補助監督さんから胡瓜をもらった。
 浅漬けを作ろうと思い自室で輪切りにしていたら、うっかりして左手の親指の先を切ってしまった。真希さんに借りたミニ包丁の切れ味の良さに感心している暇もない程、あっという間に溢れた血が滴り落ちてまな板を汚した。
 高専学生寮の個人の居室には、水周りの設備がない。わたしは急いで包丁とまな板、不細工な切り口を晒す胡瓜を引っ掴んで部屋の扉を開けた。とにかくこの惨状をどうにかしようと焦っていたせいで、布巾すら持たずに。

「おい、何してんだ」

 直後、遠くから掛けられた声に顔を上げると、伏黒くんが男子フロアと女子フロアの境目あたりに立っていた。
 木製の床は音をよく伝えるので、たまたま廊下に出た時にバタバタと足音を立てて走っていくわたしに気付いたようだ。
 わたしは「なんでもない! うるさくしてごめん!」と言いながら、不格好な胡瓜を掴んだままの右手を振って、洗面台の並ぶ共用スペースに消えた。
 しかし彼の疑念は払拭には至らず、「はぁ?」と不可解そうな声を漏らしながらこちらへやって来た。洗面台の入口からひょっこりと顔を出してわたしの様子を伺うと、察したように呆れた声を出した。

「おまえ……何がなんでもない、だ」
「ぎゃ!? 伏黒くん、ここ女子フロア!」
「言ってる場合か。おい、なんで止血しないんだよ」

 ザーと音を立てて流れる冷水に、包丁とまな板と胡瓜をまとめて握りしめて両手ごと洗っているがさつな女の姿。即ちわたしに、伏黒くんは容赦なく“理解不能”という感じの視線を向けた。
 彼はわたしの隣までやって来ると、躊躇なく蛇口を捻って水を止めた。直後、親指の傷口から鮮血が流れ出したので、わたしはまたぎゃあと悲鳴を上げた。傷口に心臓があるかのように、痛みとともにどくどくと脈打つ。
 不機嫌そうな伏黒くんが、じろりと至近距離でわたしの目を見ている。わたしは彼の質問に答えるべく口を開いた。

「あ、慌ててこれだけ持ってきちゃって……ここに来てから拭くものがないことに気付いたの」

 伏黒くんは溜め息をつくと、待ってろと言い残して去った。
 そして、一分もしないうちに布巾とタオルを持って現れた。

「とりあえずこれで傷口押さえろ。押さえたまま手ぇ拭け」

 真っ白な布巾を躊躇なくわたしの左手に握らせるので、言われるがまま患部に押し当てた。伏黒くんはそれを確認してか、フェイスタオルを渡された。伏黒くんが稽古の時に首にかけているのを見たことがある。不意に心臓がぎくりと跳ねた。

「ごめんね……洗って返す……」
「そんなの、今気にしなくていい」

 まな板と包丁の水気をもう一枚の布巾で軽く拭き取る伏黒くんの手際の良さに見惚れると同時に、距離の近さにどぎまぎしてしまう。

「で、手当てできるのか」
「部屋に絆創膏がないから、家入さんのところに行くよ」
「今日、家入さん休みだぞ。さっき湿布貰いに行ったら、医務室閉まってた」
「そうなんだ……」

 顔と肩を同時に落とすわたしに、伏黒くんは迷いのない口振りで「来い」と言った。
 意味がわからず顔を上げて、背の高い伏黒くんの顔を見つめ返す。駄目押しのように「手当てしてやるから、俺の部屋来い」と言った。わたしの体温が急速に上がる。

「えっ!? あ、いや、そこまで迷惑かけるわけには」
「別に迷惑じゃない」
「大丈夫だよ! けど絆創膏だけ欲しいな……」
「そんなガタガタに胡瓜切る奴が、絆創膏をまっすぐ貼れるとは思えない」
「失礼! 絆創膏くらい貼れるから!」

 終わりの見えない口論の末、「うるさい」と言い捨てる伏黒くんに腕を掴まれてしまった。力が強くて、腕を引いてもどうにもならなかった。なすすべもなく引き摺られるわたしが最後に見た、洗面台に置き去りの胡瓜が哀れだった。まな板と包丁もセットだから、見つけた人には色々察してもらいたい。
 伏黒くんは自室の扉を開けると、ベッドの前でわたしの腕を解放した。そして椅子をベッドに向かい合うように置く。
 突っ立ったままのわたしに「そこ座れ」と言って指さしたのはベッドの方だった。

「え!? ここ座っ……良くないと思うよ!?」
「椅子一つしかないんだから我慢しろ」
「うーん、そういう意味じゃないかな! わたしが椅子じゃ駄目!?」
「ベッド低いんだから手当てしづらいだろ」

 伏黒くんの表情が不機嫌に歪むのが怖くて、攻防の末、わたしはベッドに浅く腰かけた。
 伏黒くんの眉間のしわはそれで消えて、彼は無言でわたしに背を向けると、箪笥の上の救急箱から絆創膏の箱を取り出し見定めていた。防水性の、少し高価なやつだ。指先用と書かれた箱を持って、伏黒くんは椅子に腰を落とした。

「痛そうだな」

 わたしが患部に押し当てていた布巾を外すと、みるみるうちに血が溢れて再度赤い玉を作る。怪我をしてほんの数分、傷が塞がるはずもない。
 伏黒くんはボックスティッシュをわたしの隣にぽんと置いた。わたしはありがとうと呟いて、数枚重ねにしたちり紙を手に取る。

「そんなに痛くないよ。伏黒くんのほうが、いつも痛そうな怪我してる」
「どっちが上とかじゃないし、おまえは痛いの嫌だろ」

 伏黒くんは患部を目視しながら言う。痛いのは嫌だけど、わたしの怪我はドジで伏黒くんの怪我は任務で受ける傷だ。伏黒くんの気遣いをもらうにはもったいなさすぎる。
 「その血拭いたらすぐ貼るぞ」と言うと、伏黒くんはわたしの手を自らの左手に載せ、右手には剥離紙を半分剥がした状態の絆創膏を摘んでいる。わたしはどきどきしながら一つ頷いて見せた。
 せーの、と無駄に気合いを入れて血を拭き取った直後、伏黒くんはとても上手に絆創膏を貼ってくれた。
 軽く巻き付けると、「あとは自分でやってくれ」と言ってハンズアップする。わたしはありがとうと言ってから手を引いた。
 端まできちんと巻き付けると、痛みは幾分か引いた。それよりも、指先が異常に熱いのが気がかりだった。

「無理やりだったな。悪い」
「えっ、伏黒くん何も悪くないよ!? むしろ、全部ありがとう」
「いや……無理やり腕引っ張って連れてきて、無理やりそこ座らせた」

 伏黒くんは、何故か本当に申し訳なさそうだった。
 わたしが伏黒くんの部屋の前でぎしりと身体を固くしたことに、聡い彼は気付いていたのかもしれない。
 わたしは同じ同期の女子でも、野薔薇ちゃんとは違う。何が違うって、伏黒くんへの思いが違う。
 虎杖くんと野薔薇ちゃんと一緒に伏黒くんの部屋に入って、朝までみんなで映画を観て過ごしたことがある。
 その時は伏黒くんのベッドにみんなで乗っかって、彼の部屋を自由に闊歩しても大して何も感じなかったけど、それは彼にとって、わたしが同期三人の中の一人に過ぎなかったからだ。今は違う。伏黒くんの部屋にいるのは、彼とわたしの二人きりだ。

 伏黒くんの部屋を後にして、わたしは自室へ続く廊下を歩き始めた。
 三歩目で足を止めて、伏黒くんを振り返った。彼はまだ部屋の前に立って、わたしを見送ってくれていた。

「ふっ、伏黒くん! 二人きりで部屋にいるのはまだしも、ベッドに座らせちゃ駄目だと思う!」
「は?」
「わたしみたいな脳内お花畑女が勘違いするよ!」

 一息に言い切った後、わたしは急に恥ずかしくなって顔を伏せた。
 肩で呼吸をする姿を伏黒くんに見られている。恥の上塗りだ。
 伏黒くんは何も言ってくれなかった。わたしはおそるおそる顔を上げた。伏黒くんは、不思議な顔をしていた。不機嫌そうだけど、少し嬉しそうにも見える、複雑な表情だった。

「……。自由に勘違いしてろ、鈍感」

 伏黒くんはそう言うと、すぐに部屋に引っ込んでしまった。すっかり疼きの止まったはずの傷口が、またどくどくと脈を打ち始めた。わたしはそんな感覚がしていた。
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