二人だけの世界で

 勝手に自分の名前で恋文を出していた傍迷惑な女中に約束したとおり、雫は人騒がせな男に返事を送ってやった。

「自分の代わりに女中が今まで文を出していた。心を込めて返信していた彼女の気持ちを汲み、これからは自分ではなく彼女に文を送って欲しい。」

そういった旨を、件の女中の美点を誉めそやす美辞麗句を並べ、人妻である自分に秋波を送る非礼について、婉曲的かつ品位ある言葉で以て懇切丁寧に戒めてやった。
無礼な男の送ってきた文とは比べるまでもなく、自分の認めた文は格調高く完璧だったはずだ。無礼な男は自分との格の違いに打ち拉がれて返信などしてこないというのが雫の思い描いていたシナリオだった。
それなのに、それなのに!

「なぜ私の方にまでこんなものが……。」

男からの返事の文は、女中宛の物が1通、そして何故か雫にも1通届いてしまった。
この文の主である、人妻に手を出そうとする恥知らずの神経も頭痛の種だが、夫である無惨がいる前でこの文を渡しに来た文使いの配慮の無さも中々だ。

「私には見ての通り夫がおりますので、その文はそのままお返しします。」

前回、屑籠に処分したことを責められたことから、雫はそもそも受け取らずに文使いに突き返すことにした。
しかし文使いも受け取ろうとせず、押し問答のように手紙が二人の間を行き交う。

「こ、これからは文を送らないという意志を著している文なのかもしれませんし、奥方様も、まずはお読みになってみては、いかがでしょうか?」

吃りながらそのように述べると、男は野鼠のような素早さで逃げていった。
押し付け合いで端がくしゃりと折れた文が、床の上にぞんざいに残されてしまった。
ここにいるのが自分一人であれば、こんなものは魔術で燃やして灰にしているが、無惨の目の前でそのような真似はできない。

「読まぬのか」

床に落ちたままの文をじっと睨み付けて思案している雫へ、無惨が声をかけた。

「誰がこんな……」

誰がこんな見ずともゴミと分かるものに目を通すというのかね、と思わず前世の口調で冷笑混じりに言いそうになってしまったことに気づき、雫は慌てて続けようとした言葉を変えた。

「誰がこんな、童女のような女に文など送るというのでしょう。」

文を罵るための冷笑は繕い直しきれなかったが、それが却って僥倖となった。
 自虐的に紡がれた言葉、くしゃりと文を握る小さな手、自嘲気味の寂しい微笑み。
本人の内心はどうあれ、一見あまりにもいじらしいその姿に、他人への気遣いとは無縁の無惨も、何か励まそうという気持ちになった。
……気まぐれのように微かなものではあったが。

「私の妻を『こんな女』などと卑下するのは許さぬ。」

 皇帝が命令するような高雅さで告げられた言葉に、雫ははっと顔を上げる。黒目がちの、意志の籠った無惨の瞳が真っ直ぐに自分を見つめているのと目があった。

「そうですね。……無惨、」
「なんだ」
「愛している」

ふわりと、白く細い雫の腕が、無惨の肉の薄い背に回る。

「君の妻になれて、私は幸せだ。」

 首元に顔を埋めながら言う雫の表情は見えないが、幸せな夢へと誘うような囁きが、無惨の耳をそよ風のように擽った。

「……そうか」

大袈裟な、とは思ったが、それを口に出すような野暮をせず、無惨は雫の背に、自分の腕をそっと回した。
妻の身は柔らかくて心地の良い暖かさがあるが、思った以上に小さく華奢であったことを無惨は知った。


――きっと自分は、今世の自分が嫌いだった。
時計塔の花形、神童などと持て囃された嘗ての実力は魔術回路を破壊された時に失われ、今世においては遠く手の届かないものとなっていた。今の自分は、歪に繋ぎ直された未熟な魔術回路と、それに引き摺られるかのように、10代前半で成長を止めた肉体を持つ、中途半端な存在に過ぎない。
 鏡や水面に映る自分の姿を見る度、自分は聖杯戦争で総てを失ったあの夜に未だ呪われていて、名誉も権力もこの身も、魔術師殺しに傷つけられたものはそのまま、惨めに生まれ直してしまったのだと自覚する。
前世の記憶と中途半端な力を引き継いで生まれてしまった自分はこの世界にとって異端で、本来なら生まれるべきではなかったのかもしれない。
 そんな生まれついての「失敗作」である自分を、無惨は「卑下するな」と言ってくれた。
呪われ、この世界の除け者であるこの身も、無惨の側でならば存在を誇ることが赦される気がした。

無惨の隣で、妻として「生きたい」と思う。
数多の人間が惰性で生きる中、「生きたい」と思って生きることのできる自分は幸福だ。
彼の、無惨の妻となることができて、本当に良かった。




「して、あれはどうするのだ。」
「あれ」と無惨が顎で示す方向には、存在すら既に忘れていた例の文があった。
 捨て置けば良いものを、先程は「読まぬのか」、今度は「どうするのか」と急かしてくるあたり、無惨は読んでほしいのだろうか。
 自分は興味など全くないが、魔力反応も特にない普通の文書のようであるし、無惨が言うなら少しくらい見てやるか。本来ならこのロード・エルメロイに斯様な下らぬ物を送りつけてくるだけで誅伐に値するが、愛する夫の顔を立てて、特別に読むことだけはしてやろう。

そんな、出来の悪いレポートを端から酷評する気満々といった面持ちで、雫は文を開いた。
 ちなみに、彼女のこの、期待されると直ぐに意気揚々と応える性質は、前世の義妹から「調子に乗りやすい」と評され、今世においては無惨からも、「おだてられると、菓子に釣られて着いていく童のように単純で扱いやすくなる」と僅かに心配されているが、当の本人は知る由もなかった。

(……読むのか。)
 陶器のように白く滑らかな指で、雫が存外丁寧に文を開いていくのを眺め、無惨は残念に思った。
 読まないのか、どうするのかと執拗に聞いた無惨だが、彼としては雫に迷わず文を棄てて欲しかった。自分の目の前で、青く冷えた瞳のまま、文をそのまま屑籠に放って欲しかった。若しくはあの細く白い指で文を千切り、綿埃を飛ばすかのように風に撒き捨てるのでも良かった。
 兎に角、自分の目の前で、塵のように文を捨て去ることで、自分にだけ特別に愛を注いでいることを示して欲しかった。どうしてかも、いつからかも分からない。
しかし、こと雫との関係について、無惨は随分と貪欲になってしまっていた。
 言葉では、羽のように軽い抱擁では、最早満足できない。
 そんな無惨の真意を汲み取れず、揚げ句には目の前で、「仕方ないが読んでやろう」といった尊大な態度で文を読み始めた愚かな雫が、無惨の瞳には愛らしくも憎らしく映った。
 早くそんなつまらぬ物は読み終えてしまえ、その瞳に下らぬものを映すなと想いながら無惨が雫の顔を眺めていると、想いが通じたかのように、雫は開いて僅か数秒だというのに文を閉じ、部屋の隅にある文机へと放った。

 そしてどこから出したのか、墨やら紙やらを持ちだし、雫はさらさらと慣れた様子で筆を進めていく。
 筆を握る雫は背筋がしゃんと伸びており、美しい佇まいに目を奪われるが、それが他の男への文を書いていることによるものだということが、無惨は非常に面白くなかった。
 思わず、さっさと終わらせろと口を挟もうとしたところで、雫が筆を置き、くるりと無惨の方を向いた。

「おや、」

文を書く雫の背中を見つめていた無惨と、自然と視線が交差した。

「横になっていても良かったんですよ。暇だったでしょう。」
「書物を読もうにも、文机が埋まっていたからな。」

無惨の皮肉に、雫は困ったように眉尻を下げた。

「すみません……。今回は厳しく書きましたし、これきりです。」
「前回も厳しく言うと言っていたように記憶しているが?」

小首を傾げてみると、珍しく雫が言葉を詰まらせた。

「ああ、貴族の常識、女子への礼儀、あとは……格の違いとやらだったか?そういったものを教えてやると、私の妻は随分と張り切っていたようだったが。」

あの文にきちんと効果はあったのか、と無惨が言外に問う。今回、男からの返信があったこと事態が雫にとっては想定外だったのだろうから、効果など無かったことは聞かずとも分かる。
意地の悪い質問をしていると無惨は自覚していた。
それでも、思い通りにならなかった屈辱にぷるぷると震える雫が愉快で、唇の端がニヤニヤと吊り上がりそうになるのを堪えながら、つい問わずにはいられなかった。

「なっ、なっ……!私の文が悪かったのではない!貴族のくせに婉曲表現を理解できない上に、特殊な性癖の男が悪いのだ!私の文は完璧だった。」

前世からの、完璧主義故に些細な想定外に狼狽してしまう性質は、雫として生きる今でも健在だった。
狼狽のあまり、言葉も振る舞いも、ケイネスとして生きた頃からの素が出てしまっていることに雫は気づいていない。無惨の命令じみた言葉にも頬笑みを浮かべて従う雫が、必死に言い返したのは初めてのことだった。
見たことのない雫の取り乱し様に、からかっていた無惨もキョトンと目を瞬かせた。
その顔を見た雫は、はっと冷静さを取り戻す。

「と、とにかく、この文で完璧に片をつけます。無惨が気にすることなんて何一つありませんから、安心してください。」
「特殊なせいへきとは何だ。」
「何も気にしないで下さい、お体に障りますよ。さ、そろそろ横になりましょうか。」

文の男は、こちらの罵倒に喜んでいる節があるような、特殊な嗜好の持ち主だ。少年のあどけなさを残した面持ちの無惨にそんなことを教えたくはなかった雫は、無惨の疑問をさらりと受け流し、横になるよう促した。

「今日は調子が良いから、横にならずとも良い。」
「確かに、今日は少し顔色が良いですね。天気も良いですし、少し縁側で庭でも眺めましょうか。」
「ああ。」

このあと、日が沈んで月が昇るまで、二人は手を繋いで縁側で他愛のない話を語り合った。
それを見掛けた家人のうち、ある者は二人の姿を長年連れ添った夫婦のようだったと言い、またある者はずっと暮らしてきた兄妹のようだったと言った。ある者は、世界が二人きりで完結しているような風景だったと表現し、誰もがそれに頷いた。



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