百鬼夜行から四日が経つ。
 事務的な後処理の量は膨大で、まだゴールは見えない。終電まであと一時間という時刻に、わたしは背もたれに身体を預けて溜息をついた。
 静寂そのものの事務室の中、遮光カーテンの僅かな隙間の向こうの暗闇に、不意に寒気を覚えた。きっと外は寒いだろう。

「……、お疲れ様です」
「……えっ、え? あ……、お疲れ様です」

 背後からかけられた低く明朗な声音に、わたしは驚き肩を跳ねさせた。振り返ると、扉の横に七海さんが立っていた。
 そういえば、今日の彼の任務は深夜帯だ。特に呪詛師絡みの任務は昼に動きがないことも多い。仕方ないとはいえ気の毒に思い、わたしは思わず眉をひそめた。もうすぐ同伴の補助監督も出勤してくるだろう。

「残業ですか? もう十時を過ぎましたが」
「あ、ええと……仕事が終わらなくて……」

 馬鹿正直にそう答えながら、七海さんが現れた理由を考える。始業前の時間をここで過ごそうと考えたのなら、わたしの存在は想定外だろう。
 無意識のうちに「すみません」という言葉が口から漏れ、今度は七海さんの眉間に皺が寄る。

「なぜ私に謝るんですか? ここはあなたの仕事場でしょう。私に謝る必要性がない」
「そ……そうですけれど……」
「明日も出勤ですよね。早く帰って身体を休めないと、かえって業務効率が落ちるのでは」

 七海さんの言葉を聞いて、わたしは口を噤んだ。ぐうの音も出ない正論に、返す言葉もない。
 徐々にわたしの視線が足元に落ちていくのを、七海さんはちらりとだけ見て、どうしてかわたしの後方のデスクの椅子に腰を下ろした。七海さんの大きくて凛と伸びる背中を、わたしはじっと見つめる。

「それだけ忙しいんですね。人手もないでしょうし」

 七海さんはわたしの顔を見ずに言葉を続けた。わたしははいと答えた後、どうして良いかわからず、再びデスクに身体を向ける。

「大丈夫ですか」

 キーボードを打とうと動かそうとした指が、金縛りにあったようにピタリと止まる。途端に震え出した唇を、乾いた手で押さえた。

「……忙しくしていないと、涙が出そうになります」
「そうですか」

 七海さんが返事をくれた。わたしは会話を続けた。

「どうせ仕事は山のようにあるし、わたしがやれば他の人も少しは負担が減るし、わたしは気が紛れるし、だから、いいかなって」
「はい」
「百鬼夜行で亡くなった高専関係者の方のご遺族に、連絡を取るんです。色々な人がいますね」
「…………」
「仕事が嫌なわけじゃないんですけど、ちょっと連勤で疲れてしまって、……すみません、話を聞いてほしいってわけでもなくて、……あぁ、ごめんなさい、意味がわからないですよね」

 声に涙が滲んで、取り繕うようにへらりと自嘲的な笑みを混ぜる。気まずい沈黙に心臓が高鳴る。ふと顔を上げると、わたしの後ろに立った七海さんが、泣きじゃくるわたしの顔の横に、紺色のハンカチを差し出していた。

「気の利いた言葉はわかりませんが、あと二十分、ここにいることはできます」

 七海さんはそう言うと、デスクにハンカチを置いて、再度背後の椅子に腰掛けた。
 ハンカチを手に取ると、それが合図かのように、わたしの涙は勢いを増した。嗚咽混じりに次々に紡ぎ出される弱音の数々を、七海さんはただ聞いていた。それだけの夜。わたしにとってはクリスマスなんかよりずっと、特別な夜だった。
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