やってしまった。鮮血が音を立ててボタボタと地面に垂れ落ちる。
 わたしは素早い動作で、腰に巻いていた応急処置用のポーチからガーゼを取り出し、強い力で患部――左手の中央あたり――に押し当てた。腕に雨垂れのように薄く伸びる血は、早くも固まり始めている。

「おい」

 次の瞬間、その声と同時にわたしの身体に影が被さる。わたしは反射的に両腕を身体の後ろに回して、顔を上げた。正面に立っていたのは幼馴染の五条悟だった。

「悟様。どうかなさいましたか?」
「…………」

 わたしはにこやかに微笑んだ後、雛形通りの挨拶をする。
 悟はわたしの左肩あたりを引っ掴むと、そのまま歩き始めた。ぐいぐいと遠慮のない力で引っ張られ、わたしは何も言えずに足を動かす他なかった。

「お待ちください。悟様、その者の手当ては私共が」
「どうせ報告書を書かせるのが先だろ? 子どもが怪我するの見てたのに、すぐ助けなかったアンタらなんか信用できるか」

 壮年の和服の使用人がわたしたちの前に立ち塞がる。言い負かされたその女性は一瞬言葉に詰まり、悟は何もなかったように歩みを再開する。すぐに次の言葉が出てこない様子を見るに、おそらくまだ五条家に仕えて日の浅い人だ。
 悟は濡縁をずかずかと上り正面の和室の襖に手をかけながら、思い出したように先刻の使用人を振り返る。

「悪いと思ってるなら、そこに垂れたコイツの血、綺麗にしておいて。あと、人払い。十五分でいい」

 絵に描いたようなクソガキだな、と心の中で唱えるも、口には出さない。この場では誰に聞かれるかもわからない。
 無人の襖の内側に揃って入室すると、悟は苛立ちをあらわにした。

「今日は何? 剃刀入りの手紙? 毒入りの菓子?」
「時限式の暗器ですね。ピアノ線がついてます」

 ご丁寧なことに持ち手を取り除いた両刃を慎重に摘み上げ、悟の眼前にぶら下げて見せる。悟は舌打ちを漏らす。
 わたしは部屋の端から手拭いを持ち出し、血で汚れないように畳の上に広げると、腰のポーチを取り外した。

「悟様に怪我がなくてよかった」
「気持ち悪ィ。二人の時はその呼び方やめろって言ってる」
「ごめん、そうだった」

 無感情な声音でわたしは淡々と怪我の処置を続けていく。
 その手元を、足を投げ出して座る悟は、唯一無二の美しい瞳で見下ろしていた。

 御三家が一つ、五条家の次期当主である五条悟。
 わたしは母が五条家の使用人だった縁で、悟とは幼い頃から顔を合わせていた。十二になった今はクソガキ完成といった仕上がりだが、昔の彼は周囲からそれはそれは丁重に扱われていた。幼児教育。つまり、五条家にとって彼が有益で従順な人物になるよう、かつ、稀代の大物呪術師としての将来を五体満足で迎えられるよう、この広大な箱の中で大切に守られてきた。
 『そこそこ優秀な同世代の使用人兼友人』であるわたしは、人権のない王子様たる彼の隣で、共に育った。
 包帯ですっかり覆い隠された、先刻こさえた傷跡も、悟の特殊な目では見えてしまう。わたしの手を依然として見下ろしながら、悟は重く息を吐いた。

「他の誰を守れなくても、おまえのことは守るから」
「そんなのいい。悟はここを出たら、きっともっと素敵な人と出会うよ。たくさん友達ができる、絶対に。だから三年後、高専に行ってね。強くなれば、自由にやりたいことができるよ」

 悟の美しい目が、言葉を紡ぐわたしの目を見つめている。
 わたしは中学に上がったら五条家を出て、非術師の学校に通う。お役御免だ。それを伝えた時の悟の驚いた表情は、きっと忘れられないだろう。

 彼は高専に通うまでの三年間をどう過ごすだろうか。
 悟は、外の世界のことは、わたしがいないとわからないと言った。だけどわたしだって、悟が近くにいない世界なんて経験したことがないから一切知らない。
 生まれた時から暗殺の危険に晒され続け、箱庭の中から出たことがない彼は、ろくに世間の娯楽を知らない世間知らずに育ってしまった。タイタニックって何?と聞かれた時はさすがに仰天した。

「知らないの!? 世界で一番観られた映画だよ!?」

 はぁ、となんの感慨もないリアクションをされ、わたしは肩を落とした。そして彼の生きる世界を憎んだ。自由に映画を観たり、街に出かけたり、友達と遊んだり、そういう普通のことを、悟にも早く『楽しい』と知ってほしかった。
 まだ現代最強と言われる前の彼を映画館に連れ出すことは、一介の使用人の娘であるわたしには許されなかった。だからわたしは日々淡々と、彼を狙う呪詛師や暗殺を企てる悪人の仕掛けた罠を地道に見つけては報告書を上げ続けていた。

 ある日、狭い和室にノートパソコンを置いて、タイタニックを一緒に観た。
 悟は「やばい。超面白かった」とご満悦だった。
 ほらね、楽しいことは外にたくさんある。わたしの主張が証明されたようで嬉しかった。画面の中のフィクションだとしても、それを具現化するのはこの世界に息づく見知らぬ誰かだ。悟はきっと、そういう人を大勢守ることができるすごい人になるのだ。

「元気でね、悟。きっとまた会えるよ」

 五条家を一人で旅立つ日、使用人として残る母の隣で、わたしは悟にさよならの電話をかけた。
 呪言を使う呪詛師もいることから、そんな些細な電話連絡すら、まだ十二歳の悟に直通は不可能だった。側近の人に取り次いで貰い、受話器を手にした悟は言った。

「なぁ、俺は強くなるよ。映画もゲーセンも、誰にも守られなくても自由に行けるくらい強くなる。おまえと一緒にタイタニック号を見に行きたいから、その時に迎えに行く」

 頼もしい声が耳に優しく染み込む。
 わたしは携帯電話を手にしたまま声を震わせて答えた。タイタニック号は海の底だよ、映画で観たでしょう?わたしの言葉に、悟は笑って答えた。

「海の底だって、一緒に行けるようになるって話」

 わたしは嬉しくて笑いながら泣いた。
 もし本当にその時にお迎えに来てくれたら、その辺のカフェにでも誘ってみよう。海の底じゃなくてもいい、悟がいればそれでいい。
 わたしも強くなるよ。悟がいなくて寂しくても頑張るよ。そう呟いた後、悟が何か答える前にわたしは電話を切った。
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