嫉妬の花は咲かずに枯れて

 無惨の病弱は、何らかの魔術的要因によるものではないか。
 無惨の額に浮かぶ汗を拭いながら、雫はふと思い至った。無惨は体調を崩すことがよくあるが、周りの者にそれが感染うつるということはなかった。逆に、死人が出るほどの流行り病が流行しても、無惨の体調が平時とほぼ同様ということも度々あった。
 自分の仮説どおり、これが魔術的要因によるものだとしたら。誰でもない、自分にこそ治す可能性があるのではないだろうかと、嘗て、ロード・エルメロイとして魔術の研究に生きた前世を思い起こす。
 何故、前世の記憶を持ち、中途半端な規格スペックを持った状態で、何の縁も無いこの極東の地で新たに生を受けたのか。
10を過ぎて前世の記憶を取り戻した夜から、その疑問は燻り続けている。

――もしかしたら。
彼の病を治し、今度こそ愛する人と幸福になれるようにと、惨めに生を終えたケイネスとしての自分を憐れんだ神からの贈り物だったのかもしれない。
熱で薄紅に火照る無惨の額の上を、指で円を描くようになぞり、そっと呪文を呟く。
気休めでしかない、学生のやるおまじないのような魔術だが、無惨の寝息は次第に穏やかになっていった。熱の引いた白い額へ、雫はそっと口付ける。

「無惨、私がきっと力になろう。」

男にしては白く細い、ソラウに少しだけ似た繊細な手を握り、雫は自分の胸に誓った。
……絶対に治すとまでは言えない、矮小で力不足の自分に悔しさと焦燥を覚えながら。


 そう、自分は無惨の治療法の研究で忙しいのだ。
自分に関する下らぬ噂と、それに付随しての様々な周囲の視線を気にも止めず、雫は治療法の研究について考える。
正直、魔術師がいるのかも全く分からないこの時代の日本では、研究をしようにも参考となる資料がない。つまり、先人の知恵は殆ど当てにできず、日々研鑽を重ねて自分で治療法を見つけ出さなければならない。そして、このままでは無惨の寿命は20までと限られている。研究以外に割いている時間などないのだ。
そうやって、無惨と研究以外には構わないでいる間に、自分を取り巻く状況は随分と面倒なことになっていた。

――都で流行りの絵巻物の皇子が抜け出てきたかのような、身分も高く美しい男が、何故か妖憑きと名高い雫を気にかけているらしい。

 大した娯楽もないこの時代に、この手の噂は質の悪い病のように一瞬で広まった。
そして、当の本人である雫が無関心でも、周りの者たちは面白可笑しく脚色して吹聴していく。
だから、その男が雫と是非契りたいらしいだとか、結婚したいと考えているらしいという噂は、そういった脚色の結果なのだろうと、噂が耳に入っても、雫は全く気にも止めずに研究に打ち込んだ。
 その結果がこれかと、文使いの男が携えてきた、聞き覚えのない男からの文を雫は冷めた目で見つめた。
その視線のゾッとするような冷たさに耐えられなかったのか、文使いの男はそそくさと消え、雫の手には知らぬ男からの恋文が残された。

 魔術師は同業者から安易に物を貰ったりはしない。どんな呪いがかけられているか、分かったものではないからだ。前世ではあまりにも常識的なことだったため、知らない男からの手紙なんて雫はもちろん迷わずに捨てた。そもそも夫のいる女にこんなものを送ってくる時点で、ろくな人間ではない。他人の妻とあれば手を出さずにはいられない男なんて、ごみくずなのでさっさと死ねば良い。前世の私情を大いに込めて、雫はその手紙を見ることもなく屑籠に入れた。
返事など一度も返したことがないというのに、最早何かの嫌がらせなのか、件の男からの文は何回も届いた。そして雫はその度に手をつけないまま屑籠に放り込んだし、捨てた後はその文の存在自体をすっかり忘れていた。女中たちがごみをどう処分しているのか、前世も今世も貴族の雫が気にかける訳もなかった。
――だから。
噂となっている恋文が、破られも燃やされもせずに屑籠に入っていれば、好奇心で屑籠から取り出し、封を開けて読んでしまう女中もいるかもしれない。そんな可能性に、雫が気づける訳もなかった。

「夫のいる身でありながら、妖憑きの女は熱心に恋文を返しているらしい。」

どこぞの男が自分に懸想しているらしいという根も葉もない噂が鎮火した次には、生えた根で自分勝手に歩きだしたかのような噂が屋敷の者たちを騒がせた。
 前回の噂への反応とは打って変わり、雫は不快感を露にした。前回と違い、今回の噂は、謂れ無き謗りのせいで、自分の尊厳を大いに損なうものである。事実無根とはいえ、このような噂が耳に入れば、愛する無惨から蔑みの目を向けられてしまうかもしれない。間男のせいで婚約者との間に軋轢が生じ、悲惨な末路を辿った前世を持つ雫にとっては切実な心配だ。
絶対に、この噂を流した犯人は厳しく誅伐しよう。そう誓い、無惨の部屋へと続く道中、件の噂話に花を咲かせていた女中たちを捕まえ、半ば八つ当たり交じりで少し長めの尋問をした。
 自分が恋文を返した事実は一切無いので、相手にされずに逆上した男が、自分を貶めるためにこのような噂を吹聴したのだろう。だから、噂の元となっている男がどこの誰なのかを確定させて、然るべき処分をしてこの件は終了だ。
女中たちを捕まえ、尋問する前の雫はそのように考えていた。
 しかし、尋問を進めるうち、明らかに動揺の仕方が他の2人とは違う女がおり、その女に質問を加えたことで、雫は噂の根が思わぬところから生えていたことを知った。

「屑籠にそのまま捨てられていた文を、片付ける際に開いてしまったのがきっかけだった。好奇心で開いた文には、気品と趣に溢れる情熱的な言葉で愛が綴られており、文の主に恋をしてしまった。そのまま捨ててしまえば、この手紙の続きを見ることは一生叶わないだろう。それではこの燃えるような想いは二度と体験できない。どうにかして、また男からの手紙を読みたい。そうだ、ならば自分が雫の振りをして、返事を書けば良いのだ。そうすれば、自分の方に振り向かせ、彼と情熱的に契ることも夢ではないかもしれない。そう思って既に何回も自分が文を返している。」

まとまりのない女の言葉を頭の中でなるべく簡潔にまとめ、雫は絶句した。
すっかり恋に溺れているようで、勝手に他人宛の文を読んだこと、自分の名を騙って返信したことへの謝罪が一切ない。恋狂っている目の前の女に、もう何を言っても届かないかもしれないが、彼女も良い大人なのだから、責任ある大人として、今回の勝手な行動をきちんと自分に詫びるべきだ。
「貴方は私宛ての手紙を勝手に読み、揚げ句、私の名を騙って男に手紙を送りました。そのことを謝罪する気持ちはないのですか?」
至極当然のことを言ったつもりだが、女中は雫をキッと睨み返した。
「何よ!興味がないならそう返せば良いじゃない!心を込めて書いた文を見もしないで捨てた、心ない貴方に言われたくない!あなたが文を捨てさえしなければ、私だって読んだりしなかった!」
ああ、これは不味いな。
他人の日記が目の前に置かれていたら読みたくなるという気持ちは、大方の人間が共感できるもので、手紙も然りである。
もし彼女でなければ、自分が読んでいたかもしれない。何かが1つでも違っていたら、今こうなっていたのは自分かもしれない。
 そんな内心なのか、他の女中たちが彼女に同情的なことは、雫にも見てとれた。これではとてもこの女を謝罪させる空気ではない。ましてや誅伐なんて不可能だ。
「何をしている。先程から喧しいぞ。」
低い声に振り向くと、いつから居たのか、壁に身を預けた無惨が立っていた。
「ごめんなさい、騒いでしまって……」
「何をしているのかと聞いている。」

誤魔化すことを許さぬ瞳で、無惨が雫たちを問い詰める。
 ここで真実をありのまま話し、女中たちを悪く言うのは簡単だが、そうすれば女中たちから反感を買い、何某かの嫌がらせを受けるかもしれない。魔術師である自分なら如何様にでも対応できるが、病弱の無惨を狙われてはどこまで守れるか分からない。

「……今回は、私が文を返しましょう。」
「何?」
「都で評判だという男から文を頂きました。でも、私はそういったものを頂いたことがなかったので、彼女に代筆をお願いしていたのです。」

ね?と先程まで敵対心を剥き出しにしていた問題の女中に確認する。
女中が訳も分からないまま頷いたのを視認し、雫は話を続けた。

「噂になるほどの色男がどんな文を書くのか興味があって始めました。でも彼女に言われて、私のやってきたことが不誠実だったと気づかされました。……今日、私が自ら文を書き、今まで文を書いていたのが彼女だったことを打ち明け、これからは彼女宛てに送ってほしいことを書いてみようと思います。」

いくつか嘘を交えたが、これが最良の答えのはずだ。この程度で手打ちにしてやるというのに、未だ納得しない顔の女中に向けて、雫は重ねてこう言った。

「貴女は普段から真面目に仕事をしてくれていますし、そういった美点をきちんと書いておこうと思います。そうすれば、きっと相手の殿方も、貴女へと想いを向けてくれるでしょう。」

ここで引き下がれば、相手の気がお前に向くような書きぶりの文にしてやるという意味で雫は言っている。この意味が通じたのかは定かでないが、女中は納得したようだった。他の女中たちも焦りや戸惑いが顔から消えつつある。

「さて、夫の部屋の前で随分と騒がしくしてしまいました。そろそろ仕事に戻りましょうか。今日も皆さんの働きぶりに期待しています。」

 そう言われてしまうと、屯していた女中たちはその場を離れ、仕事をする他なかった。

「無惨、今日は風が強いから、このまま外にいては風邪を引いてしまいます。戻りましょう。」
手を引いて自分の前を歩こうとする雫の背に、無惨は声をかけた。
「何故嘘をついた。」
「……嘘?」
何のことかさっぱり思い当たらないとでもいうかのような雫に、無惨は珍しく大きめの溜め息をついた。
「あれ程騒いでいて聞こえないとでも思ったか?」
「ああ、成る程。」

隙間風の酷さに多少壁を補強する魔術をかけたが、防音については考えたことすらなかった。今後の参考にしようと、雫は勝手に改装することを決めた。

「何を一人で納得している。私の質問に答えろ。」
「……彼女たちにはこれからも、これまで通り仕事をして欲しいので。穏便に済ませるのが一番です。」

雫は「無惨のために」なんて言うのは押し付けがましいように思ったので、無惨へ逆恨みが向かないためにとった行動であることには言及しなかった。そのために、無惨は尤もらしいことを言っているが、真意を隠しているような違和感を雫に感じた。違和感が何かをはっきりさせるために無惨が口を開こうとしたのと、雫が言葉を続けたのは同時だった。

「それに、夫のいる女に文を送ってきた非常識な男に、この際だから厳しく言っておかねばと思いまして。」

妙に生き生きとした様子なのに、目が全く笑っていない妻は、きっとろくでもないことを考えているのだろうと無惨は察した。

「私が直々に、貴族の常識、女子に対する礼儀というものを教えてあげましょう。完璧な文で、格の違いを思い知らせてやります。」

 お前の家よりも相手の方が格上らしいではないかとか、数々の浮名を流しているらしいから、女子への礼儀もそれなりにあるだろうとか、文を書いた経験がないような口振りだったのにその自信は何処から来るのかとか、無惨は疑問に思うところがいくつもあったが、雫が全く別の話題を持ち出したため、突っ込む機会は逃してしまった。

「ところで、今日の夕餉は何が食べたいですか?」
「何でも良い。好きにしろ。」
「かえって難しいな……」

呟いた言葉は、素が出たのか敬語が取れていた。そして、こめかみを押さえ、分かりやすく悩んでいたかと思うと、今度は選択肢を幾つかに絞って献立の希望を聞いてくる。


 終わってみれば、実に下らない噂だった。
どうやらここ数日、自分は至極どうでも良いことで頭を悩ませていたようだと、無惨はこのところ屋敷を巡っていた噂の真相とその決着に目を細めた。

都で評判の色男からの文も、彼女の中では夕餉以下の話題だったらしい。

 その事実に薄暗い喜びを覚えながら、無惨はくるくると変わる雫の表情にうっそりと笑った。




――この日雫が件の男に発出した手紙が、また新たな騒動の引き金となることを、この時はまだ誰も知らなかった。



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