「本当に何なのだ、あの娘は……!」

今まで感じたことのない気持ち。それを持て余し、無惨は壁に枕を投げつけた。横になっていることが多い体は、それだけの動きでもゼエゼエと息を乱して苦しくなる。
布団の上に蹲り、息を整えながら、無惨は先程のことを思い返した。

自分の妻、雫という少女。
所作が丁寧なので、落ち着いた娘なのだと思っていたら、春嵐のように駆け抜けていった。
「そらう」と呟いた時は冬の湖面のように静謐な瞳で、自分越しに遠くの何かを見つめているような、少女に似つかわしくない幽玄さを感じた。かと思えば帰れと言われて頬を染めたり、何故か自分ではなく女中の名や顔について矢継ぎ早に質問してきたりと、彼女の振る舞いは理解できないことばかりだった。
まさかあのような娘が自分の妻となったとは。無惨は何故こんなことになったのだったかと、少し前の記憶を思い返した。

確かそうだ、一月ほど前のことだった。

「お前のために妻をとることにした。文を交わした体裁はとってあり、病弱で夜這いに行けぬお前の代わりとして、健康な男を妻となる女の元へ行かせてある。」

家同士を結ぶための執り行いだが自分に関わることだから一応と、父が珍しく遣いを寄越して連絡してきた内容は実に下らぬものだった。世の中の男どもは、この年頃になると文を交わし、和歌を詠み、契ることで女と一緒になるらしい。会ったこともないどこぞの女相手によくもそこまで熱心になれるものだと、溜め息が出た。
世間が「恋」というものにかける情熱が、無惨にはさっぱり分からない。
だから、これから先、会うこともないだろう女との婚姻など、無惨にとってはどうでも良いことだった。
その手の話は女中の方が好きなようで、自身が望まずとも自然と相手の女の噂は自分の耳に入ってきた。

「無惨様のお相手、妖憑きと有名らしいわよ。」
「なんでも人とは思えぬ姿をしているとか。」
「ああ、恐ろしい、恐ろしい。無惨様もそのような嫁御しか貰えないとは、憐れな……。」

嘘をつくな。憐れだと思うならもっと普段から私のために誠心誠意を尽くして働け。庭先まで大声を出す気力もなく、屈辱に震える手で布団を強く握りしめた。
口先だけの憐れみは何度も聞いた。だが、それを口にする者は誰一人自分を憐れんでなどいない。自分の下にいるものを「可哀想に」と上から言って、「自分はこいつよりも幸せだ」と心の中でほくそ笑んでいるのだ。その証拠に、自分を可哀想だという人間は、いつも唇の端がうっすらとつり上がっている。女は特にそうだ。どうせ、そいつもこの女どもと同じく自分を馬鹿にしているに違いない。
……ならば、こちらも嘲笑(わら)ってやろうではないか。

「可哀想に、」

――顔も知らぬ私の嫁御殿。
私が相手でなければ、醜女であってもここまで面白可笑しく噂を流されることもなかったろうに。

 そう、一月ほど前はそのように嘲笑してやったのに。
皮肉を言っても、帰れと言っても、澄んだ青の瞳が影を落とすことはなく、真っ直ぐに自分を映した。
自分に話しかけるときに遣う言葉のひとつひとつに気品があって洗練されており、他人と長く話していて初めて不快ではなく思った。
今まで自分の周りにいた誰とも違う、お前は一体どういう女なのだろう。
 珍しく他人に興味が出てきて、相手をしてやっても良いと思ったところで、雫は用は済んだとばかりに颯爽と部屋を出ていってしまった。
やたらと女中のことを聞いてきたが、自分のところの女中にでも引き抜くつもりだろうか。噂話ばかりでろくに働かぬ女ばかりだというのに、馬鹿なことをする。

「お前も所詮は他の者と同じなのか。」

自分は何を期待していたのか。横になり、黴臭い埃に咳き込みながら、先程自分が抱きかけた得体の知れない感情を忘れ去ろうとする。
そうしていると、複数人がこちらに向かっていることが分かる、床の軋む音がした。

「無惨様、失礼いたします。」

てっきり帰ったものだと思っていた、雫の声が襖越しに自分を呼ぶ。何故戻ってきたのかと考えているうちに、入室の許可を待つことなく襖が開いた。本当に勝手な女だ。

「何の用だ。」

彼女の後ろに覚えのある顔の女中どもがいる。やっぱり彼女は自分のところの女中を奪いに来たのだ。
きっと端からそのつもりで、自分に用なんてこれっぽっちもなかったのだ。

「無惨様、今からこの部屋を掃除しようと思います。」
「……は?」
「せっかく伺ったので、美しさが都でも噂になっているこちらの庭を楽しんでから帰りたいと思いまして。」

ああ、父は客人を連れ込んでは庭を自慢しているようだから、そのように理由をつければ突然泊まると言われても悪い気はしなかっただろう。小娘のくせに小賢しい奴だ。

「それが何故ここの掃除になる。」
「夫婦ですから、私はこの部屋に泊まるのが道理かと思いますが、こちらは私の屋敷とは少し掃除の仕方が異なるようなので……。」

ここで、この女は態とらしい音の咳をした。「失礼。埃が喉に……」と、やけに埃のところを強調していてこの言葉も態とらしい。

「ルール……決まりが家毎で違うのは当たり前でしょうから、文句を言っても仕方がありませんし、私のところの女中に掃除をさせると言ったのですが、彼女たちが是非にと申し出て下さったので、掃除は彼女らにお任せしようと思うのです。」

ねえ?と同意を求めるように彼女が後ろに控える者たちに声をかけると、見覚えのある顔の女中たちが頭を垂れた。

「せっ、誠心誠意、お掃除いたします。」
「塵ひとつも残しません。」

強ばった声、上擦った声でそれぞれ宣言し、水の入った桶や雑巾を持ち、普段は見慣れない素早さで、離れのもう1つある方の部屋を掃除しに行った。

「……貴様何をした。」
「少しばかりご挨拶を。大したことは、何も。」

そう言って静かに微笑む女……自分の妻は、まだ幼い少女なのに、静謐な美しさがあった。
美しいと感じてしまったこと、目を奪われてしまったことが、たった一瞬のことでも悔しかった。
――どうしたら、この女を振り向かせることができるだろう。

 こうして、いつか絶対に出し抜いてやろう、自分の方が妻を溺れさせてやろうという、一種の対抗心から無惨の恋は始まった。



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