さて、帰れと言われたように聞こえたが、遠慮しよう。
雫は無惨の言葉を聞かなかったことにした。

「帰る予定でしたが、天気が芳しくないようなので、泊まっていこうと思います。」
「……晴れているようだが?」

外はここ一番の青空と言っても良いほど晴れやかだ。現に雫は女中たちと、「こんなに天気が良いのは何だか縁起が良い」などと道中話しながら来た。
「気のせいでは?私は風が冷たくなってきたように感じます。」
この天気の良さを気のせいの一言で終わらせるのはかなりの力技だが、後者については女中たちも内心で同意した。
風の冷たさは天気の良し悪しが原因ではなく、この部屋自体の造りが悪いせいだ。ケイネスだった頃から美術や工芸を特技としており、物の構造を理解するのが早い雫はそのことに既に気がついていた。
日が当たりにくく、風向きも悪いので、地面からの湿っぽく冷たい空気が床から足元を冷やす。鯉の泳ぐ池の上をそよいできた冷たい風が、雑な壁面の隙間から入ってきては身を冷やす。夏の避暑には良いが、普段からこれでは体を冷やしてしまう。
訪問着(※自分の家の方が格上であることを示すために作った、素材もデザインも一級品のもの)を着込んだ雫でも肌寒いのだから、薄い布団と白く薄い寝間着だけの無惨がどうかなんて分かりきったことである。

「ごほっ……!……失礼。」

風で舞い上がった埃が喉に入り、思わず雫は咳き込んだ。座っていても喉に入ってくる埃なら、横になっていることの多い無惨はきっともっと酷い。
これまでの無惨の暮らしがどうであったかを想像して、雫の胸にはふつふつと沸き上がる何かがあった。

昼でも薄暗い、簡素な造りの離れに大した世話もせずに埃まみれで放置とは。
よくも、よくも自分の夫をここまで蔑ろにしてくれたものだ。
――ああ、そういえば。
妻として、大事なことを忘れていた。

「気のせいではない。外は晴天だ。風が冷たいというお前こそ気のせいでは?とにかく私はお前に用などない。さっさと帰れ。」

無惨の喋り方。落ち着いているのに鋭くて激烈な言葉を遣うところもソラウに似ている。最初よりも口数の多くなった彼と是非ともこのまま沢山語らいたいが、そのためにもまず大事な用事を果たさねばと、雫は口を開いた。

「――それはそうと、こちらの女中はどこにおいでに?」

人の話を聞け。帰る様子を見せるどころか、強制的に全く違う話へと転換しようする雫をそう嗜めようとした無惨だったが、そんな暇を全く与えずに雫は言葉を続けた。

――夫のあなたが大変お世話になっているようだから、是非簡単にご挨拶申し上げたいのですが。

そう言った雫は、視界に入った大きめの埃をつまみ上げ、ぐしゃりと握り潰しながら、にっこりと少女らしい笑みを浮かべた。
このとき雫の女中として侍っていた者の一人は後に仲間たちにこう語る。

「初めて見る、陽光の精霊かと錯覚させられそうなほど、たいそう煌めきのある晴れやかな笑顔だったが、……かえってそれが不気味だった。」


掃除一つも満足にできない愚かな女中に必ずや誅伐……いや、丁寧なご挨拶をせねばと、雫はご挨拶の相手を炙り出す……きちんと覚えて失礼のないようにするために、無惨から根気強く情報を聞き出した。

 無惨と女中たちはビジネスライクな付き合いに徹していたようで、無惨は自分を世話する女中たちの顔や名前を一切覚えていないようだった。複数いるのであれば、一人二人は怠慢でクビにしても良いだろうに、それをしない我が夫は実に寛大だ。心の広さまでソラウに似ている、と雫は1人自慢気に頷いた。

「成る程。では失礼いたします。」

――聞くべきことは聞いた。優しすぎる夫の代わりに、さっそくこのロード・エルメロイが妻として直々にご挨拶に行かねば。

静かな激情とともに雫は立ちあがり、あっという間に部屋を退出してしまった。何が何やら分からないまま、雫の女中たちは一人二人と彼女を追って部屋を出ていく。
埃っぽい暗がりの中に、無惨ひとりだけがぽつんと残された。



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