肩を回すとゴキ、という嫌な音がした。ほとんど顔を上げることなくデスクに齧り付いていたせいで、筋肉が凝り固まっていたのだと自覚する。ついでに反対の肩もぐるぐると回し、パソコンの画面に視線を戻す。メールの送信完了を示すメッセージに、わたしは細く長く安堵の息を吐いた。

「……よし、やっとお休みだ」

 誰もいない事務室で独り言ちる。金曜日、デジタル時計の表示は定時を三時間程超えた時刻だった。まぁ、仕方がない。忙しい時期なのだから。隣の席の伊地知さんも帰宅の途についたのはほんの一時間前で、わたしへの気遣いの言葉を残して事務室を出て行った。彼の「終わりました」という声は喜色が滲んでいて、わたしも自分の事のように嬉しかった。残念ながら、わたしの業務終了宣言を聞き届けてくれる人はいないけれど、仕事がのろい自分への戒めとして甘受する他ない。週明けに伊地知さんと労い合う朝を楽しみにしておこうと密かに心に決め、わたしは席を立った。

「お疲れ様です」

 突然背中にかけられた低い声に、わたしは「ぎゃ!?」と驚愕の悲鳴を上げた。振り返ると、事務室の入口で引き戸に上半身を凭れて腕を組む七海さんがいた。

「え!?お、お疲れ様です。今日は現場から直帰だったんじゃ……」
「そのつもりでしたが、高専の近くに用がありまして。事務室の明かりがついていたので、気になって寄ってみました」

 言いながら、つかつかと靴音を鳴らしながら七海さんがこちらに近づいてくる。そうだったんですか、といらえをすると、七海さんはわたしの二つ隣の席を掴んで引き、そのまま腰を下ろした。その顔には疲労が浮かんでいる。わたしはどうにかして彼の疲労回復の手助けをできないかと、うろうろと視線を彷徨わせるが、雑然としたいつもの事務室の風景があるばかりだ。

「何してるんですか」
「あ、いえ……よかったら、コーヒーでも入れましょうか」

 彼は座ってしまったのだからそれも良いだろうと思い口に出してみたが、大丈夫ですと両断された。間に落ちる静寂に、わたしはどうしたものかと、ひとまず背にあった椅子に身体を収め直した。

「あなたも残業でお疲れでしょう、勝手にここに来た私に気遣いは無用ですよ」

 七海さんはじっとわたしの顔を見て、そんな言葉で気遣ってくれた。わたしは少し驚いて、淡々としながらも常に優しい七海さんの思いやりを感じて、微笑んで答えた。

「まだ残業してる人がいるって、心配して来てくれたんですよね。わたしはその気持ちが嬉しいです」

 七海さんは表情を変えない。たぶん、照れている。彼の気遣いはおそらくわたし以外の人にも平等に注がれる。だけど、わたしは特別に嬉しい。相手が七海さんだから。

「……夕食は摂りましたか。まだなら、よかったら一緒に」
「えっ、いいんですか!?嬉しいです、ぜひ!」

 このお誘いが気まぐれなのか、それとも厚意なのかわたしは知らない。だけど、今日ここで七海さんに出会えたのがわたしで、この上なく幸運だと思った。
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