「……、在宅勤務?」

 思いの外質問じみた声音で飛び出したその声を拾い上げ、目の前の伊地知くんがはい、と答える。彼の目線の先は、主人不在の隣のデスクに向かう。私もつられてそこに視線を向けた。
 普段なら黒いノートパソコンとタブレット端末が置かれたそこには空白のスペースが広がるばかり。持ち主の呑気な笑顔も、この日は当然そこにはなかった。

「最近多忙で、よくお疲れの顔をしていたので、どこかで在宅勤務の日を作ってはどうかと提案しました。そうしたら、昨日までに無事、調整が済んだようで」

 本当であれば休んでほしいのですが、と気遣わしげに付け加える伊地知くんは、当の彼女に休暇を与えられない自らの落ち度を責めているかのようだった。彼は上司で彼女は部下。気持ちはわかるが、彼の目の下の隈を見て誰が彼を責められようか。

「そんなわけで、彼女が担当の書類の処理は明日に回ってしまうのですが、私が責任を持って渡しますので」

 伊地知くんの手が、私の手の書類に伸びてくるので、私は手を引っ込めてそれを避けた。眼前の彼は目をまるくしている。

「伊地知くんが自分宛の仕事を預かったことを知ったら、明日、彼女はきみに申し訳なく思うでしょう」
「あ……それは、そうかもしれませんが……」
「折を見て私から直接渡します。急ぎではないので大丈夫です」
「……ありがとうございます、七海さん」

 伊地知くんの表情がほっと綻ぶ。仕事の増量を回避した安堵というよりは、私の気遣いへの喜びを表す反応に見えた。気を許した相手の感謝は心地が良いものだと改めて思う。
 踵を返す前にと、私は再度口を開いた。

「伊地知くんも無理をせずに。きみが倒れたら大事です」
「はは……肝に銘じます」
「……彼女は、体調不良ではないんですよね」

 私のその言葉を聞いて、伊地知くんは二度瞬きをした。が、すぐに「さっき所用で電話しましたが、ご自宅で元気に仕事されてます」と言葉が返ってくる。
 それは何よりですと答え、私はその場を後にした。

 スマホを手に取り、ポケットに仕舞う。その動作を二度繰り返した後、私は意を決して通話ボタンを押した。
 三コール目で、いつも通りの声音が応対した。名字を名乗り、お疲れ様ですと明るい声が続く。私もお疲れ様ですと短く答えた。
 少しの沈黙が流れた後、「あの? 七海さん?」と少々不安げな声が受話器越しに届いた。

「すみません。突然電話して、要件もなく」
『あっ、いえ! 電波が悪い場所にいらっしゃるのかなって、一瞬不安になりました。そうじゃないなら良かったです。で、要件って……』
「特にないです」

 一拍の沈黙。へ、と間の抜けた声が受話器越しに耳に届く。
 伝えたいことはハッキリと言葉にしないと、彼女は悩んだ末にその原因を自らの非の中に探すばかりで、私の本心の半分も伝わらない。そんなやりとりを重ねてきたのだから、私の行動はひとつの道に向かうことになる。

「在宅勤務と聞き、少し体調を心配しました。あまり無理しないようにしてください」

 受話器の向こうから「え、あ」と、動揺がそのまま声になったような音が漏れ伝わる。
 だが生憎、私はまだ全てを伝えてはいない。

「声を聞けて良かったです。ではまた明日」

 彼女の返事を待たずに、私は通話終了のボタンを押した。
 さて、この後折り返しがくるか、反応は明日に持ち越しか。柄にもない行動と自身の変化を、彼女とだけ共有する。最近、それを少しだけ楽しんでいる自分がいることを、当事者である彼女すら、まだ知らない。
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