことが重なっただけで、こいつとの閨の準備をしていた訳ではない。

「女子の部屋に許可なく入るのは礼儀に反しますよ。貴方の家柄に免じて、今すぐ引き下がれば無かったことにしましょう」
「そのように照れずとも。私に身を委ねてくだされば大丈夫です。」
のし掛かるように両肩に置かれた手を払い落とし、言い返そうとしたところで、聞きなれた声が響いた。

「貴様、私の妻に何をしている?」

隣の部屋にいた無惨が、ふらふらと覚束無い足取りで入ってきた。

「ああ、貴殿が噂の……。蒼月の君、正室にはできませんが、どうか私の側室となってください。そうすればこのような離れで、夫と部屋を分かち、寂しい夜を過ごすこともありません。そのように病弱で年端もいかぬような夫よりも、私の方が貴女を満足させることができます。」

病弱を指摘され、無惨が悔しさで唇をきゅっと噛んだ。泣くのを堪えるような、傷ついたその顔を見て、雫の中でぶちっと何かが切れた。

「いい加減にしたまえ。」

胸を張り、自分以外の全てを見下すような目付きで、雫は言葉を続けた。

「これまでの手紙でも散々注意したというのに、貴様は自分の良い方にしか物事を解釈せず、恋だの愛だのといった一方的な感情を押し付けてくる。毎回のように契ろう契ろうと言い、挙げ句の果てにはこの暴挙。貴様は人の言葉を話す猿か?貴様の言う私を満足させるとは、身勝手な感情を押し付けて私を疲弊させることを言っているのかね?だいたい無惨を年端もいかぬなどと言ったが、私はどうなるのか是非伺いたいものだ。10を超えた程度の年齢にしか見えないと言われるが、貴様はそういった童女相手でないと興奮しないような趣味かね?兎に角、最初から何度も言っているが、貴様の人の話を聞かず、物事を良い方にしか解釈しない薄っぺらさは大嫌いだ。ついでに言えばその右目の下の黒子もちぎりとってやりたいくらい嫌いだし、人妻に手を出そうとする見境なさも軽蔑する。貴様のような恥さらしに自害を命じられないのが心底残念だ。黒子と股間にぶら下がっている汚いものを千切り取られたくなかったらさっさと帰りたまえ。」

 呪文の高速詠唱のように、流水のごとく雫の口から出てきた止まらぬ暴言に、文の男も無惨も呆然とした。かつて時計塔で、渾身の論文を馬鹿にされた学生でも、ここまでは扱き下ろされなかったので、雫の怒りは相当である。
 その後は、呆然としたままの男に小言を吐きつつ、誤って家のなかに入ってきた虫を外に追い出すように、ぽいっと庭先へ放り出した。

「正妻をもっと大事にしなさい。今日在るからと言って、明日も当たり前に側に在ってくれるとは限らないのだから。」

――正妻との暮らし。それは、嘗ての自分が得られなかった幸せだ。まだ呆けている彼に聞こえているが分からないが、雫は男に忠告してから部屋へと去った。


 この家に来てはじめて、無惨の隣に布団を敷いて寝る。すぐ隣に無惨がいるとなると、何だか気が落ち着かなかった。しかし、背を向けるのも嫌がっていると捉えられそうで、雫はじっと天井を眺めることにした。

「あの縄はなんだったのだ。」

寝付けないのか、無惨が口を開いた。

「和歌を聞いたことが無かったので、珍獣が現れたのかと思いまして、つい……。」
「そうか。」

その細腕でどう珍獣を捕まえるんだと思ったが、彼女なら何とかなりそうだと思い直し、寝入るまでの取るに足らぬ話でもあったので、無惨は特に掘り下げずに瞳を閉じた。

「女言葉を無理して使うのは止めろ。取り繕われているようで気分が悪い。」
「しかし……。」
「良いな」
「……分かった。嫌になったら言ってほしい。」

 怒りの感情を露にした雫からは、男言葉、それも皇族に連なるのかというような尊大なものが出ていた。あの言葉遣いの方が素の雫だろうが、そうすると自分より先にあの男が素の雫に相手をされたということで、無惨はそれが面白くなかった。
 素の彼女は女にあるまじき態度なので、きっと多くの者から嫌われるだろう。
そんな本当の彼女を受け入れ、理解しているのがきっと自分だけだ。そう思うと気分が良く、無惨は昏い歓びを胸に眠りについた。
 そうして隣からすうっと寝入る呼吸が聞こえてきたので、雫はいつものように無惨の額へ魔術を施し、自分も眠りについた。



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